論15.考える技術と感じるアート

○断じるということ

 断定する人は、大体は、大した人でないので、その内容が合わなくても気にしないことです。

 勉強して知識を得ると、ひけらかしたくなるものです。私も、最初に人前で話したり本を書いたときは、断定調だったのでよくわかります。もちろん、自分のやり方を信じ込んでいるし、すぐれていると思うからそうするのです。人に認められたいとか褒められたい、あるいは、説得したいときは、そうなりがちです。

 なぜかというと、それが求められているからです。トレーナーがよいと思わず迷っているようなものを誰が求めたいと思うでしょうか。その方が簡単で相手にもわかりやすいからです。その分野の専門家であったり、仕事をすることで報酬を得るには、そうしたことが望まれるからです。

 同じことを続けていると、特に初心者の人だけを相手にしていると、それに慣れていき、自ずと早くそうなるものです。ですから、今の私などは、始めたばかりのトレーナーの方が慎重な分、よいと思うこともあるほどです。

 楽に早く簡単にできるのがよいと思う人は、お客さんです。お客さんはビシッと言われたり背中を押してもらう一言が欲しいから、トレーナーの断定調を好みます。トレーナーもそうしているうちに、そういう人ばかりが残るから、ますます自説に自信をもち、偏っていくのです。

 それは、野球好きの人が、たまたま、サッカーを2~3年みて、「やはり野球ほど深くない」と断定するのにも似ています。昔がんばった人ほど切り替えられないのです。

 勉強して学ぶほどに、断定はできなくなります。今の私は、一人の人の一つの質問に、100も200も答えが思い浮かびます。こうであれば、と仮定した条件とともにいくつか述べることもあれば、全く説明しないこともあります。

 相手の望むことにすべて答えるのでなく、相手をみてよかれと思う方向をみて、タイミングをみて述べます。相手にこちらが望めるようになるように答えます。その人を知るにつれ、その人もみえていない可能性を探りつつ、本人の行きたい方向と本人のもって生まれた資質を合致させるようにレッスンを創造していくのです。

 このスタートラインに立つのに2~3年はかかります。そこまでは何をどうやってもよいのです。ただ、先の事のための基礎を入れ込むことが肝要なのです。

○わからなくてよい

 「ヴォイトレをやらなくても、うまくなりますか」と聞かれることがあります。

 「読むだけでよくなる…」というタイトルの本を書いている私が、答えるのもどうかと思いますが、あの本は、やっている人を対象に述べたものです。やるだけではわからないこと、みえていないことがあるという意味で、死角となるところ、アプローチの盲点、気づき方を示したものです。やらない人に対して、私が言うことは、何もないのです。

 多くの本は、入門者対象、つまり、やりたい人、やろうとしている人をターゲットとしています。それが一番、売れるからです。いや、それしか売れないことが多いからです。そのため、編集者自身の興味と理解の範囲に限られます。それで、ビジネス書や自己啓発書のように「何週間でわかる」などというタイトルになるのです。

 「わかってもできなければ、わかったと言えない」など、くり返してきました。が、これも「わかることができることとは何か」を定義しないと進めないでしょう。わかるってどういうことで、どうなることで、なぜそれが必要なのか、これは、知るほどにわからず、できるほどにできないから、続くような気がします。

 少なくとも、私はそうなので、続いています。すぐにわかった、できたという人のものなど、ちっともおもしろくないのです。まして、私が求めるようなすごいものとは、真逆なのです。

 まして、それで認められてもいないなら、ただ幼いこと、未熟なこと、自画自賛で自己陶酔にすぎないのです。認められるといっても、どの程度か、多くの人に知られていたらよいのか、多くのファンがいればいるほどよいのかとなると、どうでもよいことに思えませんか。どうせなら、国や時代を超え、歴史に残るものを目指していきましょう。

○活かす力、生きる力

 あのトレーニング、あの方法、あのトレーナーがいいね、などと言うのも、幼く未熟なことでしょう。人についても、いいとかすごいっていうのも、何もみていないように思います。そういうところもそうでないところもある上で、自分に役立つように、人も方法も、あなたが使えばよいのです。使える力を手に入れるためにレッスンとトレーニングがあるということです.

 使う力があれば、慢心していない人なら、学べることはたくさんあります。だからといって、すべてを知ることが必要なのではありません。すべてなどは知りえませんから、できるだけ、何事に対してもいい方向に考え、活かしていくことです。

 すべてを知ることでなく、少しでもできるために、それを目指していくのです。同じメニュでも、それで成長していくと気づき方が変わります。他の人が何とも思わないところで、多くのことを感じられるようになります。

 知識や情報を知っても、知るほどに迷うばかりです。考える力にならないし、考える力などあろうとなかろうと、生きる力があるのか、力が出るのか、強くできるのか、なのです。これは世界とあなたの関わりをつける力です。それがあれば考えるべきことを考えるから、考える力もつくし、知識や情報も自分が使える形で入ってくると思うのです。

 ですから知識として、それを望むのでなく、あなたと世の中の接点を見つけるために、そこの材料にして欲しいと思います。それで私は、「ノウハウやメニュでなく、基準と材料を得るように」と言っているのです。

○わかるとできると続ける

 レッスンでも本でも、入門者のためのものはわかりやすく、できやすく、誰にでも合うレベルに合わせてつくられています。それは、これまで行っていなかった人が行うために、とっつきやすくしてあります。そして、できるだけ続けられるために、つくられたものです。だから本当には役に立たないのです。

 でも、続けていくと変わることもあります。続けることによって次の事への用意ができてくる、そういう使い方で、次の可能性が開かれる可能性のあるものを選べるかです。発展性があるのかないのかが、本当は重要なことです。

 そういうものを使わなくてもできる人はいるのです。使わなくとも感じられる人がいるのと同じです。しかし、大体は、自主レッスンでできないから、感じられないから使っていくのです。使っているものができないのなら、できるものにしていくことです。できるようになったからといって、現実には、まだ、何ら使えないものにすぎないのです。まんがの描き方入門という講座や本と同じだと思ってください。

できるよりも感じられることが大切です。感じられるほどできなくなるものだからです。

 知識でなく、体を使うものは、そこがわかりにくいです。わかりにくいというか、わかる人にはわかりますが、わからない人にはわからない。わかるってことがわからないからです。覚えたかでなく、身についたかでチェックするのです。頭のように正誤でなく、体は程度、深さだからです。

 ですから、これまでもスポーツ、武道、芸事や自転車、車の運転のプロセスなどで、例えて説明してきました。そういう経験があれば、そこを思い出して当てはめてみるとよいのです。

 変わっていかない人には、変わるということがわかりません。続けてきた人、続けて変わった人しか、変わったことはわかりません。変わっていくことも、変わらない基本が何たるかもわかりません。わからなくてもできなくてもよいから、そんなことを頭で考えるより、続けることが大切なのです。

○ワープする

 もっともよいのは、あなたのレベルに合っていないものに、ハイレベルなものに挑むことです。到底できません。これは荒療治、いや、荒修行です。誰にでもよいやり方とはいえませんが、どこかでそのうち、一瞬、一声でも、感じられるかもしれません、できるかもしれません、距離がみえるかもしれません。偶然を必然にする、そういうチャンスになるのを待ち構えている体制をもっているのが大切なことです。

 同じ次元を感じられたら、いつか同じところにいけます。しかし、同じことをやっているつもりで次元がズレていることが多いのです。そのため、距離がみえず、そのプロセスも得られていきません。

 たとえば、カラオケのレパートリーを10曲、100曲、1000曲と10倍ずつに増やしても、声や歌は10倍ずつよくなりません。多くの人は、10曲から100曲までで上達したあとは、慣れてこなせるようになっているだけでしょう。周りに褒められるようになってその人の伸びも止まります。アマチュアの限界です。

 それは、あなたの方に合わせていくからです。本当はどこかでワープ、これまでのあなたにない感覚や体になって放たなくてはならないのです。自由に自在になるのです。

 そこで、トレーナーが必要となるのです。それでも対応のできる人は少ないので、これで補ってみてください。ヴォイトレ本100冊を読むよりもよいと思います。

 要は、質なのであって、そのための量です。私が量としてみせているのは、差がわかりやすいからです。運動部のハードトレーニングのようなものです。それだけではなんともならないことをやってみて初めて、体で知ることができるからです。

○絶対量と絶対時間

 何事も成し遂げるのに、ある絶対量は必要です。そこから増すことは必要ないのです。でも、一定量を続けることは必要です。

 ことば一つで歴史に名を刻んだ人もいます。そういう人は、質の差のようにみえても、ずっと量をもっています。それには時間がかかっています。トレーニングだけでなく、必要なものを吸収することを重ねた時間です。公になっていないだけです。

 で、ほとんどの人は量をこなさないうちに質で勝負しようとするから、うまくいかないのです。知名度とか注目度とか販売数とか、量そのもので測れるものは大したものではありません。

 私のこれだけの量から一つの真理だけでも得ていただければ、ありがたいものです。

 お客さんへのサービスは、スピード、効率のよさ、便利さで行われ、客数や売り上げといった量を結果とします。買い物ならそれでよいと思います。でも、生きていくのは、高さと深さとが熟していくことで、でしょう。いつ量から質的変換をするか、その後も慢心せず、いくつそれを重ねられるか、ということです。わからないときは、続けることです。それしかないときばかりだなと思うのです。

Q.まともかそうでないかは、どう見分けるのですか。

A.自分をバカと思わないのがバカ、酔っていないと言うのが酔っ払いの証拠です。自分のことは自分が一番わかっているという、わかっていなさについて述べてみます。

 例えば、心が病んでいると思われる人は、自分で精神科に行くことはなく、連れてこられます。精神の異常、正常は、元よりあやふやなもので、誰かに相談するにも、誰にその資格があるのかと問いたいほどです。

 そのあたり、ヴォイトレも似ています。医者は資格認定だから、医者よりも曖昧です。あちこちのトレーナーのレッスンを転々としてきた人なら、ここにきて、「そんなこと言われたことなかった」と感動されるか、または、不信に思われるかは、紙一重のようにも思うのです。

 外科手術のようにいかないし、すぐに生死にかかわるものでないあたりも、一回でよくならず何回も通うことも、カウンセリングなどと一部、似ています。声の問題はメンタルに関わるので、なおさらです。

 でも、問題は、まともかどうか、正しいのかどうかではありません。そういう基準をもって判定するものでありません。そう判断しても面と向かって、どこまで本人に言うのか、という点で、トレーナーの性格や生き方、価値観が出るのかもしれません。

 そこで基準は何かと聞かれても困るわけです。私が述べてきたのも、そういうふうに分けて考えるのを一時、やめましょうということです。まともも、まともでないのも、大して変わらないからです。表現者ということなら、そのふり幅があった方がよいでしょう。

 それと、トレーニングは、将来に向けて可能性を追求するのですから、過去や現状での分析や状態でこだわるのはよくないのです。現実は踏まえても、それを変えるためにいらっしゃるのですから、限界より可能性を探すのがトレーナーの仕事です。可能性は誰にでも無限にあるのです。そこを信じて可能性を大きくする、それがトレーニングなのです。

Q.正しい声とは、何でしょうか。

A.美人が、すべての人の合成した平均顔というのと同じで、正しい、よい声は、何となく多くの人の真ん中、平均という感じになるのでしょうか。人によっては、声にも上中下があり、上の方と言うかもしれませんが。正していくことはあっても、正しい声は一つではありません。

Q.ヴォイトレの規範はありますか。

A.「何でもよいから、声出して」とか「ことばを言って」とか「歌って」というのが、一番漠然としてやりにくいでしょう。そこで、メニュなどで枠組みを与えます。その方がスムーズに入れるからでしょう。

 特に日本人は、「答えは自分で」導くものだと言っても、「他の人は」とか「平均的には」とか「何番目(ランキング)」とか、チェックしないと落ち着かない性分なので、そこを変えるのが大変です。

 ヴォイトレがおかしいのでなく、日本人がおかしいから成果が出ないという問題です。

 「自由に」「好きに」のための表現と私は思っています。そのための枠組み、基本と言っているものの、表現が枠そのもののようになりがちなのは、日本人の生真面目さからなのでしょう。

 で、ヴォイトレとか練習というのが独立してしまいます。そのうち、道みたいになる、いや、もう、ここではなりつつあります。それは、無限の可能性への創造として、すばらしいことです。しかし、実態が形骸化して、同じように揃えていくだけの満足で終わっているようにならぬよう、よくよく気をつけて処さなくてはなりません。

Q.自己中心的ではよくないですか。

A.電車に乗ると、周りの景色が全て後へ吹っ飛んでいく、そういう人が、自己中心的なようでも、そう考えると誰もが自分中心にものをみているものなのです。誰もが、太陽が昇り沈むとみています。電車では、景色が全て後へ流れ、降りる駅が前から現れます。そしたら降りて、何の問題もないから、それでよいのではないですか、みたいに、私も応じるのです。

 そういう素直さを、私たちは失っているから、そういう感性こそがアーティスト向きといえます。詞も、そんなものをそのまま描写するからよいと思うのです。そこで狂気、エキセントリックになろうと、誇大妄想的になろうと、イメージで人を惹きつけるアートの動機とはそういうものでしょう。そうできないからと、他を頼んで違法ドラックなどに手を出してしまうよりましでしょう。

Q.精神的な病を疑っています。

A.心の病、精神の変調なら精神障害(mental disorder)です。そのうち、人格の変化に至ると精神病(psychosis)と言われます。これには、総合失調症(精神分裂病)、躁うつ病などが入ります。狂気となると総合失調症の色合いが濃いですが、そこは芸術的な感じもするようでもあるのです。

Q.声がおかしくない証明はできますか。

A.体内のアルコール濃度は、アルコール検知器で測れます。薬物でなく脳内物質でラリっている状態かどうかは、その言動からでしかわかりません。声が出ない、かすれているといった状態や高さや声量は、聞けばわかります。しかし、「おかしくない」とか「正しい」は、価値判断です。おかしいとしても、喉がおかしいのと脳がおかしいのは別です。

Q.科学が進めば、声の判定にトレーナーは不要になるのではないですか。

A.科学的によし悪しというのは証明できないから、研究所では、人の耳として、感じる能力での判定を頼まれるのです。データを人間の判断に結び付けて完成させるには、人としての判断でのよし悪しがいるのです。その上で、そういうAIが判定することはでてくるでしょう。カラオケ採点機のより高度なもののように。

Q.声や歌をみせにいけますか。

A.いらっしゃる人には、自分の歌はうまいとか、声がよいことの言質をとりにくる人もいます。声がダメ、悪いということでなく、見せつけたいならステージで、お客に披露すればよいのです。判断を欲するのでしたら、いつでもいらしてください。

Q.学びでの気づきの瞬間ってわかりますか。

A.何事にも、一線を超えるときというのがあるのではないでしょうか。そのときハッと気づくのか、それを気づかないのかは、人によります。人生のなかでも、そのときをチャンスと思うのか危機や年貢の納め時と思うのか、神に救われたと思うような機もあり、魔に魅入られたと思うような機もあります。よいことは神、悪いことは悪魔、と思うのは、どうも人の身勝手によることです。

Q.気づくのが大切なことでしょうか。

A.人は学ばされるところで、差を知る、いわば、差をつけることを植え付けられていると思うのです。事実は一つとしても、それをどうみるかでしょう。その捉え方でその人の人生も決まっていくわけです。気づくことでも、その気づき方、受け取り方が大きなことだと思うのです。

Q.何かをするかしないかを、いつも迷います。

A.何かが起きたとき、何を思ってどう行動するかです。何もしないというのも、この場合、何もしないようにしているということです。行動すると、何か変わるきっかけになるのです。必ずしも変わるとは限りませんが、行動しないとその可能性も出てきません。何かをして、そこで何かを学ぶのです。何がどう変わったか、それをどう学ぶかです。

Q.声さえ克服すれば、全ては解決して、よくなるのではないかと盲信しないか、心配です。

A.そういうことを迷っていらっしゃる人もいます。声に関わらず、自分の思い込みから妄想とも狂気ともいえる信仰にエスカレートしていく人もいます。まるで新興宗教に現世利益を求める人のように、こちらがグルのように祭り上げられたり、勝手に落とされ批判されるようなことにもなったりもします。最大のファンは信者ですが、そこで大変なことになることも学ばされました。

 出会いの数々に、研究所も学ばされ変わっていったように、誰にでも学んでいって欲しいと思うのです。

 弁解ではなく、説明しているのです。自分の人生に離陸して欲しいと思うのです。

Q.思い込みは害ですか。

A.いわゆる、若気の至りのような思い込みをもつのは悪いことではないと思います。若いうちに何かしないと、もち続ける方が難しいです。

 多くの人は、思い込みが続きません。夢や洗脳のように感じて、捨ててしまう人もいます。それが大人に、社会人になるということかもしれません。でも、自分のものでないと思って捨てたとしても、何かは残っていきます。自分のものになっていたら捨てるも捨てないもありません。

 子供のままでは人生は生きにくくなりますが、初心なら、もっと学べるように思うのです。どんなことも信じることには勝てません。

Q.毎日が腹立たしいです。

A.どうしたところで、とかくこの世は生きにくいものです。純粋さが生み出す狂気にまで達したら別ですが、それではアートか犯罪か、みたいになりかねません。日々の生活に根ざすくらいの怒りでは、うまくいかないことを人にせいにする、ただのクレーマーに成り下がってしまうので、避けたいところです。大きなものに怒りましょう。

Q.記録をとることを勧めるのは、なぜですか。

A.話をノートにとる人もいるし、ノートを見せにくる人もいます。私は、この分野では、かなり多くの話や実習を記録してテキストを残しています。だからこそ、誰にでも勉強として、記録することをお勧めしています。

 人類がここまで発展したのは、ことばを生み出し、それを共有するために、口承から文字をつくり文章にしたからです。文字の発明によるところが大きかったのは、文字をもたない人々が、未開の状態にとどまっていることが多いことからよくわかります。

 自ら発展させるためには書き残し、シェアすることと思います。

 発展したのは文明で、必ずしも文化とはいえないのですから、芸については不立文字、このケースでは、使い方がおかしいですが、文字を立てないことも大切です。だからこそ、文字を使い尽せです。

歌における詞とメロディとリズムみたいなものです。詩人のみならず作曲家や演奏家は、思想家、哲学者、宗教者、芸術家に近いものと、私は思うのです。

○天才とバカ(芥川賞、テス、ポランスキー)

 天才と狂気は紙一重であるというのは、当たっているようで当たっていないと思うのです。

 私は、芥川賞の作品2つを読もうとして、「文藝春秋」を買いました。羽田さんのは読めたのですが、又吉さんのは途中で挫折し飛ばしてしまったのです。また、読めそうな気がするので、それは作品のできのせいではありません。 

 お笑いの方が関心がある。でも、介護は、現世利益的関心からきているのでしょうか。

私は、作家という職にも興味もあり、一部では作家と呼ばれていた時期もありました。しかし、そのメンタリティが今のところない、なくなったので、書けないどころか読めない、つまり、彼らのレベルでは読めないのです。

 大学の英語の授業で「テス」を1年間、原典購読したことがありました。今やスキャンダラスな感じになったロマン・ポランスキー監督です。彼の「テス」が、ナスターシャ・キンスキー主演で公開され話題になった何年かあとだったので、私としては直感的に官能的な選択だったのです。ともかくも毎回、自然のなかの風物、植物の名前を調べるのが苦痛でした。生涯、絶対に使わない英単語を調べるのに耐え、追試まで受けたのに単位になりませんでした。

 文学を学ぶのですから、自然の描写表現をしっかりと味わうこと、そういうなかでしか、しっかりと描ける力がつかないのは言うまでもありません。画家でいう、素描、デッサンの練習を放り出したのです。その分、声楽の先生のところに通いつつ、発声練習を続けていたわけです。今からみると、ただの狂気だったのですが、それも30年以上続くと、何も無駄はなかったと思うのです。

○詰める(「プリンキピア」)

 誰もが知っている「リンゴが木から落ちる」話です。それまでに何人も地球がリンゴを引っ張っていると気づいていたかもしれません。ニュートンは、20代で気づいて、40代で500ページを超える書物にまとめました。そこで初めて業績となって認められるわけです。

 詰めるという面倒な努力に栄誉が与えられるのです。つまり、価値はかなり面倒なところを経て生じるのです。それを面倒と放り出す人には与えられないのです。

 ですから、バカや狂人で、天才とかアーティストというにも2通りあります。

 一つのタイプは、作品や芸術活動を優先するあまり、他の事に常人のように関心がなく、周りに合わせて振舞わない人。もう一つのタイプは、詰める作業に狂人、バカのように打ち込める人です。山下清氏の貼り絵みたいなものです。

 詰めるには時間が必要です。待つこと、続けること、忍耐が必要なのです。必要なのは、耐える力です。

○感じる

 本人がどう感じているかは、それぞれに違うし、時期や作品にもよるでしょう。私は、最近、心や体の弱い人やそれに近い人をみると、一流の人と似たところがみられると思いました。そこで話したことで誤解させたかもしれないです。一流、天才と言われる人は病的であっても、病人とは違うということです。

 私がみて、弱い人がヒントになるのは、普通の人の感じないことへの反応、感受性です。この汚染された社会ではそこが鈍い人ほど健康ともいえるわけです。

 人に認められるには形式を整える、つまり、詰めの作業が必要です。それには体力、精神力を要します。

 思いつき、発想としておかしなことを考え、言う人はたくさんいます。しかし、そのままでは変わり者、行き過ぎると狂人として扱われます。すぐに思うがままに行動して人に迷惑をかけると、天才にも一流にもなりません。

 着想、発想が何であれ、精神が脆弱なままでは、それを絵や文章にしても一人勝手な陳腐な奇形なものです。それに耐えて、長い時間、未解決なまま、ずっと温め、現実に通用して他の人が承認できるような形にする、そこで初めて、クリエイティブとかアーティスティックといわれるものになるのです。

 自然描写のような細かな作業を、感情描写さえ絡ませていくという、アーティストなら、そこを苦しみ楽しむマゾめいた才能がいるのです。

 変わった人の変わったものから何かに気づいて作品にできる人はいるでしょう。でも、KISSがギターを壊すのをまねしても、アーティストと呼ばれない、過激なだけで何にもならないのです。

○感性

 「子供は天才」とか言われるのは、普通の大人より一途だったりデタラメなだけであることが多いのです。女子大生や主婦の感性で商品化されるといわれていた時代、私は感性について深く研究したことがあります。結論は、彼女らに目をつけて商品化した人が偉いのです。

 私も流木アートなどをやってみよう、と思ったことがあります。多摩川から拾った1.5メートルくらいの流木を研究所のエントランスに飾っておいたら、あるとき、大型ごみのシートの抑えに使われて、そのまま回収されていきました。私のセンスは誰にも理解されず、その流木にも人の心を動かす力がなかったのだから、流木も自業自得です。何千本の流木から選びに選んだものが何万円かの価値になるのです。簡単そうでも、その手間暇をかけずには、ビジネスにも、ましてアートになるわけがないのです。

 話を戻して、心身の弱い人の言動には、それだけ本気で痛切な気持ちが入っています。それで訴えかけてくるものがあります。吃音の人などは、ことばにできないことばを必死に絞り出したらすごく人の心を動かすものです。その一瞬を、強者であるオペラ歌手の舞台の歌の声と比べてみても仕方ありません。

 私が関心があるのは、人の心を動かす人の声です。そこに一流も天才もないともいえます。特別なことをせずとも、長く、あるいは、深く生きることで、声も顔も変わっていくのです。ただ、再現できない一過性のものでは、アートにはならないのです。

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