「情報化社会」に思うところ

概要
無料で情報が手に入り、簡単に拡散でき、匿名で批判できるSNSと呼ばれるネットワークサービスは、個々人が無思考で使用する限り、当人だけではなく社会全体のレベルをも止揚していく事はできないと思う。あと、匿名に隠れて他者を攻撃している奴は、どんな理由があろうとも、卑劣でダサい。

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インターネット普及以前、無料で与えられる「大衆好みの」情報源の多くはテレビが担当していた。五感のなかで視覚がほかの感覚器より圧倒的に情報量が多いことを加味すると、テレビの持つ情報拡散力、影響力は他のメディア媒体に比べ凄まじい物であったであろう。そして2000年代に入り、インターネットが家庭に広く普及し、我々は時空間の異なる出来事をあたかも目の前で見ているかのように能動的に経験することができるようになった。この技術が本当に様々な分野に応用され、我々の生活を助けているのはもちろん想像に難くないし、むしろ想像の上をいくことだろう。
そのようなインターネットの中で我々一般人が最も多く利用しているツールの一つがSNSと言える。基本的に無料で誰でも使えて簡単に情報を受け取り、さらには簡単に情報を発信できる。素晴らしいツールであるが、自分は我々がただこの利便性に甘え、無責任、無思考に使い続けるようでは、個々人の人生に良い影響を与えることはないと思う。むしろその逆で人の思考力、国、文明を退化させ低レベルに画一化された社会を作り出すのではないかとすら思う。
その理由を、情報の受信と発信の二つの面から考えていく。


無料で情報を入手できること
先ほど情報化社会の未来が嘆かれると書いたが、情報化社会には情報化社会なりの素晴らしい未来があるという考える人もおられるだろう。実際国民ナンバーが導入され、役所仕事の効率化が社会にもたらされようとしているのは事実だ(追記:コロナ禍における給付金申請を見るにそれも怪しいが)。しかしながら、一見情報化されたこの社会において、一般人が情報収集のためにアクセスできる、あるいは実際にアクセスしているサービスは無料のものがほとんどである。しかもその情報源が不透明だ。SNSに散らばっている情報が、これまでは金を出すことで得られた教育、書籍から得られてきた知見に、情報の価値、正確性いずれにも於いて代替しているとはとても考えられないし、その一方で情報とは無料たるものという考えが一般化しつつある(違法漫画サイトが違法だと思っていないものが増えている事からも伺い知れる)。これではネットが普及するたびに情報の質も価値も下がる悪循環になってしまう。娯楽も 同様で、今やゲームは基本無料の時代である。はっきりいって、いわゆるソシャゲがルーチン作業が多くゲームとしても面白くないのはそもそも無料だからである。基本無料という枷が制作サイドには課金を促すシステムを助長し、ユーザーサイドには無料が基本という考えが広まることを増長しているのだ。
しかし逆説的に捉えるならば、だからこそお金を払って得られたものは信憑性や価値があり、また自らお金を払ったことがその情報を自分のものにする意欲になるとも言える。実際、情報セキュリティという価値のある情報の扱い方の三原則は機密性(アクセスを認可された者だけが情報にアクセスできるようにすること)、完全性(改竄されていないこと)、そして可用性(許可された利用者が必要な時に情報資産にアクセスできること)であり、これはまさにSNSとは対極をなす情報のあり方だと言える。

そう考えると、いわゆる情報化社会は表面上に安いほぼ無価値な情報を塗布しただけの、これまでの社会と変わらないと考えてもよい。そしてここを渡り歩いていくためには、上辺だけに塗布された大衆好みの情報に流されないような、今まで以上に確固たる自分の意志といったものが必要であることがわかるだろう。飲み込まれれば大衆の一因となってしまうのだ。没個性の時代とはよく言ったものである。

無責任・無思考に情報の発信ができること
無料かつ匿名でSNSを利用できるということは、責任の所在が曖昧だということである。個人が間違った情報を受信し自爆するのは構わないのだが、問題となってくるのは間違った情報、誤解されかねない情報をSNSで発信してしまうことである。有料であったり発信者の情報を明らかにした情報であれば、その分発信者に正確な情報を提示することが求められるが、この場合そうはならないのである。この無責任さが一番単純な形で露呈されるのが誹謗・中傷や愚痴、クレーム等といった物事へのネガティブな反応である。今日日、嫌なニュースが増えたとよく言われる。常に誰かが誰かを糾弾している。悪事ばかりがニュースになる。ブラック企業やハラスメントが声高に叫ばれる。首相に文句を言うばかりの人たちがいる。SNSやインターネットがなかった時代、人々はこのようなネガティブな感情を持たなかったのだろうか。自分はその世代の人間ではないが、当然持っていたことだろうと推察する。しかし、それらが表出する機会はごく限られていた。なぜなら個々が持っている思いを伝える術は、他人に面と向かい合って話す以外に無かったからである。要するに文句を言う人や機会が少なかったのであり、だからこそ無礼講なるものが開かれていたのだ。インターネットの匿名性はこの人間性のタガを外してしまった。もはやモラルという言葉で抑止される問題では無くなってしまっているのである。

面と向かい合って自分の意見を話すと言うことは、その発言の責任を負うことだ。最近は嫌なニュースが増えたとよく聞く。世の中の犯罪の数が爆発的に増したわけではなく、そういった情報が多く発信されるようになったのだ。そしてそのような無責任に発信されるネガティブな情報を大衆は喜んで享受している。SNSの台頭により、人は人に面と向かわずとも物を言える時代になったからだ。簡単に人を傷つけられる世の中になってしまったのである。だからこそ、実世界と同じようにインターネット上でも責任感を持った発言を心がけねばならないのだ。

このようなことを述べると、必ずある反論がある。インターネットは自由だ、とか、そんなこと言ったらなにも言えなくなる、などである。
こんなものはインターネットリテラシー以前の問題で、自由ならば他人を傷つけても良いと勘違いしている犯罪者に他ならない。なにも言えなくなるような人間はそもそも発信に値する思考力、想像力が足りていないのだ。犯罪者や子供に包丁を持たせるだろうか。他者に危害を加えたり、精神的に未熟な者は社会に野放しにできないという意見は君たち自身が標榜しているものだろうといつも思う。

人間とは誰かを傷つけながら生きていくものである。他人を傷つけずに生きていく人間など存在せず、ただ相手をどれだけどのように傷付けるかの違いがあるだけだ。そしてそのことに気づかない人間をバカと言う。自分はネガティブな感情を持つこと自体は否定しない。だが、それをコントロールすることが人間性を保つことであるし、モラルという不文律でそれを操れない者は危険だということは声を大にして伝えたい。

勿論、人が持つのはネガティブな感情だけではない。笑いや共感、感動といったポジティブな感情もあり、当然それに準じた情報も発信される。自分も面白い人、興味深い人が好きだ。そんな人と話せば自分の見識が広がるし、もっと近づこうと思うから自分もより面白い情報を発信しよう思える。

自分がここで問題視したいのはこの発信された情報を、SNSで受け取った者が自分の投稿として簡単にシェア(リポストやリツイート)できてしまう点である。このことは無責任だけでなく無思考な情報の発信につながってしまうと考えている。何故なら、全く知りもしなかった他人の経験、考えをなんの迷いもなくあたかも自分のものとして投稿できる機能だからだ。さらっと見聞きした、新しいイデオロギーに感動して、すぐさま飲み込まれてシェアをするということは、自分は無知で、無思考であることを公言しているようなものだと思う。さらに、シェアすることで自分がその内容を追体験したと簡単に感じてしまうのが難しい点だ。
別にそのような記事を読んで感動するのがいけないわけではない。ただ安直にその記事を自分の考えであるかのようにシェアすることが問題なのだ。人はそれぞれ経験のバックグラウンドが異なる。だから個性があるのだ。その個性を無視し他人の考えを突然、無理やりに自分に接ぎ木することなど出来はしない。重要なのはシェアすることでなく、受け取った情報を自分の中で育てて、それから発信することなのだ。

さらに、これは補足的な内容だが、シェアは受け取り手の経験のバックグラウンドを無視した、画一的で暴力的な情報の押しつけであるように思う。いわゆる感動ポルノなどといったものや、嘘松などといった、反応を期待するが故の誇張や嘘の情報もこれに該当する。物によってはその責任所在をごまかすために伝聞調の形態をとるものまである。実際、往々にしてシェアが多くなされている情報の多くは「これは誰にも教えないよう○○から聞いたのだけれど」「○○で優勝してしまいました」「知り合いがこんな光景を見た」「うちの子がこんなことを言っていて考えさせられた」などという好奇心をそそる文面で始まる。このやり方で与えられる情報の質はまさに上で述べたような、大衆好みの一元的な、平べったいものなのである。しかもこれらの情報は大概が裏付けのない無責任な情報なのだ。こういったものをシェアするというのは目の前に置いてあるおいしそうな餌にすぐ食らいつく豚のごとき浅ましきものであるように個人的には感じる。我々は何も考えない存在へとどんどん飼い慣らされているように考えてもいいのではないだろうか。さらにはこのシステムを理解せず、ネタをネタと理解せず本気にしてしまう人がどんなに多いことか。彼らのクレームが如何に無害な他者の創造性を奪っているかは想像に難くない。多様性が叫ばれる一方で、世の中は、そういった「あそび」に対してどんどん不寛容になっている。誰もが同じ形の取り替え可能な社会の歯車になって、他者の人生をコントロールしようとしている。

更にSNSでは問題の矮小化や論点のすり替えもよく見られる。芸能人がSNSで叩かれていることに対し、有名税だの嫌ならやめれば良い、社会とはこんなものなどといった意見が見られるが、そこに終結する問題なのだろうか。一番問題視されるべきは匿名性を盾に叩く卑劣な行為そのものにあるのではないだろうか。ここをはき違えて発信される情報は、たとえそれが善意や正義感による内容であっても、本質的な問題解決を妨げるという点で無責任だと言わざるを得ない。このような本質的な問題を見つめないという、ある意味での社会への諦観と、それゆえの無思考や攻撃対象の変更などといったものが含まれた態度は、問題を本質的に解決しようとしている者を妨害しているうえ、行動規範の枠をさらに狭め、全体としての人間性を失わせる行為であるように感じる。

色々脱線してしまったが、終わりの言葉に入る。上で述べた無責任で無思考な双極性の発信には共通の特徴がある。実体験に基づいていないということだ。自分と関係のない赤の他人の幸せや不幸のお話を共有するあまり、自分自身が実際に何かを経験すること、自分自身で動いてみることの必要性の意識がこの「情報化社会」において薄れてしまっているのではないか。自分がこんなことをしても、世の中ではすでに行っている人がいるから・・・と無意識のうちに及び腰になっているんじゃないか。

人生とはSNSから得た情報だけで成立するものではない。



最後にこの話を俯瞰してみると、なんのことはない、皆さんがよく知っているネットリテラシーを小難しく書いただけだということが分かる。


おまけ

SNSで顔出しに異常に反応したりする人いるけど、結局そういうのってツイッターの匿名性を盾に面と向かっては言えないことを言っている人の本性が露呈してるだけなんだな。結局匿名だろうが無料だろうが書き込むのは人なのであって、どうしてもその人間味というか本性って露呈するんだと思う。

なおこの文章は著者ぶれぐまの個人的な感想なので、間違いや論理の飛躍がありかねないことを最後に断らせていただく。修正すべき点があればそっと耳打ちしていただきたい。

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