論48.声と音楽性を身につける

○声そのもののレッスン

 これまで、私は「声そのもののレッスン」というのを中心にやってきました。(あとの半分は、歌唱のための音楽、歌の判断基準を入れていくことです。)それはとても説明しにくいものです。
 体―息―声―ひびき、(姿勢―呼吸―発声―共鳴)と、瞬時に同時に行われるものだからです。それをこの4つで分けて、各々トレーニングすることもあります。
 体の中に空気があって、それを吐くときに声にしたら、ひびきます。姿勢と呼吸とは、歌うときのフォームとして、ひとまとめに捉えてもよいでしょう。
みえない呼気を発して声にすると、すでに発声で共鳴しているのです。意志、気、エネルギー、そういったものが発されて音声となるのです。それを支えるのは、筋肉と骨でのフォームで、全身が関わるのです。

○声が出ないところから

 私のように、十代で声が出にくかったものには、自在に声が出るような人の声の出方というのは、見当もつかない謎でした。料理人でいうと、その隠し味は何かと問うようなレベルではなく、どう素材を料理するか、素材とは何かというレベルにも至らなかったでしょう。いったい食べられるものと食べられないものとは、どう見分けるのか、食べて吐き出すものは食べられない、では食べられるものを見分ける、あるいは、食べられるようにするには、どうすればよいのかというくらいのレベルでした。
どんなに、サンプルとなる声をまねてみても、アカペラでほぼ同じ条件で録音しても、1、2秒の再生でプロの声と素人の声とわかるのです。声の大小も高低もなく、わかるのです。
鍛えられた声、練られた声と手つかずの声、口内だけとか口先だけの声は、明らかに違います。それなら、そうしたギャップを埋めなくてはと思うわけです。でも、どうしたらよいのか、ということです。

○音色

 音色というのは、人によって違います。歌唱のフレーズをサンプルとして聞いても、10人10声です。それでも、11番目に自分のを入れて聞くと、とても弱く頼りなく心地よくなかったのです。大人の声でない、プロの声でない、まるで素人の声なのです。
それをその土俵で勝負できるようにしていく、それは今から考えると、この複雑な表現の世界、まぎらわしい歌唱の世界へのアプローチとして、シンプルでわかりやすい基準でした。
 一流のプロの10人の声は、それぞれに違いますが、自分のと比べると、どれも力強く安定していて心地よかったのです。

○長さ

 とにかくも音色はよくわからないので、あきらめ、まずは、長さでみます。5~10秒と、ロングトーンです。クラシックならもっと長く伸ばすのもあります。1、2音を伸ばすところ、たとえば、「te―」でたった5秒、伸ばしておわる。ここだけでも、プロと私との違いは明らかでした。いえ、もっとわかりやすく差がついています。
 一流のプロのは、先の要素に加えて、深さ、さらに崇高さ、精神まで感じられる声です。それに対し、私のは、人格を全て否定されるような声だったのです。だから私は、自分の声を聞くのが嫌という人が少なくないのもよくわかります。

○高低

 長さでの問題は、高低ではさらに顕著になります。
中音域でさえダメなのですから、高音域、低音域では、もはや、お手上げです。
 ハイトーンなどは出なくても、無理に出そうとして出しているうちに、それなりに出るようになってきます。それが不しぜんで完成度が低く、到底、プロとして通じない、無理だと判断できるとお先まっくら、絶望を感じました。

〇レッスンへ行く

そして、ようやく発声やヴォイトレの必要を感じてレッスンに行こうとなります。
最近は、最初からレッスンで身につけていこうとする人も増えました。1、2カ月くらいでやり方を覚えて、半年から1、2年でうまくなっていくように思うわけです。
 私は、きっと、もっているものがだめなのに対し、求めるものはハイレベルだったのだと思います。歌と音楽での判断は、全然できなかったということもあります。十代での身のほど知らずということです。この声は、ポップスでの歌い込みくらいでは直しようがない、正統な発声を学ばなくては聞くに堪えるレベルに達しえないと悟ったのです。

○求める

 それは、大きな声で激しく歌うというのではありません。私は、サンプルとした歌い手たちの、話すときの声や、しゃべるように歌うのにも魅かれたのです。歌以前に、口先ではなく腹から体中ひびいた声がすでに出ている、そこのレベルで求めたのです。(そこはオペラのきらびやかなハイトーンに魅かれ、音大に行った人と異なるところです。)
 私の初期の本に、「声をつくりながら歌う日本人、声が溢れ出ていて歌えてしまっている外国人」というような対比表現があります。今から考えると、私は、第一に、声の出る体が欲しかったのです。

○声が出ている

 それから十年、「あー」と出したひびきがイスを伝わり床から足にひびいたとき、ようやく声が身についてきたと自覚しました。それは、十代後半からの人生のもっとも大切な時期を、ほとんどそれだけに費やしてきたことへの見返りです。そして、1日10時間、トレーナーとして声を使っていくことが同じくらいの期間、続きました。
私は、それだけのコストを他の人に求めようとは思いません。そこには、無駄も無用な努力、試行錯誤ゆえ、ロスも相当あったと思うからです。伝えるのなら、自分の費やしたコストより少なく、相手が価値を得られなくては意味がないと思うのです。

○筋トレと声トレ

 昔、自己流でマッチョになるのに10年かかった成果は、今は、ボディビルダーのジムに行くと、3~5年で、より確実に楽に効果よく得られるでしょう。
「結果にコミットする」というライザップでのダイエットなら、2カ月で、多分、確実に減量できるでしょう。それは、お金で1日24時間の管理を買うわけです。「食べ過ぎないから減量する」という当たり前のことさえ、人は、そうした覚悟をしなくては容易に成し得ません。
声においても、そうした成果を目指しています。しかし、体の筋肉よりも個人差が大きく、難しいのです。いえ、難しいタイプの人が何パターンもいるという方がよいかもしれません。
 音大にトップレベルで入れる人でも、2、3年でハイレベルとなるのは到底無理です。年齢もあるかもしれませんが、それなりの条件のない人では、5~10年はかかってしまうものなのです。

○弱点の克服と強化

 とはいえ、日本人でなければ、もう少し早くハイレベルに達するでしょう。これは、帰国子女やハーフの人のレッスンを、日本語以外で日本ではない環境に近づけて行うと成果が早まることでわかりました。西洋だけでなく、アジア、アフリカ、アメリカなどでも同じようです。日本人にはハンディが大きいのです。
 だからこそ、ブレイクダンスの分野のように、得意な人の少ない日本人にとっては努力の見合う分野になるともいえます。
音楽性、リズムもピッチ感も一流となると、そこは別の意味でハイレベルの2乗になります。しかし、声に関してなら、世界レベルに達するのはトレーニング次第といえます。

○3つのクリエイティビティ

 日本人には生活の環境、習慣に加えて、日本語をも含む言語表現の環境、さらに音楽の環境と3つの壁があります。それを一つずつ突破することを計画に組み入れなくてはなりません。
それに加え、歌い手なら、創造力です。アーティストということばに置き換えたらよいでしょうか。オールデイズのコピーバンドのヴォーカルなどとは異なる要素が必要です。才能というとわかりやすいでしょうか。
普通、ヴォイトレでは、創造力まで問いません。しかし、私は、歌のオリジナリティについては、声に加えて、フレーズ、フレーズの結合(構成と展開)の3つで問うています。3つが伴うとまさに天才ですが、どれか1つでもプロの条件としては充分です。

○オリジナリティと世界観

オリジナリティとクリエイティビティは違うのですが、そこには、いろんな考え方があります。
私は、オリジナリティは、その人の生来もつ条件、体、声質、性格などに根差していると考えます。
そのなかで声そのものは、楽器と違い、かなり本人の才能の発揮の方向を限定するものといえます。だからこそ、声そのものの可能性を目一杯広げた上で、自ずと限定されてくる中での差異、価値を取り出していくことが重要なのです。
それが認められたときは、オリジナリティと言うよりは、クリエイティビティや世界観と言われることが多いように思います。
多くの場合、今の声で加工しない方がよいということです。自分の声の根本的なパワーを充分、限界まで引き出すまで待つことが器を決めます。そのところに、本当の意味で、ヴォイトレが必要なのです。

○メロディフレーズの処理

別の見方ですが、オリジナリティを楽器特有の音としてみると、クリエイティビティをその音のつなげ方と考えることもできます。つながり方の方に音の特性が出ることが多いので、それもまた、オリジナリティでしょう。
私は、オリジナルフレーズ(でのメロディ処理)として、そこまでを基本メニュにしています。そこでとことん表現として煮詰めます。
一曲フルになるとプロの歌手でも必ずどこかで破綻します。2オクターブ近くとメロディ、歌詞をベストの声だけで処理できる人はとても限られているからです。

〇テクニカルより素質?

プロはそうならないように、いろんなテクニックで構成、展開します。そこは、けっこう人為的なのです。しかし、それらは、その人独自の持ち味、オリジナリティが出ている上で、許容されることです。日本では、それなしにテクニカルにつくりあげてみせているゆえ、浅薄さを免れないのです。
双方が伴ってこそ、真のクリエイティビティとなります。
しかし、歌は、また、おもしろいもので、いい加減なところもあります。マリア・カラスの歌を、そのまま本田美奈子が歌えてしまったりするのです。要するに、作品となれば、音楽性に基づくイマジネーションでの加工に助けられるのでしょうね。

○歌は、声と音楽

 歌のためには、声づくりとともに音楽を身につけなくてはなりません。これがまた、やっかいなのです。
一つは、メロディ、リズム、ことばといった基本要素の徹底です。これには、それぞれ多様なマニュアルが出ています。
ことば以外は、楽器で学べます。楽器の方が学びやすいといえます。声が出なくても音が出たら、そこで基礎から応用まで、つまり、楽譜を正しく音におこしていくところまでは、簡単な曲なら2、3年もかからないでしょう。歌のメロディを正しく演奏するだけなら、2、3カ月で到達できます。
しかし、本当に必要なのは音楽性を伴ったレベルです。そこまでは10年はかかります。

○音楽性と声のパワー

海外のプレーヤーのように、楽器が弾けたら、それなりに歌えるとならないのは、日本人の日常レベルにおける声の力のなさです。これは、ギタープレーヤーがベースもやるという近さではなく、ドラマーがキーボードを弾くくらい違うものです。しかし、音楽的ということでは、スポーツが違っても一般の人よりも他の競技のプレーヤーは基礎体力や運動神経などがあるだけ、ずっと有利なはずなのです。
楽器ができたり音楽性があるだけで、シンガーソングライターや音楽性の高い歌い手になれてしまう人もいます。この場合、声のパワー、歌唱力は、それで勝負している歌手よりは、絶対的にないのです。
 日本のジャズ歌手などは、くっきりとこの2パターンに分かれます。英語の発音がよい美人歌手などは少なくありませんが、太ったパワフルな日本人歌手などはあまり見ないものですね。それは、ミュージカルにもいえます。ただ、パワーがなくなった分、個性的な劇団出身の割合が低下して、優等生の音大出身者が増えています。

○研究所の教材

 研究所では、音大に入るためや音大で使う教本を併用しています。メロディ、音程、リズムの基礎は、「コールユーブンゲン」を、それも難しい人には「子供たちのソルフェージュ」のシリーズ。拙書では、「ヴォーカルの達人 音感、リズム編」「ヴォイストレーニング大全」(共にCD付き)にあたります。
別に、音程の全パターンやリズムの全パターンのCDもつくりました。全パターンとは、曲ではなく、音程やリズムの組み合わせの全てを並べて、それに慣れていくということです。
ただし、こうした基礎は、読譜や聴音と同じで、音大生などの必要とする基礎力にすぎません。合唱団ですぐに歌うときに対応できるくらいの力です。ですから、音楽性というのには、全くもって足りません。全自動ピアノのバイエルの演奏くらいのレベルに至ればよい方です。

○天与の力

音楽性そのものは、天与のものかもしれませんと思うこともあります。天与というのは、同じ条件で聴いたときに、他の人よりも捉えることができる、きちんと正確に、ていねいに、いろいろ気づく、いや、誰よりも感動して接することができるのが、最大の能力かもしれません。大体、心から感動しなければ、この道に人生を賭けようなどとは思わないでしょう。一流になった人は、そうした原点から違います。

○多種多様のヴォーカル

ヴォーカルにおいては、その動機としては、かっこよい、あこがれる、もてたい、目立ちたいなども、少なからず、あるものと思います。
 多くのプロの人と接するのも長くなっていくと、レッスンで声の地力、特徴に加え、日常生活や育ちなども知っていくわけです。ヴォーカルにおいては、あまりにも多様で、一くくりにして述べられません。歌そのものも、歌うのが好きとは限らないという人もいます。このあたりは、いずれ、別にまとめたいと思っています。今は、こうしたレッスン体験が、独自かつ普遍的と私が思っている研究所のレッスン体系をつくっているというのに留めます。

○器と懐の深さ

レッスンには統一マニュアルはないのです。多様な人の多様な目的に合わせ、さまざまな教材と判断の基準をもって対するということです。
あなたが1叩けば1、100叩けば100戻ってくる、というようにセッティングしています。逆にいうと、10しか叩かなければ10しか得られないのです。
私が思うに、日本の教育は、ヴォイトレでさえ、全員に10を、ほぼ同じベースで与えようとしていきます。できなくとも5にはして、いくらできても10まで、という感じです。
それは、クリエイティブな世界において伸びようとする人には、時間の無駄というか、方向が違います。飛び級の連続で、どんどん叩けるようにしておき、それをトレーナーが個性的に広げられるようにしていくのが理想です。
 ただし、トレーナーが個性的すぎたりアーティストすぎたりすると、そのファンクラブのように、そこで楽しむ趣味で終わってしまいがちです。それでよければよいとは思いますが、気をつけなければならないことです。

○教材

 声づくりの実際については、論点やトレ選にも詳しく述べています。「トレ選」(ヴォイストレーナーの選び方)を中心にお読みください。私の声づくりの理論書は、「ヴォイストレーニング基本講座」「ヴォイストレーニング実践講座」(シンコーミュージック)です。
 音楽へのアプローチは「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」(音楽之友社)に詳しいです。ここでは、音楽性を養うこと、つまり、歌手の耳の鍛え方をアドバイスしています。
私が、求められるレベルと今の声のギャップと言ったうち、今の声の足りなさは、声づくりでトレーニングしていきます。求められるレベルを高めるには、耳を鍛えることです。どういう音楽、歌がすぐれているのかを瞬時に判断できる力を身につけていくということです。

○トレーナーの評価力と説明力

先に述べた音楽基礎は、単に、リズム感、音感、ことばの正しさをチェックするだけです。本当は、自分の声、歌をどこまで客観的に評価できるか、これが修正や補強をしていくときのベースになります。もちろん、プロデューサー、トレーナーに評価してもらうのはよいですが、それは、評価基準を学ぶためです。
そして、ここがもっとも強調したいところですが、歌のよさ、声のよさをきちんと聞き分けられるトレーナーでも、それをことばなどでしっかりと伝えられる人は、ほとんどいません。
 歌のよしあしなどは、素人でもぱっと聞いてわかります。しかし、たとえば、「カラオケチャンピオン大会レベルでも、全員にブレることなく点数をつけられますか」、「その根拠やスタンスを本人やまわりが納得できるように説明できますか」、ということです。

○評価の違い

 私がみると、歌の評価は、プロ歌手やプロデューサーもかなりいい加減です。好き嫌いではなく、すぐれているかどうかでみることができなくなってきています。器用でうまいのではなく先の可能性、潜在能力、素質があるのかということです。
私は、トレーナーとしての立場で、長所と可能性をみます。レッスンやトレーニングを前提とするのですから、そこが第一です。
多くのトレーナーは、音楽性ではなく、基礎音楽レベルで正確でないところを減点としてみて、そこを直すレッスンをします。
私からみると、それは、すでに音楽的な感覚が入っていないか、そのイメージに声を動かせないのであって、いくらその延長上で思い通りに歌えるようにしても、大したレベルには達しません。歌ということなら、楽譜とどんなに異なろうが、新しい表現価値が出ていたらよいということです。
私は、専ら音楽性と声との兼ね合いでみます。しかし、巷のトレーナーの多くは、欠点の修正と声の調整だけをしているのです。それが全て直ったところで、正しく美しい歌になっても、魅力的でパワフルな歌、人を惹きつける歌にはなりません。

○私の専門分野と限界

 そうして自らを振り返ると、私は、プロのレベルと一流との間のギャップをみることをずっとやってきたのです。そこの判断と実力養成が専門といえます。そこをみる才能はあるということで、これまで続けてこられたのです。厳密にいうと、それは、専ら、日本人の歌い手についてのことです。外国人のグラミー賞レベルの判定になると、このスタンスではできません。(日本のレコード大賞などの選別などもです。)
カラオケのチャンピオン大会などでは、厳密にジャッジできますが、そこにいる審査員とは、一致しません。うまく卒なく器用に歌えている人を高く評価していることが多く、個性的、魅力的なパワフルなヴォーカルは、大体、準決勝くらいで落ちるようなのが、彼らの基準です。
私がジャッジできるというのは、誰よりもその根拠を細かく説明できるからです。声と歌という音楽性に基づいたところにおいてのことです。それは、舞台や現実社会の現場までは充分に通じることでしたから、何年もやってこられました。PV(映像編集の作品)などルックス、振り付け、ファッションセンス、ダンスなどを入れた総合評価では、プロデューサーほどお役に立たないかもしれません。そういうときは、別の専門家と分担とさせてもらっています。

○日本の価値観とその行方

 ものまねの歌は原曲を知らなくとも見分けられます。選曲のよしあしの判断も、かなり慣れてきました。本人の選曲がもったいないと思うことも、歌い方のもったいなさに気づくことも多くなりました。
これらは、暗闇の世界での聴覚での判断、「耳で聞いて」ということです。こうした音声の表現力の判断は、せりふにも通用します。
 私からいうのなら、私が偏っているのではなく、世の中の歌や歌い方が偏ってきたのです。ですから、歌は、お笑い芸人の漫才やコントのパワーにも負けるようになってしまったのです。
国際的な基準で見ると、日本の歌手や役者の力不足、人材輩出力のなさは明らかです。
もちろん、日本は、日本人に合ったガラパゴスな市場からヴィジュアル系、アニメ系を中心にクールジャパンという発進をして、世界的な評価を得てきています。しかし、要するに、この分野では「かわいい」と未熟を中心としています。その普及は、世界も日本のように平和ボケしつつあるということと考えることもあります。そして、そのよしあしについては、否定しきれないところもあります。

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