論60.ヴォイトレの変容とその背景
〇目的の違い
お医者さんと接していると、大きく役割が違うところがあるのがわかります。彼らの目的は、症状をみて元に戻すことです。
それに対し、私たちの目的は、元より高めることだからです。とはいえ、これは、なかなか複雑な問題で、そこには大きなグレーゾーンがあります。
というのは、トレーナーのところに来る人には、医者の目的に近い治癒、回復を前提としなくてはいけない人もいるからです。
〇原状回復
その点、ヴォイストレーナーもフィジカルトレーナーを兼任しています。オリンピックの選手を育てるトレーナーも、ケガの治療、スランプからの回復も扱います。
武道家も同じでしょう。誰よりも強くなるとしても、ときに、ケガをしたり、以前できたことができなくなることからの原状回帰、いや、前によかったと思うところまで戻さなくてはいけないことも少なくないからです。
〇対象とメニュ
対象によっても、かなり異なるでしょう。養成所のように、すでに選ばれた、心身とも秀でた人をより高めていくことがメインのケースと、整体師のように、心身が普通より弱い人や弱くなった人を正常な状態に戻すケースでは、行うことがかなり違ってくるわけです。
そこでは、メンタルトレーナーを兼任するといえます。
〇ここ20年の変化
21世紀になって大きく変わったのは、ヴォイトレにおいては、前者から後者への移行が進んだことです。つまり、整体師や医者に求めるようなニーズが多くなり、そこでの対応で求められるようなことが増えたのです。
これは、ヴォイトレが普及し一般化したことの裏返しでもあります。高齢化もあります。ヴォイトレは、誰もが知っているものとなり、携わる人が増えました。そこは、確かにありがたいことです。しかし、本質的なことは大きくぶれてきているのです。
●一般化と変質
私は、最初の本を書いたときに、こうしてヴォイトレが一般に普及されると、そこで述べた内容は、批判され否定されていくであろう予感を抱えていました。
本というのもまた、売れるほど一般の人に読者層が広がっていくのです。この時代、一般の人ほど、エビデンスや根拠を欲します。つまり、先に述べた後者のようなスタンスで説明しなくては、読む人の要望に応えられなくなるのです。
●アンチから始まる
ですから、初期の本、たとえば、私の「ロックヴォーカル改造講座」などは、タイトルからもわかるように、当時の状況での、頑強な若者を対象としていました。ハードトレーニングを組み込んだ啓発書であり、アンチ業界本であったわけです。
たとえば、「人新世の資本論」の著者が30代初めで、「SDGsなどアヘンだ」と挑発して、論壇に風を入れようとしているのと似てなくもありません。
●ヴォイトレの普及
その後、私はヴォイトレでは、あらゆる対象に向けて本を50冊以上、出しました。業界では音楽之友社、シンコーミュージックなど、一般書では、岩波ジュニア新書から講談社まで。まさに一般化させたのです。
今は、常にそこそこに類書が出るようになりました。それは、この20年ほどのことです。業界はともかく、ヴォイトレは、一分野といえるほどに確立したのです。
●フィジカル、メンタルから再び、実力本位に
ここ10年に関しては、本質的なテーマ、実力をつけるためのヴォイトレの存在を再び掲げなくてはならなくなっています。私が、その前の5年はフィジカルトレーニング、さらに、その前の5年はメンタルトレーニングの必要から、そうした学びを得てのことです。
〇さらなる問題
「誰よりも強くなりたい」とか、「世界一うまくなりたい」というのが、アートである場合、必ずしも明瞭な目的とならないだけに、さらなる問題が生じます。
つまり、上達の先はみえないものなので、具体的に語れないのです。語れるとしたら、それは治療レベル、一般的な身体を想定して、その欠点を補うくらいの成果に甘んじかねないからです。
〇実力の明瞭性
実力の差が、結果として、ほぼ明確となる武道やスポーツなら、プロセスや効果もわかりやすいでしょう。そこの第一人者、スターが、まずは第一の見本です。そこに学んで近づき、その人よりも成果をあげたらよいともなるでしょう。ナンバーワンを破ったらナンバーワンになります。それは、個としてオリジナリティの確立ともなるからです。同じ土俵で勝負ができるものだからです。
〇成果ゼロを目指す不思議
アスリートはケガをしたら治しますが、それで治ってOKなどとは誰も考えません。ケガはマイナスで、そこをゼロに戻しても、何の成果でもないからです。
しかし、ヴォイトレでは、そのゼロを目的にしているかのようなことが、とても多くなったように思うのです。
それは、武道やスポーツで一人勝手にトレーニングだけはしているが、技量は全く上がっていないとか、むしろ、落ちていっているような例にも至らない段階のヴォイトレのようなものです。
〇一人でやる方がよい
それなら、一人で誰でも行う段階を踏んで行っていく方が、まだましです。多分、強く大きく声を出そうとするからです。そうして限界が突き付けられると、何かを学ばなくてはいけないということが、次にみえてくるからです。
トレーナーにつくと、まずは強く大きく声を出すことは禁じられます。それは、そこまでそうして限界になった人なら、よいのですが、これまで大きく出したことのない人には、その機会を奪ってしまうのです。
つまり、ヴォーカルを目指すのに、そんな不合理なことは、許容されないのです。マイクもあるし、高音域も出さなくてはいけないからです。そのため、役者や芸人が舞台で求められる声量さえ、得られないこととなります。
〇プロのレベル
声の分野でも、プロとなれば、一人勝手な方法からでも、それでやり続けられるのです。だから、そこを問う必要性は個々に委ねられるのです。
しかし、日本では、そのせいで喉に障害が出て、声に支障が出るまで気づかない例が、あまりに多いのです。素人にすぐまねされ、お笑い芸人に同程度か、それ以上に上手にコピーされるようなレベルをプロとして扱うところで、すでに問題以前なのです。
〇始めたらよくなる
プロになるというのは、このように日本の基準では、声やヴォイトレとかけ離れているので論じにくいことです。しかし、ヴォイトレを始めると、声はよくなっていきます。いろんなものを得て、それが表に出てくると、よくなるのです。
年齢などを気にされて「今からでもできますか」というケースでは、「大丈夫です」「安心して始めてください」と自信をもって言えるのです。
〇他人と比べないこと
他の人よりどこが悪いとか、足りないとか、不調だとか考える必要はありません。医者なら検査という数値基準をもってマイナスのところを治します。今は、ヴォイストレーナーも、声を人並みにしていくためのメニュを与えることが多いようです。一般的な人と比べてどうかということから始めるのです。
〇ゼロの地点
しかし、不足をみての原状回復は、それでいくら戻したり加えても、結果としてゼロです。ゼロを目指すトレーニングは不毛です。
トレーニングは、ゼロから行うものだからです。つまり、どんな状態であれ、今の身体状態、声の条件をゼロとして、そこに加えていけばよいのです。
〇ゼロからのスタート
以前、あるトレーナーから「マイナスな人は、ゼロにしないとプラスにならないのでは」と尋ねられました。つまり、医者のような考え方です。
何をもってマイナスというのか、そこをまだ手をつけていない人は、やっていないだけですから、今がゼロと考えることでしょう。
●医者やSTとの違い
たとえば、ポリープがあり、そこがマイナス、それを手術して取り除いてゼロであり、そこからスタートというようなケースでなら、現状はマイナスというのも当てはまります。
しかし、そこは、トレーナーでなく、医者が施術するのです。医療分野での専門的処置であり、私たちトレーナーが関与できるところではありません。
口の中に手を入れるようなことも、ヴォイトレの範囲外です。リハビリは、国家資格のあるST(言語聴覚士)の専門です。私も連携をとりつつ、その専門養成学校でも教えているのでよくわかります。
〇マイナスや欠点ではない
トレーナーは、できていないことを欠点のようにマイナス、劣化と捉え、そこを補充しようとするのです。しかし、やっていないためにできていないことは、劣化でも欠点でもありません。やっていくことで身につくから、やればよいだけです。つまり、プラスしていけばよいだけです。
〇やってできた先
車の教習所の教官は、F1レーサーを養成しないし、できません。初心者への指導です。しかし、初心者が運転できないのを欠点とか劣化とはみません。
やればできることはすればよいし、やることでできるようになるのです。そこは、時間だけの問題です。つまり、やればよいのです。問題は、そこからです。
〇メンタルトレーナー
やらない人をやらせるためだけのトレーナーもいてもよいとは思いますが、それは、メンターやメンタルトレーナーの役割です。やらされた分はやれるようになります。しかし、どこかで、自らやった分しかできていかないという壁がきます。
〇表現と想像のための進化
芸として、表現として使うための声を考えるのなら、ヴォイトレは、原状回復ではなく、創造的な進化の元にあります。これから何を得ていき、どうなるのかは、本当は、本人もトレーナーもわかりようがないのです。ハイレベルを求めるなら、です。
〇トレーナーのできること
トレーナーは、過去の経験と、他の人のプロセスをみてきた経験によって、相手の可能性の大きい方向を示すことができると思われていますが、どうでしょうか。
明らかによくない方向へ進むことを止めることはできるでしょう。くせがつく、独りよがりになってしまうのは、チェックできるからです。
〇まだ得ていない能力
大切なのは、その人が、まだ得ていない能力を得ていくようにしていくことです。今はまだない身体の感覚や能力を開発させていくことです。それは、ただ生きていくために、しぜんと治癒される身体をケアするのとは違います。なのに、そうした観点をもつトレーナーは、ほとんどいません。
〇ハイレベルでの共通点☆
そこは、他の人と必ずしも共通するプロセスではないのです。しかし、その人がハイレベルとなっていくのなら、一流の人達と共通する部分が増えていくことになります。それは、普通の人と異なるプロセスとなるのです。
〇形態と結びつき
喉だけをみて、そこを一般的に正常というものがあると想定して、それに近づけたところで、必ずしも、よくはなりません。
まず、喉の形態そのものに大きな個人差があります。しかも、その使われようもさまざまで、限りない組み合わせとなるのです。それを一般的なパターンに合わせて直していこうとするよりも、できるだけ個性的に活かして使うことを考えることです。
〇器質と機能
整形ができないとすると、器質は変えずに、その機能をよくすることになります。嚥下作用などなら医学的な見地からの仕組みと働きという正解に基づいて可能でしょう。しかし、発声や歌唱となると、そんなものではありません。その機能の働きでの結びつきの方が大切なのです。
〇機能の働き☆
発声、歌唱に有利な形態というのがあっても、喉という器質を取り替えないと無理なら、今のところ、それは不可能です。しかし、機能ということなら、喉だけで判断するものではないのです。
最悪の声帯、あるいはその状態で最高の歌唱もありうるのが、人間のすばらしい能力です。人間、人体と一体だからこそです。そこが、単体で価値づけられるような西洋の楽器と違います。
〇組み合わせでの一体化
欧米のクラシックの音楽家は、楽器の状態が悪くなると演奏も悪くなるとしか考えられないでしょう。高価な楽器ほどよい演奏ができることを疑いません。
しかし、民族音楽などでは、その悪くなった状態のときに、もっともうまく聞かせる調整や技量もあるのです。いや、悪くなったということを判断もせずに、状態に応じてベストの演奏をするからこそ、一流の演奏者というのです。
●別人となる
身につくというのは、マイナスをゼロにしたりプラスアルファとして加えるのではありません。私の経験では、別人になったかのように刷新される、つまり、書き換えられることです。
私自身では、十代の声と二十代半ば以降の声は、別人です。ボディビルダーほどではないにしろ、身体も別のものとなりました。喉まわり、首が太くなりました。
ちなみに、私の肩幅は、水泳をした高校の2年間で、人より狭かったのが明らかに広がり、逆三角形になりました。元は父より細かったのに、遥かに父の肩幅を超えました。もちろん、これは、成長期という年齢だったからでしょう。
〇創造的なレッスン
そうした創造的なレッスンの元にトレーニングはあると思っています。ですから、調子のよいところに戻すというのでは、入り口にしか達していません。すべては、そこからなのです。やがて訪れるかもしれない大きな変化を待ち、楽しんで、歩んでいけばよいのです。
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