論49.実力があるところから抜けられない問題

今回は、あるところまで上達した人の頭打ちの問題を取り上げます。

○腰の反りと呼吸

 腰は、前弯(ぜんわん)、つまり、反っていなくては、人は真っ直ぐに立てません。
頭に大きく重い荷物を載せて運ぶ人は、姿勢がとてもよいです。アジアやアフリカの人のそうした写真を思い浮かべてください。ヒップアップしていて身体の合理的な使い方です。
腰の反りは、胸隔、肋骨を支えます。腰が反らないと胸隔が薄くなります。立って呼吸するのがうまくいかなくなります。それでは仰向けになってもうまくできません。

○男女の骨盤と腰

男性は、骨盤の開閉は大きくないので、腸骨の支持点が硬直しやすいです。女性は、仙骨の硬直となります。それは、胸骨や鎖骨のねじれにつながります。
 「反ってはよくない」という腰への注意は、硬直したため、上体が前傾してバランスをとっている状態のもののことです。ここで述べている反りとは違います。逆S字ではなくストレート、ゴリラの立ち姿、お尻が突き出た感じをイメージしてください。

○呼吸の弱さと骨盤、胸骨

メンタル的に不安定になると、骨盤の開閉、特に上下動がスムーズでなくなって、下がり、内股を絞ることができません。肋骨や肺が硬直しますから、発声に支障が出ます。
お尻の肉が薄く胸骨も薄くて固いままの人によくみられます。
呼吸の弱さは、発声だけでなく、消化器の活動も妨げます。

○発声の支えと骨と筋肉

 呼吸を扱うところが疲れてくると、骨盤もまわりの肉が薄くなります。それをトレーニングなどで整えていきます。するとウエストに肉が付き、お尻もヒップアップしてみえるようになります。
股関節と内股の伸びは、体液のポンプとして作用し、新陳代謝も促します。そこは、発声の支えにもなります。

○ほふく前進と天使の羽

 赤ん坊の這いずりは、ほふく前進と似ています。どちらも腰骨関節と仙腸関節を柔軟にして使っています。
赤ん坊は、うつ伏せから両手で上体を起こしていきます。そこで肩甲骨が内に収まるのです。
子供の背中で、肩甲骨と肋骨の間があいて天使の羽のようになっているのをみたことがありませんか。肩甲骨と腰、胸郭と腰仙関節、仙腸関節の柔軟性に、呼吸、発声は負っているのです。

○発声と体の図

 頭のてっぺんから会陰への真っ直ぐひいた線=軸が、体の中心です。
私は、ギックリ腰になったとき、腸骨の右上と内側に痛みを感じました。腰の反りと関連するところです。腰椎4、5番にあたります。
 私が初期に発声を理論化したときに感覚的に描いた発声の支えとなる図は、人の体の力学的な支えの図と酷似していました。(「読むだけで声と歌が見違えるほどよくなる本」音楽之友社、「ヴォイストレーニング基本講座」シンコーミュージック)
頭頂からの両わきへの二等辺三角形と胸の中心から骨盤の左右への二等辺三角形です。両わきは、肩甲骨の下に上下の位置としてはあたります。

○呼吸トレの目的

 息吐きで体は緩み、吸気で緊張します。緊張で硬直しては体は動きません。息を吐くと関節が緩み、伸筋が働きます。胸郭も体の内部も動くのです。
どこをイメージするのかは手段で、目的ではありません。目的にそぐわないなら、そのイメージを変えましょう。
吸うトレーニングは、あまりありません。息を吐くと、横隔膜が上がり、腰が反り、ヒップアップします。それを崩さないようにするのが、呼吸法やブレストレーニングの目的の1つです。

○息を吐くと過呼吸症候群

 声を出すのは、気合を入れるときですから、声で力が出ます。力で出すのではありません。
ですから、息を吸ったり止めたりしているときは危険なのです。
息がうまく吐けないと過換気症候群などになります。体の緊張が解けないのです。そこで吐くのをゆっくり、長くして、優位にします。そういうトレーニングも必要になるのです。

○逆効果となりやすい

 現実には、横隔膜とか支えとかのトレーニングをしている人は、そこばかりを気にかけ、うまくいかないことが多いのです。トレーナーに教えられたり、指摘や注意をされて、却って固めてしまうのです。
過剰な緊張を取り除き自由に動く状態にするためのフォームづくりなのに、そこにこだわると余計に悪くします。
トレーナーは、姿勢や呼吸の指導として、形や型からフォームづくりを教えていくのですが、これは、フィジカルやメンタルの弱いタイプの人には、逆効果になりやすいという一例です。

○メンタルと思い込み

メンタルが弱いタイプの人のほかに、思い込みが激しく自己中心で、真面目で熱心だけど、自分を客観視できないタイプは、型通りのヴォイトレが逆効果となることが多いでしょう。
こういう人は、トレーナーが教えたことを忠実にやろうとするほど、結果的に逆のことをしてしまうのです。形を定めるところから入るのを、形を定めるのが目的となってしまうのです。

○忘れること、解放すること

 ですから、一度、ノウハウを忘れて、全身を解放しなくてはなりません。リセットが必要です。
しかし、体は心に支配されます。考え方がかたくなに変わらないうちは、そこから出られません。横隔膜の動きや支えにばかりこだわるあまり、1つ上のトータルの見地を得られないのです。

○理解と方法から抜ける

意識や力をどのように働かせるのかという理解や方法にいくらこだわっても、うまく動いていかなくては何の意味もないのです。
 そういうときは、一度、頭を切ることや忘れることが必要です。しかし、そこがなかなかわからないのです。そこで、トレーナーも一進一退の指導をくり返すことになります。

○同じタイプのトレーナー

あるいは、そのことがわからないトレーナーだからこそ、よりていねいに形を教えて固めていくともいえます。動かさないで応用の効かないフォームに固定してしまうことになるのです。
それは、やはり、親切で熱心で真面目なタイプのトレーナーに多いのです。大きな声が体からしぜんに出ない、発声や共鳴法で声を出しているようにみえるタイプに多いといえます。

○呼吸法の否定論

 呼吸法の是非は、昔からあまりに多く議論されてきた問題です。その結果、「呼吸法をやらない方がよい」、「呼吸はしぜんのままにしておく」から始まり、「呼吸筋を鍛えたり横隔膜を意識してはいけない」、「ヴォイトレはやらない方がよい」、「ヴォイストレーナーにつくとよくない」などということが、まことしやかに流布することにもなったり、したのです。

○混同

現場の声として、「呼吸法やヴォイトレには反対」となるのは、私には、よくわかります。それが本番という応用の場と、トレーニングという明日への基礎づくりとの混同ということは、再三、述べてきましたので、そちらを参照してください。

○発声法、体の運動について

 呼吸法、ひいては、発声法の問題は、どこをどう使えばよいとか連動させたらよいとかいう単純なものではありません。
よく質問として、「どのように連動させるのか」などと問われますが、体は一つですから、連動といえば、すでにすべてが連動しています。どことどこと言われても、それは大ざっぱなイメージです。そういうことが問題となるのは、なまじ生理学や解剖学で理解したことが、実践や上達を妨げる典型的な例といえます。

○方法を離れる

ある方法や考え方でうまくいかないから、意図的に、一時、捨てる、それが無理なら捨てなくともよいから保留することです。原点に戻ることです。学んだ知識や考えを取り去ります。うまくいくために学んだことが使えないなら、何にもならないでしょう。むしろ、害になっているのです。そいういうときは、別の方向から、条件を強化したり、状態を解放をして、今の状況を変えるのです。

〇ケースによる

すべては、目的、レベルで違います。表現、歌唱、発声、呼吸のどれを優先するのかでも違います。
ポピュラーと声楽で違うのではなく、歌い手一人ひとり、歌うフレーズ一つでも違います。もちろん、歌手と役者、歌唱とせりふで違うというような単純なものではありません。

○過去の否定

とはいえ、そこを突き詰め、ある程度の成果を実感したというような人は、それが思い込みであることも認めないので、違うアプローチに耳を貸しません。まして、なまじ実績があると、過去にやってきたことから逃れるのは難しいことです。
でも、すぐれた人は、常に考え方、やり方を変え、過去を否定してきたからこそ、次のステップに行けたのです。

○「程度問題」

 「できた」、「できない」と二極化で判断するのも安易なことで、全ては、「程度問題」です。どこをどう使うのかも程度問題です。しかも、「使う」などという意識は、トレーニングでのみ許される一時の手段にすぎません。フィジカル、メンタルでの支えができたら「使う」のではなく、「使われている」のです。使ってはいけなくて使われているようになるのを待つしかないのです。

○プロセスでのことばとメタ思考

「働かせる」とか「あてる」とか「上げる」とか「下げる」とか「拡げる」とか「押す」とか、そういう手段のことは、マスターしていくにつれ、意識から消えていくのです。ことばも消えていくのです。それが、フォームが身についていくプロセスです。
そうしたプロセスでのことばは、自らの調子の悪いときや力が衰えたときに戻すのに使えるくらいなものです。
 つまり、メタな思考が必要です。今の問題をそのまま5年10年と抱えていては、そこから抜けられないのです。
ことばから脱しないと、上達のために使ってきたことばが、さらなる上達を妨げてしまうのです。

○発声法からの解放

 問題は、やる気や関心が強く、熱心で真面目ゆえに、いつまでも部分しかみない人の方です。そのために、同じところから抜けられないケースです。
こういうタイプは、初心者レベルでは発声を聞くまでもなく、全身が緊張しています。ヴォイトレでも、発声より心身を解放するトレーニングが、必要とすぐにわかるタイプです。
でも、そういう人ほど人の話を聞けないのです。自分に関心のあるところしか価値がないと思い、その前に大切なこと、つまり、正論が耳に入らないのです。パラダイムが違うのです。

○知識の毒

こういう人は、自分の期待するのと違う話やこれまでにないアドバイスをされたら、なぜ、そういうことを言われるのかがわからず、考えられずに、頭から否定します。自分の知りたいことや聞きたいことではないと受け入れないのです。これまで教えられたことや勉強したことにこだわるからです。
わからなくなると、生理学とか運動学的な理論、説明ばかりを知りたがります。それを示したところで自分の考えを肯定することにしか使わないので、ますますよくなくなるのです。

〇頭を切る

それがわかるので、こちらもそこから頭を切るようにすすめます。こちらは、これまで多くの人の状態と結果をみてきたらわかることがあるのです。
情報化した社会では、知識などは誰でも専門家並みに調べられるのです。調べたらよいのに大して調べていないまま、これまでの指導者の引いたライン上にばかり答えを求める人も少なくありません。
これまでやってきて、問題が解決しないのですから、一度、ワクを外さなくてはいけないことに気づくことです。素直になることです。

○素人よりみえなくなる

 歌の評価なども、ですが、なまじ少しかじって知っているつもりの人、習い始めてアマチュア歴10年などという人よりも、ド素人の方が直観的に鋭かったり正しかったりするものです。
遠くから頂点のみえる山も、近づくと樹海に入り、出られなくなる人が多いと例えてきました。
腹式呼吸とか横隔膜などにこだわるアマチュアに限って、カラオケのうまい人やその道の声の出る人よりもずっと劣っていたりします。

〇衰退する

オペラ、歌謡曲、合唱、ミュージカルなど、特に日本では、その傾向が強いのですが、そこの世界しかないと、その図式にはまり、そういう人たちのようにしかみえなくなります。
そういう人が中心になっていくと、表現のパワーは薄まります。そして、その分野の世の中での影響力は落ちてしまいます。声楽というヴォイトレも、そうした傾向が強まりました。

○正誤へのこだわり

 歌でしたら、マニアックに仲間内のなかで認められていたらよいとも思います。誰もが世界的な一流歌手になるわけでも、目指しているわけでもないからです。残念とは思いつつも、そうした実践している活動家には、私は文句ひとつありません。
 しかし、ヴォイトレや声楽という手段、トレーニングにおいては、素人でもおかしいと思うことを専門家のような感じで専門用語にこだわって正誤を決めていくことに何の意味があるのかと思うのです。正誤そのものがないのですから。
少なくとも、ここに接した人には、正論、これは正しい理論ということではなく、あたりまえのことに戻して対したく思っています。

○喉の調子は一条件にすぎない

 声帯、喉頭、肺、横隔膜などのことを知って、声がよくなるならよいでしょう。しかし、そんなことはありません。
喉の医者にずっと通っていて喉の調子がよくなったとしても、それで歌がうまくなったり、オペラがワンフレーズで歌えるようになったりすることもないでしょう。調子のよかった頃に戻ったら上出来くらいです。
喉の調子が歌唱のための絶対条件というのも違います。そうでない状態で使うことの方が多いのですから、楽器のよい方がよいとしても、より大切なのは、使いこなすことです。

○思い込みと二人よがり

こういったことは、あたりまえのことで、私がここで伝えたいことではないのですが、そこもわからなくなるほどにトレーニング中の思い込みがひどい例を目にすることがあるのです。熱心で真面目なときほどひどいのですが、それもプロセスとしてみるのなら、2、3年、何かの力にはなっていると思ってよいでしょう。
しかし、プロセスでなく、そこを目的としてみると、どん底を掘っていくことになります。いわゆる、独りよがり、しかも、ヴォイトレのケースでは、トレーナーとの二人よがりが珍しくありません。

〇自分を疑う

 私も、世界の一流のトレーナーやそのクライアントのレッスンもみて、よいところは学び、後は、反面教師にもしました。全てが誰にとってもよいなどということはないのです。一流も何をもって一流かであり、一流ゆえにみえていないところや対応できないことが多いのです。
そして、誰もが偏らざるをえないものと気づいて、やり方を変えたのです。第一に疑うべきは自分です。
基準を「素人がわかるもの」というのではあいまい、かつ、小手先のごまかしになるリスクもあるので、「どのトレーナーもよくなっていると思うもの」に、とするだけでも、大分ましになります。でも、これは、あるところまでという学校、教室での基準となります。

○多様性と異質を共有できるトレーナー

それ以上を問う場合、トレーナーは、同じ状況で育ったり学んだりした人ではだめです。考え方や教え方が違うことが条件です。
同じ師の弟子や同じ方針のトレーナーなら、一人でみるのと大して変わりません(カリスマ的なトレーナーやプロデューサー、アーティストなど、一人のやり方に統一することのリスクは大ということです)。
一緒にやるなら、多様で異質であるほど、よいでしょう。本質的な価値観を共有できるメンバーであることです。ですから、研究所では、私だけや一人のトレーナーだけでみることは、極力避けています。

○トレーナーやトレーニングをなくす

 誰にとっても最良のトレーナーはいません。異質なトレーナーと多様な方法に触れることで、あなた自身が最良の方法をみつけ、より自身を最良のトレーナーにしていくプロセスをとれたら理想的なことと思います。力がついたらその方法もトレーナーも消えていくのです。あるいは、常に変わっていく、ともいえます。それだけ違っても、ともいえます。

○力をつけるために

あなたに必要なことは、力をつけるトレーニングです。コンスタントに力を発揮できる調整法と補強法を得ていってください。
トレーナーも自分によりふさわしいトレーナーをみつけ、また、別に自分のメンターをもっていくことでしょう。

○一呼吸

それでは、実践例の1つをあげ、しめくくります。
体を揺らしてみましょう。
体は、一つの膜、筋膜に覆われています。それは、筋肉も骨をも包んでいます。
「ハ―」と息を吐きます。腑抜けの状態になってみるのです。
なぜ、体操の前後には、深呼吸があるのでしょうか。
疲れると、息は浅くなります。そうした疲れをとるのにも呼吸が効果的です。
一呼吸しましょう。
人生は一呼吸、吐いて生まれて、吸って死ぬのです。

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