論53.伝える技術としての心身能力とイメージ

○群と個の違い

 集団にして意識的に興奮状態をつくり、一体感をもたせ、一つの落としどころにもっていく、それは、宗教から部活、政治から軍隊、祭りからイベントまで多くで使われている手法です。
ワークショップの大半も同じです。短い時間でグループや大勢で一つのことをやるには、個性は邪魔でもあるからです。
 舞台をみる観客は、それでよいのかもしれませんが、表現者はそこにひたっていてはなりません。そのことが、どうもわからなくなりつつあるように思います。

○自分で決める

 まわりをみたり、まわりに聞いたりして同意を得ないとスタートできない人たちをよく見かけるようになりました。20歳過ぎても親の意見でしか決められない人などは珍しくなくなったのでしょう。
そうでなくとも、「どうすればよいのか教えてくれ」から入り、いちいち「これでよいのか」と確認せずにはいられない人もいます。それでは、なかなか、先に進めません。

○スタートを切る

自分の思うことを言ってみること、やってみることは大切です。言い過ぎたり出過ぎたりして、かまいません。注意されることを恐れないようにしましょう。注意をもらいにくると思えばよいのです。
よくない結果となれば、そこで考えたらよいのです。落ち込んだり、めげたりせず、全てから学んでいけばよいのです。主体的にということです。

〇まねることの難

師弟間での古道の伝授は、「師が教えないからよかった」と思うのです。教えられて、教えられた通りにやるのが目的では、教えている人の半分くらいにしか達しないでしょう。100パーセント、まねして身につけたところで、教えている人の8割までです。
残りは、師の個性、強みであり、そこは、そのまま、まねるとマイナスに働くからです。
教えられることに慣れずに主体的に学びとろうとなることが、大切です。

○教えることの変容

実のところ、教え方は継承しているようでも、受け継ぐ人の個性で少しずつ変わっていきます。より得意なところややりやすいところ、評価されやすいところが選ばれ、多くなっていくのです。
教える人がベテランであるほど、教える本人の生来もつところに合っていき、教わる人と反していくのです。

○表現の伝授☆

一門全体がよく似たタイプだけになっていく、そうしたタイプしか残らなくなるのは、よくみられることです。それが流派となり、分家していきます。
個を軸とするのが表現としたら、表現を教えることは、元よりそれに逆行しているのです。

○気持ちと表現と演出

 歌詞の解釈、歌の気持ちをどう捉えるのかは、大切なことです。しかし、あるところまでいくと、気持ちというのは、どんなに成り切ったところで必ずしも表現になるわけではありません。つまり、聞く人、みる人にストレートに伝わるものになるとは限らないわけです。
表情、しぐさなど、演ずる者として必要な体の動き、音楽家として必要な音の動き、歌詞のことばと音楽との兼ね合いなどが問われてくるのです。
それを演出で、より効果的にみせるのですが、どうも演出でようやくもつだけのものが多くなってきたように思えてなりません。

○呼吸とZoom

 役者は、相手役との呼吸ですが、歌い手は、伴奏者、演奏家、プレーヤーとの呼吸が必要となります。
Zoomで合奏や合唱ができるのは、人でなくテンポで合わせているからです。レッスンも、カラオケに合わせるつもりならできます。しかし、伴奏との呼吸、トレーナーが弾くときとの呼吸、これは、テンポではなく音の動きで伝えあうので、今の性能では限界があります。

○刺激は伝わる

痛い、かゆい、熱い、寒い、冷たい、辛い、すっぱい、うるさい、まぶしい、臭いなどの五感に働きかける刺激、そうした刺激の強さというのは、人に伝わりやすい状態をつくりだします。つまり、観ている人にイメージを共有させやすいのです。
そのため、よく芸事でも利用されます。サーカスや芸事でもよく使っていますね。ただ、刺激だけでは、より強くしていかないと飽きるので限度があります。慣れてくるとわかってしまい、早々に興味を失うからです。

○心の力

 それでは、そう簡単にわからないものは、何でしょう。心でしょうか。他人の心の中は、なかなかわかりません。自分と違うほど、覗いてみたいし飽きないでしょう。
それに共感するなら、自分にもそういうところがあると気づかないとなりません。
心は、病んだり傷ついたり、喜んだり悲しんだりするのです。それが、芝居や歌での感動の元でもあるのです。

○イメージの共有

 イメージを共有するにも、出だしで静かに入ったり、急に驚かせたり、いろんなやり方があります。芝居はストーリーの効果、歌は音楽の効果を使います。漫才、コントは、その間の尺でしょうか。1本3分のショートネタから30分以上のものまで幅があります。

○感心と感動

 歌を聞いて、「声がよいなあ」とか「音感、リズムがすぐれている」と思うのは、感心です。それは、素のよさ、素朴さ、生来の素質のままのようなものです。
歌は、テクニカルであってこそ伝わるのですが、それだけでは、「うまい」という感心に留まります。
感心と感動とは違います。感動へもっていくためには、演出、構成も必要となるのです。
でも一声、一フレーズだけでの感動も確かにあるのです。

○心で歌う

 「心で歌え」といいます。それはどうしてでしょうか。「やるせぬ我が想い」と表現するのに「やるせぬ」は、どうすればよいのでしょう。
歌には、声、詞、メロディ、リズムと、いろいろな要素があります。まずは、声だけのせりふの朗読劇で練習するとよいでしょう。

○パントマイムの無言

パントマイムは視覚だけの表現ですが、是非、ご自分で試してみてください。身体で心を表す、そして、共感させるということなら、これは意外とわかりやすいかもしれません。表情と所作、体の動きだけで伝えるものだからです。
 パントマイムは、特殊なものではありません。たとえば、別れのシーンなど、映画や芝居にも、無言での演出はたくさんあります。歌にも必要です。

○歌の無音

歌では、間奏や歌詞が終わり、音楽が流れているところやそれが終わったときは、無声です。
無声や無音のときもまた、伝わるのです。動きがない、だからこそ、もっとも深く伝わるのではありませんか。

○しぐさ

 しぐさで伝えるというなら、演劇の練習に、たくさんのメニュがあります。
重いものを持つ、いや、重いトランクケースを持ち上げるとしましょう。木のイスを持つ、でもよいです。誰もが経験があることですから、できるでしょう。
そのときに、見ている人がそれを実感できるように演じられたら伝わったということです。
重いスーツケースを想定して、その気になって手を動かします。そこを、下手な人は手だけですが、うまい人なら全身で再現するでしょう。

○イメージの共有

しぐさをするときの想定は、本人のイメージです。本人だけのイメージは、必ずしも皆に伝わるものではありません。他の人と共有できるかとなると、とたんに難しくなります。
他の人とは観る人ですが、芝居なら相手役でもよいでしょう。練習も相手がいる方がやりやすいところもあります。
相手に重いカバンを渡すとなったとき、その重さの度合いが二人で共有できていないと、渡して受け取ったところでカバンの重さが変化するようにみえます。つまり、イメージがつながりません。

○コミュニケーションへ

 自分の心身の動きがどう見えるのか、それを自覚します。ことばなら、それが他の人にどう働きかけるのかを知っていることです。それに加え、他の人とのイメージの摺り合わせ、つまり、イメージの共有がいるのです。内面と表出と共有、関係づけ、コミュニケーションは、そうして成り立つのです。

○リアルとは

 黒澤明監督は、雨のシーンを撮るのに、まく水を黒くしたそうです。実際の雨の日に撮っても、彼の求める雨のリアルさが出なかったのでしょう。
馬の走る音を馬を走らせて録ることはありません。大体、違うものでつくった音をあてます。予算や手間の問題ではありません。観る人の耳にリアルに伝わるものを厳選して使うのです。

○演出の表現

馬の走る音を使えないのではなく、それでは、馬が走っているようなリアル感に欠けるのでしょう。もっと受け手が、それらしく思うものを使うのです。演出は、効果から判断するのです。本物よりもリアル、多くの人がみて、それっぽいことが、問われるのです。

○イメージとテクニカル

イメージ先行で精一杯、練習に打ち込んでいるうちに、テクニカルが追いつく、それが、少なくとも若いときに取り組む方向性だと思います。
「下手だけど伝わる」のは、待てばよいのです。しかし、「うまいけど伝わらない」のは、限界を示しています。そこは根本的な改革が必要です。

○学べるもの

 イメージのつくり方は学んでいけます。しかし、やる気、欲、情熱、集中力、体力、気力、覚悟、目標レベルの高さなどが、伝わる力のエネルギーとなっているのです。
たとえば、「歌唱技術は秀でているけれどメンタルや体力的に不安」となると、舞台の公演に選ばれ続けることは難しいでしょう。逆なら、演出次第で、あるいは、主役でなければOKかもしれません。

〇伸びしろ

研究所でも、最初からうまい人はたくさんいましたが、そういう人が、プロになれたわけではありません。要は、伸びしろと本人の思いの強さの問題です。
トレーニングでは、本来は、それを第一にみるのです。いつか舞台の上やスクリーンで実演されるときの表現効果で判断していくのです。今の力よりも明日、明後日、将来の力の可能性へ焦点を当てているのです。

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