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出会うことと救われたこと

大事にしたい言葉を持っている。「たしかにそこにいるけれど、そこにいない」という言葉と、「それでも悲しむことはない」という言葉だ。いつから持っているのかは覚えていないし、自然と思っていたのかもどこかで見かけた言葉なのかもわからない。だけど、気がついたら自分の中に残って消えない言葉になっていた。
この言葉をたどっていたら、後から、「たしかにそこにいるけれど、そこにいない」というのは偶有性の話で、「それでも悲しむことはない」というのはニヒリズムと戦う話なのかもしれないと気づいた。
名前が見つかる感覚はいつも不思議な感覚で、普段から、このもやもやに名前が見つかったらいいなと思いつつも、でも名前が見つかっても何も変わらないということもわかっている。けれどももちろん、名前が見つかると、そのヒントを提示してくれたその本や展示会やアートや人が、かけがえのないものとして私の中に残る。
たとえば、私は特定の神様を持っていない。けれど、神様を信じていないわけではなくて、いつも節目節目の大事なときや、どきどきしてしかたないときなどに、私の方法で(両手の人差し指をクロスさせるもの。万引き家族を見ていたら、みんなそういう方法を持っているんだなと思った。)神様に話しかけている。特定の神様を持っていないけれど、私の神様はいるんだ、という感覚。名前がまだないというか、まだ姿を見つけていないというか、もしかしたら、未来に偶然見つけた石に神様を見たりするのかもしれないなんて思う。

そんなものが私の中に沢山ある。それらを、名前や姿をきちんと捉えていないけれど、ぼんやりそのまま前に進むのではなくて、もっと扱える形にしたいと思った。モンテーニュのエセーでの試みは、「逃走の迅速なのを私の把握の迅速さで引き止めたい」だった。だから、そのために今の私の問題意識を、文章を書いた。自分の書いた文章に背中を押してもらった経験は初めてで、とても励まされた。アートに救われるって、という問いのヒントをもらった気がした。
私の問題意識。”ばらばら”であったり、”個”であったり、”過去や未来の喪失”であったりいろいろな言葉がある。それに係る文章を残したい。


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現代は個の時代だと言われている。そのような中で哲学も、個の存在を強固とするものが歓迎されているようにみえる。例えば、2013年に発表され、日本でもベストセラーになっているマルクス・ガブリエル著の「なぜ世界は存在しないのか」という本がある。この本は「新しい実在論」を主張するもので、「いわゆるポストモダン以降の時代を示す哲学的態度を記述する」ものとして注目されている。本書の主張は明確で、「世界は存在しない。しかし、世界以外のすべては存在する」というものだ。つまり、全てを包摂する「世界」なるものは存在しないけれど、人それぞれの認識は否定されることなく全てが存在するという考えだ。彼に言わせると空想上のユニコーンも存在する。
この考えは、多様化する価値観の存在を支持するものとして歓迎されているようにみえる。しかし、個の認識がはっきりと独立して存在するということが、つまり他者は自分とは全く別の認識を存在として持つということが、他者を理解することなど幻想であり、他者と意味を共有したり連帯したりすることも不可能だというニヒリズムにつながる可能性もある。
ニヒリズムに陥るだけではない答えのヒントは、いつでもアートがいちはやく提示しようとしている。先日、清原惟監督作品「わたしたちの家」という映画を見た。映画では、セリが登場するストーリーと、さなが登場する2つのストーリーが描かれるけれど、2つのストーリーで描かれる生活や時間や場所は全く別個のものとしてそれぞれが存在している。それでも映画の中でこの2つのストーリーが“すれ違う”ことや“出会う”ことをする。それが“錯覚”や“編集”によるものだとしても、そこにとどまらない互いの影響を見ることができる。上妻世界の「Malformed Objects:無数の異なる身体のためのブリコラージュ」展では、コラージュははっきりと出会いで、つながりのない作品同士のつながるかもしれない可能性が提示されていた。ガブリエルの<全ては存在する>とする必然的な結果に対して、<存在しないかもしれない、けれど存在している>という偶有的な結果がそこにあった。
社会学者の宮台真司はアートを、「人に傷を負わせるもの」と表現した。触れたものに傷を負わせるので、触れる前と触れた後は別人であり、触れる前には戻れなくなるもの。それをアートと評した。人は他者を理解できるということは幻想なんだと思う。個は自身の輪郭を益々強めていくんだろう。しかし、それでも決して悲しむことはない。人は出会うことで驚き、目眩し、感染し、模倣し、引用する。思い出したり、リスペクトしたり、連帯したりする。アートを通じて、人は他者と出会うことができる。
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私はTwitterがすごく好きなんだけれど、タイムラインがひとつの世界であったり、ひとつのアートであったとして、RTしたり引用RTすることで、いろんな世界が挟み込まれるのが、なんだかいいと思う。

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