集団の顔と個人の顔、その両面をいいように使い分けることの幼稚さ

ツイッターの「伝わってほしい」という表現に腹が立つ。というのも、伝える主体がそのことを放棄し受け取り手の寄り添いに期待しているからである。主体たる個と客体たる他者の境界を曖昧にしたうえで、個の意思表示だけはしようとする身勝手さ、幼稚さ、一貫性のなさが腹立たしいのである。しかもその意思表示に伴う責任からはすり抜けようとしている。

人に甘えるのは構わない。他者と自分を比べて不平を言うのも構わない。皆が同一にならないと気が済まないことも構わない。他者の反応を前提とした生き方を否定するわけでは決してない。しかしその生き方を真に望むなら、その中で自我を主張してはいけない。

何故ならそれは、状況に応じて全体と個を使い分ける、身勝手で幼稚で一貫性のない行為だからである。社会に与するなら同一の他の存在がいるという安心感と引き換えに自分の意志を失うことを、与さないのなら自由が認められる代わりに孤独に向き合わねばならないことを認識する必要がある。

しかし社会と個人は本当に対立する存在なのだろうか。我々個々が見つめる社会(もっと言えば我々が目にする現実全て)は、個々の思考のフィルターを通じ脳内に映し出された存在である。思考のフィルターが違えば元々のものが同じでも当然見え方は変わる。

何かについて論議を行うとき、争っている者同士は同じ対象を見ているとよく勘違いをしてしまうが、実際のところ我々が認識している現実は個々で異なるのである。平行線をたどる非建設的な論議の原因のすべてはこれに由来している。それぞれで見えている世界は違うのだ。

「個」や「意志」を尊重した生き方をしたいのならば、ここで重要なのは他人がどの様に現実を見ているかではない。自分が現実をどのように見ているかなのだ。自分の見方が変われば、社会も追従して変容するのである。これは屁理屈でも何でもなく、事実である。

納得ができない人こそ、他者との比較、他者の評価や視線を基準に自分の人生の価値を決める人間だ。自分が社会にどれくらい影響を与えられるかでは悩む必要はない。自分が変わることは社会を変えることと同義なのである。孤独を見つめ、自分を変えていくことのできる人間こそ、自分を、社会を変えていくことが出来る。

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