論57.部分と全体

○外と内

 大きく2つに分けてみてみます。
a.表現は、受け手との関係、まわりとの関係で成り立つ。
歌では、音楽の力を声に活かす。伴奏ではなく、プレーヤーの表現として、そこにセッションする。

b.歌やせりふは、心身の動きから働きかけの一つとして成り立つ。
歌を心身からの表現として、声を介して取り出していく。

○集団レッスンと個人レッスン

集団レッスンでは、aが、個人レッスンでは、bが中心となるのです。しかし、個人レッスンでも、この両方からアプローチをしてbに加え、aを入れる必要を感じています。
 ちなみに、私からみると
a.言葉 解釈(心理分析)理性 
コミュニケーション 演出 外部へ
b.身体 感情(情感 本能) 
  心 声 内面へ

○好まれるメニュ

レッスンでは、しぜんに任せておくと、この時代、「教えない」などということは認められがたいので、教えやすいやり方、教えたことが「教わった」「わかった」と反応がよく、納得されやすいものになっていきます。
 反復、練習などでも、効果がみえやすく、本人がわかりやすいものが好まれます。
 私は、研修では、早口ことばと、表情筋トレーニングを課題として与えることがあります。どちらも付加的なものにすぎません。しかし、短い時間に「やった感」「できていった感」を与えられるからです。

○演出の効果を避ける

 一回限りのワークショップでのやり方を、私は否定的に述べてきました。
私も今は、研修を1回でなく、最低2回で引き受けるようにしているのも、そうでないと、素人に「ウケる演出」がメインになるからです。
一回限りでもそれがよいスタートになることもあるし、少なくとも、気づきの経験にはなると知りつつも、本道から逸れて、「ヴォイトレは、こういうものか」と思われるリスクを考えてしまうからです。そして、それを避けるために説明が多くなるのは、尚さらよくないと思うからです。

○部分と総合

 レッスンは、マニュアル化するように、部分的に分けます。シンプルにしては一つずつチェックしていきます。パントマイムやジムの筋トレのやり方と似ています。
私は、本を書くようになって、方法=マニュアルは、部分的に順に進めることを知り、驚いたものです。もう一つ、よくある方法は、タイプ別に無理やり分けてメニュをそれぞれ別にすることです。
しかし、それらは総合されて使われるものですから、総合へ結びつけるレッスンが不可欠なのです。

○つなぎのメニュ

 バスケットで、いくらシュートとドリブルとパスだけ練習しても、いくら柔軟や筋トレだけ練習していっても、うまくならないでしょう。うまくなっても相手に勝てないでしょう。
 そのために、1on1、3on3、ハーフコートでの5on5と、実戦形式へのつなぎがメニュにあります。それに加えて、映像での分析、自分たちの練習も相手チームの研究も含めることで、自分たちの課題がみえてきます。
 こうしたつなぎのメニュを、私は、複数トレーナー体制になって充実させることができました。たとえば、「ヴォイストレーニング大全」でいうと、「ことばと歌をつなぐメニュ」です。

○応用から気づく

 他のスポーツ、武道や芸道をやるようなことで気づいて学ぶことも多いと思います。
 私は、ポピュラー歌手を目指す人の課題に、本人が望めば、オペラやエスニック音楽、邦楽を入れています。声優、役者にも、一般の話し方のヴォイトレにも、カンツォーネや声楽曲の歌唱まで勧めています。
声については、歌の方が、いえ、歌唱発声、共鳴の方が、状態を自己チェックしやすいです。たとえば、持ち歌を1曲歌うと、今の喉の調子がわかるでしょう。
それに、オペラの舞台に立つことを考えたら、どんなところでもあがることはなくなるでしょう。

○仕事の制限下

 アーティストとしての表現は、必ずしも意図やメッセージを必要とするとは限りません。メッセージが伝わりにくいとかわからないから、その作品がダメとは限りません。しかし、誰にも理解されずには、場を得るのは難しいでしょう。
声が質よりも「音色」「滑舌」のような機能で評価されてしまうように、ヴォイトレも「現場」「わかりやすい」「すぐ役立つように」という条件が優先されがちです。
仕事なら、相手先の意図を無視するのは難しいでしょう。研修先の依頼者と研修を受ける当事者の両方が満足するように考えて、内容を調整します。それができないなら、打診された時点で断ることもあります。

○継承の努力

表現活動は、人手やコストを伴うことでもあり、いろんな制限下で行われます。プロとして、なら、仕事人、クリエイターとなり、その制限から完全に自由になるのは、普通はありえません。
 顧客が第一優先で、そのクレームを気にするなら、独創的なものは場を失います。時代の変容とそれへの適応が、妥協や質の低下にならないように努力し続けるしかありません。
研究所のレッスンも、その点では同じです。老舗や伝統芸能に似た、継承の努力を必要としてきたからです。

○表現と社会性

 表現のメッセージは、たとえ、具体的で私的なものであっても、社会性をもちます。いえ、誰かがそれを汲み取ったり感じたりするものです。
 「鳩がオリーブの葉をくわえてきた」これは、長雨と洪水を経験したノアにはもちろん、その観客にも、ただの鳩や葉っぱではありません。雨が上がって庭に新しい芽が出ているのをみた。それを立ち直り、復活、再出発と感じる人もいるかもしれません。
作品には、そういうことばが入っていて、共感させられます。個々の人生に同化させ味わいを深めるのです。
アートは、日常のドラマチックなところを集約したものばかりではありませんが、何かを気づかせ、感じさせるような工夫をしていないものは少ないでしょう。

○個と社会

 たとえば、自分の家族のいがみ合いが、社会的なテーマとしては、ハラスメントになっている、そういうことです。
社会―公 社会的背景、人種、構造、存在、政治
個人―私 人間的側面、行為、変容、五感、生理的
 誰かの個人的な事件も、報道されると、そこに差別や貧困など社会的な要因が加えられて取り上げられます。公と私の両面をもつ事件ほど、人の関心を呼ぶからです。
もちろん、その誰かが知り合いだったり、その事件が自分にも心当たりのあることだったら、社会的なものでなくても私的に感じることは多くなります。影響力は、受け止める側によるのです。
 今は、誰もが同じように受け止め、同じように感じるものが、名作とされる時代ではないのです。

●実験

 グループレッスンは、私個人の経験したことが、どこまで他の人に通じるのか、他人の心身を使ったらどうなるかの実験でした。
当時の私の理論は、理論というには程遠く、まさにシナリオづくりの最中でした。それは、こういうことをしたらこうなっていくというトレーニングの脚本づくりです。ですから、多くの人と長く場を共有することから始めたのです。
 私の本を読んで、本のストーリーを演じたい人がたくさん来てくれたおかげで、この実験は、私にも参加者にも有意義だったと思います。それぞれがいろんなことを創り上げ、気づかせてくれたからです。

●流れにのる

 複雑になったのは、より具体化し、社会化するために、世の中で使われてきたメニュや流行していた曲、作品などを使い始めてからです。
それは、私としては、応用ではなく、基礎に深く入る手段でした。
しかし、それも受け取る側の器の大きさに左右されます。アングラ劇団が往年の日本のヒット作品をやるみたいなものでした。そこから、新たな表現が生まれるのか、問題はただ一つ、参加者のテンションが落ちていかないかだけです。どこまで主体にありえるのかが問われます。

○なり切る

スタニスラフスキーのメソッドは、その人の体験した記憶から、そのときの感覚を取り出していく、つまり、もっと内面を掘り下げ、思い出してその状態に成り切り、役をつくっていくというものです。
 成り切るといっても、現実の出来事をそれらしく演じることと、それを客が現実の出来事のように受け取ることには、ギャップがあります。もちろん、後者が求められるのであり、そこを埋めるのが演出です。
 悲しい→泣く→伝わる、というのが、「悲しい」がなくても「泣く」がなくても「伝わる」ならよいのです。

○向上と維持のために

トレーニングも、やろうがやるまいが、結果が出たらよいのです。一時的な結果は、トレーニングをしなくとも、あるいは、さぼっても出るかもしれません。しかし、継続的な結果として、上達していくことはおぼつかないでしょう。長期でみると、劣化していきかねません。だからトレーニングが必要になるのです。
それは、トレーニングが心身、特に体を支えるものだからです。そして、声が肉体芸術として使われるからです。

○身体的条件

ソロステージでの2時間が身体的条件として必要不可欠だとすると、普通の人の普通の体力ではもたないのです。アスリート出身者やアクション俳優は、スポーツや武道で心身を鍛えている分、有利なことは言うまでもありません。ですから、ヴォイトレをしなくてもランニングなどの体力づくりなど発声を支える体力の保持と歌唱練習は欠かせないのです。

○調整とトレーニング

「ヴォイトレはいらない」、などという人たちは、今の声レベルを保てたらよいのですから調整でよいわけです。調整は、ヴォイトレで行うとは限りません。
多くのヴォイトレは、調整がメインとなってきました。しかし、私は、ヴォイトレはヴォイスのトレーニングで、声づくりを、声の可能性を大きくする心身づくりをそう呼んできましたから、異質な存在なのです。

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