人を評価するものは、結局は自分自身について述べている

震災に寄せてこの曲は作られました、被災者の方を元気づけるために・・・などいう表現はあまり好きではない。元気づけるという行為があまりにも高圧的だし、普段から元気づける、人に寄り添うような歌を歌う人はわざわざそういったことにインスパイアされて書くようなことはない。そういったときに評価される歌があるだけの話である。

中島みゆきのある曲が震災に寄せて書いたものだ、と述べているブログを見たが嫌いだ。浅はかすぎる。自分の目線でしか中島みゆきを見れていない。そう感じた。

自分が歌を聴いて、あるいは何かしら他の経験をして気付いたことを勝手かつ無意識に中島みゆきが思ったことに挿げ替えている。その考えは本人のものである。中島みゆきは震災が起きたからと言って初めて人の優しさに気づくような人間ではない。そのずっと前からその大切さを謳ってきた人だ。もし震災で中島みゆきが気付いたことがこの歌で歌われているのだと思ったのだとしたら、気付いたのは紛れもなくブログ著者本人である。

他人を評価するということは、他人の人格を無責任、無思考に決めつけるだけでなく、そういった評価しかできない自分の尺度の足りなさを露呈する行為である。

他人は自分を写す鏡という言葉は、端的かつ核心を突いているのだ。

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