問題の矮小化

矮小化された問題が巷にあふれかえっている。安倍政権を叩く人を揶揄したところで、政治の問題が解決するわけではない。ネットいじめが原因で自殺した人がいても、いじめられる人にも原因があるという。誹謗中傷される人にも責任があるのではなく、純粋に誹謗中傷する人が悪いはずではないか。日本を揺るがす問題と題打たれたニュースの速報も、翌週には有名人の心底どうでもいいプライベートなゴシップに置き換わってしまう。殴りやすい手ごろなスケープゴートが常にのさばり、我々は本質的な問題に目もくれないどころか気付いてもいない。いつの間にかこの社会は、そんな手軽な餌が溢れかえる「楽」な場所になってしまった。ばらまかれた餌に我先にと群がるが、周りが食い尽くせば自分が何を食べていたかも忘れてしまう。

あなたは一か月前、何に怒っていた?

我々は常に本質的でない何かに情動を刺激され、自分の人生を大成するために必要な貴重な時間を奪われている。「楽」な、思考に靄がかかった状態で、ただ動物的な欲求だけを礎に、あてもなく彷徨うだけの存在に成り下がってはいけない。自分の人生は自らの意志が舵を取るべきだ。そのためにはこれまでの「考えをやめる閾値」をもう少し上げてみてもいいんじゃないだろうか。

所詮人生こんなもの、世の中に期待しすぎるなとよく言われる。確かに本質的な問題の解決は難しい。だが、深すぎる海も、高すぎる山もない。目の前の巨大な壁に挑戦するか、見ないふりを続けるか。結局は各人の問題でもあるのだ。成功か失敗かが人生の幸せではない。むしろ本質は実際に考えたか否か、実際に動いたか否か、それだけなのだ。文句を言うのはそれからでも遅くはない。

本質からずれ、矮小化された、手軽な問題を安全な場所から紛糾するだけで満足してしまうちっぽけな自尊心など、行動の幅を狭めるだけだ。

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