光嶋さん_永山さん_結衣ちゃん_

第4回:光嶋裕介さん・永山春菜さんご夫妻(前編)

 この連続インタビュー『困難な子育て』は、思想家であり武道家である内田 樹氏が主宰する合気道道場兼コミュニティスペースである[凱風館]の門下生や関係者の皆さんの中で、現在子育ての真っ最中の方々——それもさまざまな職種や立場の——に、個々の子育ての実践やそこから得た知見、子育てにおける想い、子育てをされている方へのアドバイスなどをお話しいただくことで、少子化が先見課題であるにもかかわらず子育てがいささか困難になっているこの国の現在の、「子育てのかたち」や「子育てという営為の本質」について見つめ直していこう、という試みです。
 なお内田 樹氏の呼称については、[凱風館]に出入りしている方々の共通の呼称である「内田先生」に統一します。

聞き手・構成:堀埜浩二(説明家)

 この連続インタビュー企画の最後にご登場いただくのは、光嶋裕介(こうしまゆうすけ)さんと永山春菜(ながやまはるな)さんのご夫妻。光嶋さんは凱風館を設計した気鋭の建築家。永山さんは神戸女学院合気道部の16代目主将を経て、凱風館の書生第1号になったという、まさに「凱風館の申し子」というべきお2人です。ご長女の結衣(ゆい)ちゃんと3人で暮らしていらっしゃる、凱風館の近くのお住まいを訪ねてお話をお聞きしました。

夫:光嶋裕介さん

1979年、米・ニュージャージー州生まれ。建築家・一級建築士。神戸大学客員准教授。2002年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。2004年、同大学院修士課程修了。2004〜08年、独・ベルリンの設計事務所[ザウアブルッフ・ハットン・アーキテクツ]に勤務した後、2008年に帰国して[光嶋裕介建築設計事務所]を主宰。著書に、凱風館の成り立ちを綴った『みんなの家。 建築家一年生の初仕事』(アルテスパブリッシング・2012年)や、『ぼくらの家。 9つの住宅、9つの物語』 (世界文化社・ 2018年)などがある。公益財団法人合気会 弐段。

妻:永山春菜さん

1986年、兵庫県高砂市生まれ。合気道家(公益財団法人合気会 四段)、凱風館助教。2008年、神戸女学院卒業後に[合気道高砂道場]を主宰、現在も継続中。2011年より、凱風館の書生(1号)を務める。


家事は「ギブアンドテイク」の遠距離時代

——お2人の馴れ初めは、凱風館が立ち上がった初期の頃の佳話の一つだと思っているんです。ある朝、永山さんが道着姿で凱風館の前を掃除していらっしゃった。朝陽に浮かびあがったそのお姿を光嶋さんがご覧になって、「なんて美しいんだ…」と感動して、「お嫁さんにしたい!」と猛アタックしたんですよね。
永山さん
(微笑)
光嶋さん その頃、まだ僕は合気道を始めていなかったんです。『みんなの家。建築家一年生の初仕事』という本にも書きましたけど、内田先生と打ち合わせをして、凱風館を設計して建てた。それまでも頭ではなんとなく分かっていたんですが、「ここが本当にみんなの家なんだなぁ」っていうことを実感したのは、彼女のその姿を見た瞬間とも重なっているんですね。「こうやって、みんなでこの場所を守り、稽古をしてるんだなぁ」って。そこに、私も仲間入りすることになるんですけど。

——光嶋さんは、凱風館が建ってから合気道を始めたんですか?
光嶋さん
 そうです。凱風館が2011年の11月に完成して、翌月の12月に入門しました。

——じゃあ合気道に関しては、永山さんが大先輩。
光嶋さん 大大先輩です。凱風館に入門してすぐの、2012年のお正月に凱風館で行われた「第一回ちはやふる大会(百人一首)」にペアで参加して。以来この大会には、2人揃って皆勤賞です。でその後、3月4日から結婚を前提としてのお付き合いを始めて、ちょうど1年後の2013年の3月4日に入籍しました。結婚式はそれから半年後の9月29日に神戸女学院のソールチャペルで。それ以来、凱風館のありとあらゆる行事に参加していますね。

——永山さんの光嶋さんに対する第一印象は?
永山さん 正直、あまりよく覚えていないんです。凱風館を設計した建築家の方なんだなぁ、というぐらいで。
光嶋さん そういう感じも含めて、彼女で良かった、間違ってなかったと思ってるんです。「建築家ってなんかカッコいいやん、素敵な仕事をしている」みたいなところで気にかけられたり好かれたりするのは違うだろう、と。本人を前にして言うのもなんですけど(笑)彼女はとにかく常に自然体で。僕がグイグイと行くのを、次第に受け入れてくれたような感じです。

——今のこのお住まいには、何年ぐらい?
光嶋さん
 丸6年ですね。2013年の入籍とともに、2人でここで住み始めたので。

———2人で住み始めて、ここで結衣ちゃんが生まれて。
光嶋さん そうです。入籍したのが2013年3月なので、ちょうど6年。その1年前から付き合ってはいましたが、その間は遠距離交際で。僕は東京の目黒に、彼女は神戸の御影で小さなマンションに住んでいました。

——御影だったら凱風館まで歩いて通える距離ですね。
永山さん
 はい、歩いて15分ぐらいでしたね。神戸女学院には高砂の実家から通っていたので、卒業後数年して凱風館の書生になることが決まってから実家を出て、御影で一人暮らしを始めたんです。

——入籍した当初はどんな感じでしたか?
光嶋さん 僕は当時、東京の大学で助教という肩書きで専任として教えていたので、月曜から金曜までは東京に居ないといけなかった。それで週末には神戸に戻っていたので、週末婚みたいなかたちで最初の2年間は過ごしていました。結婚する時も、「2015年の春で東京の大学の任期は終わるので、そうしたらこっちをベースにできるから」って言って。だから結婚する時にここを借りたんですけど、ずっと一緒に暮らせるようになったのは、2015年の春ぐらいからです。
永山さん だから最初のうちは、ここにも「お客さんとして来る」って感じだったんです。ここは私のお家で、そこに光嶋さんがお客さんとしてやって来るみたいに。
光嶋さん 僕にしてみれば2拠点生活みたいなもので、目黒がホーム、こっちはアウェーみたいな(笑)今も目黒では炊事や洗濯も全部1人でやってるので、ここに帰ってきた時は迎えてもらおう、と。
永山さん 炊事もちゃんとしてるの?
光嶋さん あ、東京では外食が多いから、実は炊事はあんまりしていない……。

——1人だと外食になりがちですよね。
光嶋さん いずれにしろ、学生時代から一人暮らしには慣れているので、別に家事全般はなんの不自由もなくできるんですけど。でもここに帰ってくると、それをオフにさせてもらっているって感じでしたね。

——光嶋さんは手料理が自慢で、お家に友達が来た時には料理を振る舞って……という話を聞いたことがあります。
永山さん 誰か来た時にはお料理をして、家事ができることをアピールするんですよ。で、片付けは全部、私の仕事になる。
光嶋さん ええカッコしいの僕が得意のアボカドサラダやパスタとかを作っていると、あたかも「毎日やるの?」ってツッコミが入る(笑)で、料理作ったのは僕だから片付けはお願いしますって。ギブアンドテイクですよね。
永山さん 人前ではいつもおいしいところは、全部持っていくんです(笑)

——私は永山さんのツイッターのファンなんですけど、夫婦間の微妙なズレについて、いつも絶妙のタイミングでツイートされますよね。光嶋さんのツイートに、抜群のツッコミを入れたりとか(笑)お家でもそんな感じで2人で話をしてるのかな、とか想像しますけど。
永山さん 私は普段通りで、あまり変わらないです。光嶋さんはツイッターでは、たぶん猫をかぶっています。返信するのも、なんだかオフィシャルな感じで。
一同 (笑)

——永山さんは、女学院を卒業するまでご実家にいらっしゃったのなら、家事はそんなにしなくてもよかったのでは?
永山さん そうですね。

—— 一人暮らしするようになって、急にいろいろしないといけなくなった。
永山さん 自分のことももちろん、週末にやって来る光嶋さんのことも。
光嶋さん 家事の中には、毎日の道着の洗濯もあるので。

——道着は何着もあるのでは?
永山さん
 もちろん何着もありますけど、やっぱりいつもキレイな状態でないと。
光嶋さん 僕なんかは2、3回なら洗濯しなくても大丈夫だと思うんですけど、私が洗うから全部出せって。

昇段審査を終えて、落ち着いて出産へ

——光嶋さんの東京の大学の任期が終了して、2人でこのお住まいで落ち着いて暮らすようになってから、わりとすぐに「子供がほしいね」みたいな感じになったようですが、どちらかから言い出したのでしょうか?
永山さん そこは自然な感じだったんですけど、私が合気道の四段の昇段審査を受けるタイミングでもあったので、昇段審査が終わってから落ち着いてって。
光嶋さん ちょっと説明すると、四段の昇段審査は、師範やみんなの前で実技するというかたちの審査の最後なんです。凱風館では春と秋に昇段審査があるんですけど、合気道の世界ではすごく大切な節目であって、それより上段の五段や六段、七段というのは、師匠から肩を叩かれて昇段することになるので、実技審査というのはなくなるんです。
永山さん 2015年の3月に四段の審査があったんですけど、そこで妊娠していたら、審査は受けられない。だから、それまでは妊娠はしたくないって言ってました。

——そして無事に四段になった。次はいよいよ子供です。
光嶋さん そういう意味では、計画通りの出産でしたね。僕は「結婚する」ってなった時に、自分の両親や自分の育った家庭しか知りませんでしたから、同じようにやっていくつもりだったんです。僕の父親は大手家電メーカーのサラリーマンでしたが、高度成長期だったので海外でブイブイ言わせながら、バリバリ働いていた。父の仕事の関係で、僕はニュージャージー州で生まれましたし。一方で、母親は専業主婦なので常に家にいて、英語はあまり話せませんでしたけど、家のことはもちろん、子供の送り迎えとか、必死に頑張ってやっていました。僕はそんな環境で育った男ばかりの3兄弟の真ん中ですから、とにかく結婚に関しては自分の親、つまりは父親のやり方、父が平社員時代に社長秘書だった母親を口説いて結婚したというストーリーも知っていたので、理想の女性をゲットして家庭を作るというところから、父と同じスタイルで行こうとしていたんです。

——お母さんは社長秘書だったんですね。
光嶋さん 社長秘書で、テキパキ仕事をする人だったようですね。父がそんな母を猛アタックで口説き落として結婚したと聞いていたので、僕も、とにかく大人としてしっかりしないと結婚できないって、ずっと思っていました。彼女と出会った時に、「あ、この人だ」と思って結婚したので、家族を作りたくて最初から「早く子供が欲しい」と思っていました。
 こと子供に関しては、自分が男ばかりの3兄弟だったのでとにかく息子が欲しい、僕が父親にしてもらったことを息子にしてあげたいという想いがあったので。だから結婚当初から「息子が欲しい」っていつも言ってました。「結婚当初は週末婚みたいなかたちだし、子供はずっと一緒に暮らせるようになってからやなぁ」とか言ってて。それで2015年の春に台湾で僕の本が翻訳されることになって、一緒に台湾に旅行に行ったんですけど……。その時には、既に妊娠してたんだよね?
永山さん うん、そうですね。台湾では出版社の方々に美味しい料理を振る舞ってもらったんですけど、あまりお酒が進まなくて、おかしいなって感じていたんです。

———妊娠した時は「子供ができました」ってすぐにお話しされたの?
光嶋さん 彼女は自然に任せていたので。「毎月来るはずのものがちょっと来ない……」という話を聞いて、「よっしゃ!」って(笑)すぐに僕が近所の薬局へ走り、妊娠検査薬を買ってきて、「はい、これで調べて」って。

——さすがの前のめり(笑)子供ができたってはっきりと分かった時は、どんな感じだったんでしょうか?
永山さん 正直、実感はなかったですね。月のものが来なくて、すぐに調べてみて反応が出たので、産院に行って診てもらったら、「できてますよ」って言われたけど、まぁまだ……。でも、それから2週間ぐらいしてから、すごく体調が悪くなったんですよ。それで、「あ、本当にできたんだ!」ってすごく自覚して。

——体調が悪くなったっていうのは、つわりとか?
永山さん もうとにかく、つわりがひどくて。お稽古に行ったり、一応は普通に過ごしていましたけど、ずっと吐き続けていたので、ご飯が全然食べられなかったり。このままだと自分はどうなるのかなぁって思って。でも、道場のお仲間にお医者さんもたくさんいらっしゃって、相談したらすぐにその先生のクリニックで診てもらえたりして、ちょっと安心しました。
光嶋さん とにかく体調がヘヴィなのが明らかだったので。さっきの話に戻りますけど、それまでは友達とか家に呼んで、僕が料理したら「俺が作ったんやから皿洗いは春ちゃんね」っていうギブアンドテイクな感じが夫婦間にはずっとあったんですが、妊娠してつわりがひどくなった時期から、「あ、これはあかんわ」って。フラジャイル(脆い・か弱い)なものとして、扱わなくてはいけなくなった。彼女の体調が不安定だから、「今日は俺がメシを作ったんだから皿は洗ってくれよ」とか、「俺が洗濯したから畳むのはお願いね」とかっていう、ギブアンドテイクではダメだとはっきり感じました。大事なのは、母胎をケアしながら、お腹の中の赤ちゃんがしっかり育つこと。家事を分担したり、交換したりするのではなく、ただただ弱い者に寄り添うこと。レンタカーを借りて一緒に産婦人科に行ったりとかは、もう当たり前のことでした。今になって思うのは、妊婦のサポート段階から、子育てを10カ月間練習しているっていう感覚ですね。そうなると、息子が欲しいっていうのも、自分の勝手な妄想でしかなくて。いざ生まれたら、こんなに小ちゃい、か弱い存在の愛すべき赤ちゃんが……。

——赤ちゃんって、ほんとにフラジャイルですからね。出産は高砂のご実家に戻らずに、近くの病院を探して?
永山さん 神戸の大学病院でした。
光嶋さん 出産の立ち会いはしていないんです。帝王切開だったので、待合室でひたすら待ってましたね。待合室は階が違ったので、ずっとエレベーターの前で待っていて、扉が開く度に「あぁ、違う違う」って(笑)彼女はその時はもう身体がボロボロだったので、生まれてきた結衣ちゃんを抱っこしたのは僕の方が先です。
永山さん 手術室に歩いて入って15分ぐらいで産まれたんですけど、産んでから丸一日、吐き気がおさまらなくて完全にダウンしてしまって。人生で一番しんどかったです。産まれた直後に看護師さんが赤ちゃんを見せて、私の左頬に赤ちゃんの右頬をくっつけてくれて、嬉しくて涙したんですけど、その後は嘔吐が続いて苦しくて、赤ちゃんに会おうとも思えなかった。
光嶋さん 11月13日の朝に結衣ちゃんが生まれて、彼女が初めて抱っこしたのは14日の朝です。13日は丸一日ぶっ倒れていて。僕が持っていた母親のイメージだと、生まれてすぐにいきなり母性満開で、おっぱいをあげて……とか思っていたんですけど、もう全然それどころじゃなくて。「春ちゃん、会わなくていいの? めっちゃ可愛いよ」って言ったんですけど。

——永山さんはとてもじゃないけど、赤ちゃんのことを考える余裕なんてなかった。
光嶋さん 僕はもう「うわぁ小さいなぁ、めっちゃ可愛いなぁ」って親ばかモード全開。で、看護師さんに「じゃあお父さん、最初の10mlあげてください」って言われて、僕がミルクをあげて。
 まあつわりがひどかった頃から彼女は痩せ過ぎで、生まれる前もお腹はぽっこりしているのに、ほとんど妊娠前の体重のままだったんですよ。生まれてからもあまりに心配だったので、「2カ月でも3カ月でも高砂の実家に帰っていいよ」って言ったんですけど。彼女の希望もあって、1週間で退院したら、もうすぐにここで子供と3人の生活が始まりました。

胎名「凛ちゃん」が、生まれてみたら「結衣ちゃん」へ

——女の子が生まれて、名前を付ける時は2人で相談しましたか。
永山さん いろいろ話し合いました。良いなって思うのがあれば書き留めといて。

——出生届を出すのは、産まれて2週間以内でしたっけ?

光嶋さん そうですね。病院では「光嶋春菜ベイビー」って、お母さんの名前でした。
永山さん 生まれてくる前までは「凛(りん)ちゃんって名前が良いね」って、お互いに言ってて。エコーで見た感じが鈴みたいだったので。「漢字一文字が良いよね」とも言っていたから、お腹にいる時はずっと「凛ちゃん」って話しかけて。でも生まれてきたら、顔が全然「凛ちゃん」って感じじゃなかったんです(笑)
光嶋さん 当時ちょうど、ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジカン)のステージデザインの仕事をしていたので、一緒に北海道に行った時にもお腹の中の赤ちゃんにアジカンを聴かせて、「凛ちゃん、ゴッチ(後藤正文)やで」って(笑)そんな風に話しかけて胎教していました。でも生まれた翌日に、遂に赤ちゃんと初めて一緒に対面して、じっと見たら、お互い見合って「ん? なんか凛ちゃんと違うなぁ」って。

——顔のイメージが違った?
永山さん イメージというか、何かもう、全然違った。
光嶋さん なんだか凛ちゃんではないって。

——こんな子っていうような画像が、なんとなく2人の間で共有されていた?
永山さん いや、顔までは想像していなかったんですけど。

——でも「違うよなぁ」というところで意見が合うっていうのが……。
光嶋さん そう、2人で一致したんですよ。これはなんだか違うなぁって。

——それで「結衣ちゃん」に至るまでには、ちょっと考え直そうって。

光嶋さん でも結構早かったよね。
永山さん 早かった。お互いに好きな漢字を出し合って、漢字一文字っていうのが何となくあったので、「結」って字が良いよねってなって。最初は「結」の一文字で「ゆい」ってしようかとなったんですけど、漢字で「光嶋 結」って書いたら、これもちょっと違うかなって思って。
光嶋さん 漢字の字面が違うかなって。占いとか、姓名判断に見せたとかじゃなくて。

——お2人のお名前も4文字ですしね。
永山さん じゃあ 「結」に「衣」を付けようかって、わりとすぐに決まりました。
光嶋さん 私たちは合気道で結ばれましたし、合気道というのは2人1組でやるので。技をかける方と受ける方と、その接触点である結び目を「気の結び」と言うんですが、彼女にもご縁を大切にして、人と人を優しく結びつけるような人間に育って欲しいと思いました。それが「結」の語源です。

——結衣ちゃんが大きくなって、いつかのタイミングで、「私の名前はどうしてこの漢字なの?」って訊かれた時に、かなり明確に説明できますね。
光嶋さん 説明できます。周りの同世代は子供が生まれる時、みんな画数を見てもらったりしてますけど、うちはそういうのを全くしていない。「凛」も「結衣」も、全く見てもらってないです。もちろん内田先生に名付けてもらおうかなぁ、という気持ちもどこかにあったかもしれませんけど、2人で納得して「凛ちゃん」って言い始めた時から、「これは親としての僕らの大切な最初の仕事や」って思って。あと結衣ってイニシャルはYなので、頭文字が「Y.K」で僕と揃うのも嬉しかったり。
——そこも自分寄りにグイグイ、なんですね(笑)

後編に続く)

 

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希望をカタチにして届ける小さな出版社。この連続インタビューは武道家・思想家の内田樹先生の合気道道場・凱風館の門人の方々の子育てから「子育てという営為の本質」を見つめ直す試みです。この連載と内田先生もご参加頂いた子育てフォーラムの内容を書籍化。全国の書店、Amazonなどで発売中。

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