論44.ヴォイトレと研究所の歩み~現代発声論

○声のプロ

 武道やスポーツが心・技・体であるように、声もまた、扱うのには、この3つの統合が必要です。
 しかし、声のプロというのがあまりに何を指すのかが不明確なため、目的もトレーニング法もなかなか定まりません。どれもこれも一つひとつしっかりと検証していかなくては、これから声を身につけようという人には、訳のわからないものになるでしょう。
歌のプロというと、声を媒体として、詞やせりふと音楽を統合させた歌を高度に表現できる人を思い浮かべるでしょう。
プロというのも定義が必要です。プロとしての声は、仕事なら、稼げる(価値にできる)レベルでしょう。一流である、影響力を与えられるなどから、シンプルに声そのものやその使い方がハイレベルなこととしておきます。

○歌手と役者は、声のプロか

 かつては、歌手は、まぎれもなく声のプロ、ハイレベルの使い手でしたが、今や、そういえないことは、ここで断るまでもないでしょう。それは、役者にも通じます。いや、役者にはせりふ、声の力が問われるとしたら、役者が少なくなり、俳優、タレントと言われる人が多くなったということでしょうか。
マイクの使用に始まった音響技術の発達に加え、映像技術の発達と普及は、声の力をフォーローアップしつつ、求められる能力を大きく変えました。特にヴィジュアル志向の日本では、です。
日本でいうとそこで起きたのは脱欧米化というよりも、芸のクロスオーバー、融合化でしょうか。音声の芸もさまざまにマルチメディア化され、職もまた、クロスオーバーしていきました。主流はマルチタレント、何でもこなす「芸人タレント」となっているのです。しかし、そこまでになると却って、はっきりと声のプロを定義できなくもないと思えてくるのです。

○教える人の専門畑

 本人の資質、本人の身につけてきたもの(学んだもの)、対象とする相手、この3つをみると、表向きにはその人が、どこが専門か、ほぼ見当がつくでしょう。
たとえば、歌の先生とカラオケの先生は、違うイメージがありますね。合唱の先生とオペラの先生も近いようで違うでしょう。日本語の先生と話し方教室の先生は、さらに違いますね。役者、声優、ナレーター、アナウンサーを教える先生となると、プロデューサーや演出家のこともあります。

○基本と応用技

 その人の専門と教えていることが違うこともあります。私のところでは、声優やアナウンサー、噺家を声楽家を中心としたトレーナーが教えています。
声楽家が、声のプロだから誰でも教えられるとか、万能というわけではありません。
自分が学んだことを自分と同じ道を行く人に教えるのには慣れているということです。が、そこでも、どれだけ教えられているのか、いえ、育っているのかと考えるとどうでしょう。むしろ、本職の基本を他の分野の人に応用して教えた方が確かともいえるわけです。

○声楽での処方

 音大出身者は、声について、万能どころかとても狭く、それでいて、必ずしも深いわけではありません。一般の人に接して、通じないとしたら、それは狭く深いためでなく、浅いからだということがわかることもあります。
一般の人や初心者相手なら、自らは声について知っているし実践しているから対応できるというケースで、声楽家も、一般の人向けにヴォイトレなどをしているのです。指揮の勉強をほとんどしていないのに合唱団を指導できる人がいるのと同じく、そうした一般向けレベルでの応用で許容されているといえます。

〇負けの原因

「この頃は、愛好家が減って」というのは、日本も人口が減っているので、その分は当然ですが、それ以上に、世間から隔離されているというのが、大きな要因でしょう。他の分野に表現活動の影響力において負けつつあるのです。
 それは、クリエイティブに表現していく精神力の差です。ゼロから創造してきた世界の偉人たちや、ひと昔前の一流の人の偉業、その表現力の威光によって支えられてきたところが大なのです。それを普及し、さらに改革しようとしてきたのが続かないと、むしろ内部でまわすだけに保守化してしまうわけです。

○研究所での声楽トレーナーの学び

 研究所のクライアントは、ここでいろんな声楽家のトレーナーと接します。
声楽出身のトレーナーは、一般の人には、発声のベースをことばに応用して対応していきます。他の分野のプロ、役者、声優、噺家や邦楽家へとなると、そこは、一般の人と接するところから、かなり深めて学ばなくては対応できないものです。そこで教えて学んだことで、一般の人には対応できる力がつくともいえます。
ですから、トレーナーとして残れる人も限られてきます。音大や院で学んだことを伝えることにすぐれていても、不充分です。自ら他の分野に学び、そこでクリエイティブにレッスンを組み立てられる能力がいるのです。クライアント以上に学ぶ能力があって、それを学ばせるといってよいと思います。(研究所は声の養成所ですから、ここには、声優のアフレコや役者の演技、ミュージカル俳優のダンスなどのレッスンはありません。音声が専門で、それ以外は、他の専門家に任せることになります。)

○技量の試行

 となると、研究所は、クライアントだけでなく、第一に、トレーナーにとっても世界に開かれた窓ともいえましょう。声に関心をもつ人が集まるのですから、そこで今の世界や日本を学ばずにどうするのでしょうか。
オペラ歌手ともなれば、海外へ行って、いろんなものを持ち帰ってはいますが、そのままでは特殊なものですから、今の日本に接点をつけて、うまくおろしてくる技量が試されるのです。
ここにいるのは、声に関心をもち学びに来る人ですから、ここのトレーナーは恵まれているのです。日本人の多くは必ずしもそうではないのですから、ここでうまくいったところでまだまだ甘いのです。

○リストラクトする力

自立するように育てるのに自立できていない、そのことを知らずに自立しているつもりなら、やはり先はないのです。
これは声楽家への悪口ではありません。今や邦楽も含めて、ほぼ全ての音声、いや伝統文化の分野に当てはまることです。
時代は変わります。そこで変わらないものを継承しつつ、自分は変わっていくという覇気と挑戦が必要です。そのときのエネルギーや支えとなるのが伝統というものでしょう。伝承だけでは、博物館に入ってしまうのです。辞書から学ぶのは新しく書き換えるためであって、それをそのままに伝えても、リアルに表現にならないのです。

○時代と共に

 とはいえ、ヴォイトレに限っていうなら、それはまだ表現ではなく基礎です。作品ではなく練習ですから、判断一つ、なかなかややこしいのです。プロ歌手のなかには、売れてもいないのに、ヴォイトレでCDなどを売っているヴォイストレーナーをひがんでいるような人も、少なからず、いました。
トレーナーには、プロから転向したり、兼業している人も少なくありません。それも一つの新しい動きであり、そこでつくったものも、私は作品と思うのですが。(もちろん、質としては、低く、歴史ある分野と競えるレベルにないものが多いのですが。)
売れている歌手や芸人でも、体験型ワークショップや舞台と客席を一体化した演出などを取り入れ、変革して、時代の要求に合わせ工夫し続けてきたから先があるのではありませんか。

〇ワークショップという芸

 私は、ワークショップを刹那的なものとして、トレーニング面では批判的に述べてもきました。しかし、「一期一会が芸」という本質からみると、それもまた作品です。まして音声、音やことばは聞いた端から消えていくので、それを本道としているワークショップのトレーナーは、歌手や役者、演出家でもあるのです。

○日本の宴会芸

もとより、歌は、日本では、主役のいない宴会芸でした。海外では主役の一人のアピール力に負います。路上パフォーマンス、コール&レスポンスで主客一体であったし、DJもラップも今までのロックコンサートでも、その流れ上であったのです。
日本でも商業的に成り立ち、大きなお金が動くようになると、民謡などと同じく、特別にプロ歌手が出て、客が金を払って席に坐って一方的に聞くという形になりました。そこでテープやCDは、お札を刷るように儲かっていたのです。

〇一体型、体験型、エンターテイメント

たとえば、ピンクレディは、大ヒットの時期は、作詞家、作曲家の時代にマッチした作品を彼女らが演じさせられるものでしたが、後年、復帰したときは、客がステージの彼女らを見聞きするよりも、一緒に、あるいは、自分たちで歌い踊っている一体型のワークショップ型になっていたのです。
耳だけで聞いてきたものがみえるようになると、あるいは、誰もが歌えるようになると、体験型アミューズメントになるのは、エンターテイメントの宿命でしょう。

○音声力の弱化

気になるのは、絵がつき動きがついたからといって、音声が劣ってしまっては、そこのレベルは下がる一方だということです。その点、昔の一定水準を維持している海外に比べ、音声、特に歌唱や声力での素材における劣化は、日本では著しいと思われます。現にそれを補って余りあるほど、日本で向上したのがアレンジ、ミキシング、音声加工技術です。
マイクがあれば声量はいりません。しかし、そこでいくら口先をうまく使って高得点になっても、伝わらないのは、ただの実力のなさ、そして素人芸の消費です。それで終わってよいのかということです。
それでよいという人が日本では多いので、(あるいは、その方がよいという人も多いのでしょう。)これは、日本人全体に向けて批判しているのではありません。それでよい人はそれでよいのです。歌や声は、あいまいにできるので、よいともよくないともなるのです。

○総芸能人化、タレント化する日本

スポーツでは、記録がトップの半分も追いつかない人、学校のクラスの中でも一番になれない人は、プロになれるとは考えません。
しかし、芸人、役者、歌手は、なれないとは限りません。いや、なれた人がたくさんいるし、むしろ、だからこそなれたという世界、元より、アウトローの居場所でした。
いろんな方法、手段があり、いろんな素質が活かせるので、よくも悪くもあいまいだということです。

○声本位

 研究所は、音声、ライブ、表現と3つの指導を当初より掲げてきました。このライブとは、生ということです。生声、つまり音響加工に頼らない声のことです。頼らないのは使わないのと違います。生声で使えるレベルで使えることを目指せばよいということです。
 このあたりの考えは、最近のヴォーカルスクールやヴォイストレーナーとは対照的です。
ヴォーカルにとって、声の重要性の比率は、かなり違います。客、ファンによっても違います。ですから、作品から考えるのなら、音響などのフォローで早くレベルアップしたものにするのは当然です。
声で勝負できなくても歌手としてプロの活動はできます。そうした可能性の一つとして、声をみておけばよいのです。その上で、全体の1割のニーズであろうと、声をしっかりと学ぼうというのが私の主意です。

○声のある人

 「声のない人が声のある人になる」、そこが、ここのノウハウといえます。声のある人なら、それをベテラン俳優やオペラ歌手レベルに声を扱えるようにするということです。
声の養成とその使い方のレベルアップは異なる問題です。ギターをつくることと弾くことは違います。
大半のヴォイストレーナーは、声の使い方を教えています。人前で何かを教えることに慣れている人は、早く話し方の先生になれるでしょう。ステージで歌った経験のある人ならすぐ、ヴォイストレーナーになれるでしょう。それは、歌い方、話し方、人前での慣れというキャリアで伝えられるものだからです。
しかし、研究所では、声のつくり方から徹底しているのです。
ですから、トレーナーになるのも、それを務めるのも、そう簡単なことではありません。ちょっと歌がうまい生徒をすぐトレーナーにしてしまえるようなスクールとは、根本的に違うのです。

○両極のニーズ

声は、誰でももっていますから、そこは本人が求めれば、どこまで求めるかということです。つまり、満足せず、基礎の基礎からやりたい人、声のない人、弱かったり傷めたりして出すことに不自由な人など、まさに一流レベルと初心者以下レベルという両極に、もっとも明確なニーズがあるのです。
 私の考える声の基礎は、全分野に対応します。声の使い方を別にして、ということです。つまり、ヴォイトレの基本を試合ではなく試合の練習でもなく、基礎トレ、筋トレのようなものと言ってきたのです。それゆえ、分野も使い方も関係ない。それゆえ、どんな人もそこで合点がいくなら、受け入れてきたのです。また、対応もできたのです。歌やことばではなく、声なのですから。

○昭和までの歌のヴォイストレーナー

 役者向けのヴォイストレーナーを除けば、ヴォイストレーナーは、歌の伴奏のできる人が、声のよい人、歌のうまい素人を正しく歌わせ、プロにするために出てきた職です。
ポップスのプロ歌手は、独自すぎて人に教えられなかったので、どちらかというと、ピアノやギターを学んだ人が歌を教えるものだったのです。カラオケボックスもなかった時代、新しい歌を正しく覚えるために、先生が必要だったわけです(アメリカでは、歌手のレコードから歌声を除いた「マイナスワン」というのが発売されていました)。

〇昭和までの歌のヴォイトレ

 そこにヴォイストレーニングもなかったし、声のトレーニングもなかったのです。まさに、声の使い方、それも音大生レベルに正しく、音とリズムが外れずに歌えるのが第一の目的でした。後は本人の地の声のよさとかタレント性、パフォーマンスで凌いでいたわけです。
そのうち、テレビ映えする子をオーディションで選んで、歌もそれなりに歌えるようにしたのが、昭和の歌謡曲全盛期でのヴォイストレーニングでした。
その当時は、作曲家が、声のよい人や歌の心をもつ人を選んで弟子として、下積み生活の中で歌心を表現するテクニックを教えて育てたのです。

○歌の観点と声の観点

 トレーナーとしてみるときには、歌の観点と声の観点があります。それで同じように教えても、普通は、他の皆ができないところができてしまう、いや、普通でなく目立って出てきてしまうのが、才能です。
トレーナーなのに歌わないのか、プロの歌手にならないのか、という問いは、ハイレベルでは、見当はずれなものです。一流の歌手と比較するとよくわかります。(日本のプロ歌手の場合は、比較しにくいのですが。)トレーナーの多くは、声も歌も専門ではありません。
私は、ここでは、声があるトレーナーを優先しています。基礎づくりのヴォイトレが中心だからです。何よりも歌い手以外の人が多数、いらっしゃるからです。

○習得力

 一流のポピュラー曲を取り上げていくうちに、声楽出身のトレーナーも、そうした歌の観点を得ていきます。この率は、優秀なクライアント(レッスン受講生)と大して変わりません。となると、歌の観点を得る能力も才能といえるのかもしれません。
 それは最初に述べたうち、本人の身につけてきたもの(学んだもの)にあたります。

〇気づく力

私は、ここにくるまでに本人が身につけてきたものとここで身につけていくものに分けてみています。多くを学んだ人には、身につけるときに気づいていくことがあります。
気づかないのに学んだものが素質といえるのかもしれませんし、気づけることも素質なのかもしれません。
一人でできないことを行うために、ここがあります。一人では気づかなかったことに気づかせるために、どのように他の力を使っていくかがノウハウといえます。

○人間の学び

 育てるには、条件づくりのための環境を整えて、待つしかないというのが本当のところです。
トレーナーとのレッスンよりも、外の世界、大しぜんやその集約されたアートに学ぶところが大きいのです。そして何よりも、最大の学びは人間そのものからです。
 表現というのは、社会的事件なのです。ですから、社会の事件・事象に関心をもち、そこへ問う姿勢を育てることでしょう。自分の考えを深め、表現することもなく深まることはありません。
 世界に通じないのは、世界に関心がないから。そういう人が多くなると、その分野は形骸化していき、先がありません。
しかし、分野などが確立したところで、すでに古いのです。確立すると約束事が多くなり、その習得だけに集中してしまいます。

〇スターの条件

それよりも、一人で何をどう行うのか、それが周りの人をどのように巻き込んでいくのかが全てでしょう。次代のスターは、いつも旧態然としたところを飛び出すのです。
 それはメディアやSNSなどでの発信の力ではなく、作品としての価値です。アートそのものに人が感じるメッセージとしてです。
たとえば、今であれば、表現の自由とヘイト、グレタ・トゥンベリ、香港、難民、ブレグジットの問題など。(2019)

○発展と変容

 声からことば、一方で歌、そこへマイクという加工音響機材、PA(アンプ、スピーカーでのリヴァーブ加工)ヴォリューム、共鳴、音色のコントロールなど、これらは、フィジカル面、体、呼吸、発声、共鳴、特に、声量や音色(声色)の不備を補います。 
 それと共に、声域、ピッチ、リズムなどの修正、ライブはともかく、音源においては、加工を超えて創造とさえいえる領域に入っています。
 声は素材となり、それさえも代替えされていくかもしれません。
こうした動きは、楽器の世界では、シンセサイザー登場以来、ほとんど完了し、一流のプレイヤー以外は、ハード面、ソフト面でも置き換えられています。
そして、声も含めて、あらゆる分野にAIがとどめを刺そうとしています。まさに書が、ワープロ、PC、スマホとなり、和文タイピストや写植屋の職は滅び、筆から鉛筆、ペンもキーボードに変わったのと同じ、次に音声や脳波での入力となるのが明らかなように、変わりゆくのです。


○原点に戻る

 話を元に戻します。元は、ヴォイストレーナーは、伴奏を正しく弾いて歌心をアドバイスするところから始まったので、声そのものは、さしてみていませんでした。すでに声のある人を選んでいたからです。選ばれた人にプロの詞と曲を与えてデビューさせて、曲が売れた人が残っていったということです。
 原点は、想いをことばにして節をつけて声に出すところです。しかし、これは、すでに声の基礎そのものからかなり離れたところにあったのです。

○ピアノと楽器のプレイヤー

 西洋音楽がピアノと共に日本に入ってきたところから、音楽のできる人はピアノが弾ける、いや、ピアノが弾けたら音楽ができると思われていたのです。
もう一つは、楽譜です。作詞家もプロとして優劣があるといえ、歌唱となると、ことばは誰でも読めるけど、正しく歌うのは別のテクニックです。作曲家、演奏家の出番となります。声や歌を教えるのに、歌手よりもピアニストやピアノが弾ける作曲家の先生が適任だったのは、そういう特殊な状況によるものです。
ですから、作詞家、作曲家は先生で偉かったのです。また、音楽を演奏できるバンドマスターも、ただそれに合わせて歌うだけの歌い手よりも地位が高かったのです。たとえば、前川清がソロで歌っていても「内山田洋とクールファイブ」だったのです(この場合は、コーラスグループで内山田はギター担当)。

○脱アカペラ

いつのまにか、歌はアカペラではなく伴奏と共にあるのが疑われなくなったのです。それゆえ、伴奏のないのをアカペラというようになったわけです。
そういえば、私の若い頃は、歌うとなると、ギター、ベース、ドラムを集めて「バンドやろうぜ」だったのです。今も、ビートルズの頃以来のこの流れは、基本的には変わっていません。
 楽器は、他の楽器とセッションしますが、ジャズなどではソロもあります。歌は、アカペラというのが一時ブームになりました。アンプラグド(エレキ=電気、を使わない)ブームと同じ時期です。歌もピアノやギターで弾き語ることが一般的です。今はカラオケ、打ち込みで伴奏も補えますが、歌だけ、声だけでは、あまり様にならないからでしょう。

○役者と歌手のヴォイトレの違い

 私は、日本の歌の、歌ではなく声のレベルの低さに、ヴォイトレを始めたとき、役者の声を先に求めたわけです。
当初、ヴォイトレでは、役者は何もないスタジオ、歌手はピアノのあるスタジオで行いましたが、私には、それほど違和感がありませんでした。
しかし、音大出身のトレーナーなら、ピアノがないとヴォイトレはやりにくいでしょう。かつては、声を出すことには、ピアノ伴奏をつけているトレーナーがほとんどだったのです。

〇基礎の基礎力

音大も、しっかりしたトレーナーは、曲を歌わせたあと、伴奏をなしにアカペラでチェックしていました。しかし、そういうことを基礎と考える人が減りました。
 確かに音楽教育ということなら、歌も、扱いにくい声から始めるよりも楽器に学び、その音楽的な流れに声を乗せていく方が早く効果的でしょう。そうして「楽に楽しく」の流れの中で失われていったものが、基礎の基礎力です。聴く力と声を出す力です。

○先生の盲点と格好づけ

 ポップスの世界でも、歌手であろうとなかろうと、プロであれアマチュアであれ、人に教えるなら、ピアノが弾ける、ポップスなら頭の中で移調できて弾けたら、これは、かなりピアノやコードに慣れないと難しいので立派な先生とみられるのです。
その先生が演奏すれば、ステージもそのままできるし、格好がつくのです。先生の伴奏の力に支えられたステージとなります。その客もずっと先生の客のままですから、先行きも明るくないでしょう。なのに、それでもってしまうのが、日本の客のやさしさ、甘さです。そこに甘えてはいけないのです。だから、格好のつけ方の演出や補助技術ばかりが、発展して補うようになり、歌い手もまわりも本当のことがわからなくなっていったのです。

○パフォーマンス芸

歌手も芸人なので、格好がつくように整えるのは必要です。芸人の音楽ネタのように、です。しかし、格好は、パフォーマンスともいえますから、先走っていきます。形優先ということで流れていくのです。そしてもっと肝要なことが忘れられたのです。つまり、この場合、歌は歌手の力ではなく、プロレベルのバック、たとえば、ピアニストの力で成立しているようになったのです。
これは、バンドでも同じです。マイクという音響にバンドという装置、ステージで照明や衣装といった見せ、そして振り付けというパフォーマンスで成立します。
小林幸子からパフュームまで、ここで否定しているわけではありません。ここまで述べたいことは、ただ一つ、声の力を見落としてきたということ、あるいは、その重要性に気づかず、力を入れてこなかったことです。つまり、私の立場からです。

○声のパワーの比較

 初期において、20世紀中頃までは、声のある人しか歌手にならなかったのです。それが今や、オペラ歌手を目指すのでもなければ、エレクトロニクス機器の発達で、声の重要性が、パワー、声量、共鳴から音色、声質、音感やリズムへと変わっていったのです。
マイクを使わない世界、邦楽、詩吟、民謡などでは、今も声のパワーは大切な要素です。海外のポップスなどは、今も日本などとは比べものにならないほど地声がパワフルです。
ツールがいくら発達しても、生身の人間を中心とする骨太の根本は変わりません。私としては、以前より、ロックスター=レスラー論を唱えていましたが、今ここで再び、歌は、声という人間の体での肉体芸術という面を忘れないで欲しいのです。

○反転の反転

海外では、歌い手はともかく、客の耳の方が、日本ほど変わっていかないと見た方がよいと思います。ですから、できあがった歌手をどうみせるかということでは、ショービジネスとして、円熟した実力派でしか成立しないわけです。その点で、プロデューサー、アレンジャー歴のあるトレーナーが主流です。
日本人が声のパワーをつけに行っても、声質で見られ、使い方だけを教わり、むしろ、パワーダウンして戻ってくることが多いのはそのためです。しかし、さらにパワーの弱小化した日本人の声の歌に、反転の反転で合うといえば、その通りなのです。
 つまり、現代のヴォーカル状況において、ヴォイストレーニングのメニュの主流は、バランス調整になっているのです。そこは、もはや、伴奏、マイク、音響加工なしでは、聞こえない世界です。
たとえば、マイクにヘッドホンでトレーニングするのです。それは声のトレーニングではなく、声の出し方、いや使い方でのことです。根源の力としての声力のスルーです。

○器

 歌唱に対してのバランスは、パワーの方向としては逆ですから、声量がダウンするのは当たり前です。発声に対しては、発音がマイナスに働くのと同じことです。
私が器が大切というのは、小さな器で歌う声域やハイトーンを優先すれば、他は犠牲になるからです。バランスがとれなくなるので、ミニマムでまとめることにならざるをえなくなるのです。(反論する人からいうと、声量を優先すると、声域や音楽的要素、声質にマイナスに働くというのなら、その通りです。)
そして、何度も指摘しているように、スポーツ、武道で同じく体を使うものは、最初に小さくまとめると、そこから抜けられなくなるのです。
ゼロから方針を長期にわたり見直すことが必要だということです。いえ、大きくなる可能性をみずに、小さくまとめてしまっては、もったいないということです。必ずしも誰もが大きくパワフルになれるとは限らなくても、ハイパワーの限界をみてからでよいでしょう。小さくまとめるのは、いつでもできるのです。

○フォームづくりでの誤解

 フォームづくり、そのための基礎づくりをするには、歌唱バランスと逆行するため、一時、歌が下手になったり、声が落ち着かずに扱いにくくなるのです。しかし、そこを乗り越えなくては、声としてはステップアップができないのです。
こうした当たり前の考えを、私独自の理論であり、それゆえ誤りのようにみなす人が少なからずいます。確かに、100パーセント、スムーズにできあがっていくわけでないのです。それも、30年以上、検証してきました。
しかし、これは私の理論でなく、トレーニングとしての正道です。上達の原理としては、何ら新しくも奇抜でもないのです。それはスポーツや武道をやった人なら、語らずとも体でわかることです。頭でしか考えられない人が短期で上達しようと無理をするので逆効果にしてしまうのです。
 バランスを全く崩さないままフォームを変えるのは至難の業です。ようやく私の研究所も声楽をリスクヘッジにして両立できるようになりました。しかし、ステージが繁雑に入る人のケースなどでは、とても時間がかかってしまうのです。

○失われる魅力

 演奏のうまい先生は、カラオケのうまい先生に似て、心地よく、すぐに早く下手でなくしてくれるのですが、その後、全く伸びないように思いませんか。特にパワー、個性がなくなるのが特徴です。
先生の個性が強いと、それで似てしまう人が多いことからみると、無難でローリスクですから趣味で楽しむ人には向いています。しかし、安全、安心の優等生の歌、「文句はつけようもない」という文句がつくのは、魅力として、全く反しているのです。
声そのもののパワー、声の使い方でのパワーとしてあります。その人のパワーが拡大して出てこない歌は、必ずしも悪いものではなく、そういう個性や魅力の上で開花させて活躍しているタイプもいます。しかし、ヴォイトレを関連づけるのなら、方向として違うといえます。

〇可能性を大きく求めて

総合的なパフォーマンスで支えられている、それはよいのですが、その前に、声もしっかりと最大限、開花させておいたのなら、さらに大きな世界が開けるからです。
声を制限して使うのは、歌唱テクニックとして欠かせないことです。しかし、私の考えるヴォイトレは、まずその制限を取り除くことからです。自在に声を扱えるように、目一杯、もっとも使えるところまでいく、本当の限界、マックスを知っていくのです。
今の心身ではなく、トレーニングした心身で、勝負できるようにしていくということです。これを私の考えや独自の理論などと言われなくてはならないのなら、とても残念なことです。
 「ヴォイトレそのものに向かい合って、ヴォイスそのものをトレーニングしてみませんか」と私は言いたいのです。

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