論55.独自のオリジナリティと解放

○再生する

歌詞も曲も他人のつくったもの、伴奏も他人がつけているところで、かつてのプロ歌手は、自分の世界を表現したのです。それには、他人のものを自分のものにする必要があります。
しかし、自分のつくった詞や曲でも、つくったときでさえ、必ずしもその内容を自らが生きているわけではないので、自分のものとしなくてはなりません。ただ、他人のつくったものよりも自分が汲み取れる情報がたくさんあり、入りやすいのは確かです。

○改作でする試み

そこで、自分で作詞や作曲をしてみるように勧めています。しかし、それだけは、すぐに行き詰まります。
そこで次に、すぐれた歌の詞や曲を与えて自分なりにアレンジさせます。つまり、自分の歌いたい世界に寄せていくのです。この方がより早く上達しやすいと思います。なんせ、すぐれたプロのつくったものを素材にするのですから、素人の自分がゼロからつくったものよりも完成度が高いわけです。

○経験に学ぶ

歌は、自分で歌って初めてわかること、ステージも自分で立ってやってみて、初めてわかることが多いです。そこでの経験が多い方がよいのは確かです。しかし、ある程度、こなした後は、そこから何を学んだのかがより重要となってきます。
経験するごとに伸びる人もいるし、変わらなくなる人もいます。少ない経験で多くを学ぶ人もいるし、多くの経験で少しも学ばない人もいます。大体は、あるところまで伸びたら、伸び悩みます。

○人生経験と表現

経験といっても、同じもののくり返しもあれば、多様で特別、特殊なものもあります。歌や芝居は人生と重なるものですが、異なるところは、意図して人前に立ち、人に見られて同じことをくり返すところです。
そこでどう表現するかということです。特定の時間、場で再現するということです。それも、ドラマチックなピーク、人生の集約したところをハイテンションで、というところが多いのです。
つまり、人生の経験に学ぶことも入る、いや、そちらが最初からベースとなります。そこが他のアートと違います。

○10代でプロ

プレイヤーなら、自分の経験などが活きるのは、かなりの上達したレベルからでしょう。まして、個性や世界観は、テクニカルな上達の後に見い出していくものです。
しかし、歌や芝居は、10代でさえもプロになれます。10代までの人生の経験や歌った経験をもっているので、応じられるのです。そこで、並みのプロやベテランを凌ぐ人が出てくることは、他のアートではあまり考えられません。

○分解と組み合わせ

役者は、どのように演技を学ぶのでしょう。まねするだけで、どんどんうまくなる人もいますが、養成所では、パントマイムの練習のように、一体で動く体を、パーツごとに動かして確認し、習得していきます。筋肉の動きや見え方一つひとつをていねいに扱うのです。
歌手も、同じようにして学べるはずです。歌の一フレーズごとに、どうつくるのか、組み合わせるのかを分解して練習できます。なのに、歌の教え方では、今、一曲、フルで一コーラス、Aメロ、Bメロ、サビぐらいにしか分解していないのは、なぜでしょうか。

○実力の判断

「歌やせりふをみてください」と言われ、何曲も歌われたり、10分20分とせりふを聞かされることがありました。しかし、判断は、10秒、少なくとも1、2分で充分にできます。
あとは、何か違うものが出てこないかをみているだけです。それで出てくることは、そうはありません。
歌ってきた人、歌い慣れた人、テクニックのある人ほど、すぐ判断がつきます。能力がわかるということは、その限界もみえやすいのです。本人たちが曲やせりふによって、異なるものを出せると思っているくらいの変化は、私にとって、折り込み済みで変化というほどではないということです。
その点、本人自身が本人を知らない、歌い慣れていない人や初心者の方がわかりにくく、伸びしろをみるのに興味深いともいえます。

○可能性でみる

1曲聞いて、こういうものと思った判断は、2曲目でも、大体は、同じです。
テンポやリズム、明暗などの異なるものを2、3曲、聞かせてもらうようにしています。向き不向きをみて、現実に対処していくのに、どんな光であれ、みつけたいからです。
判断そのものは、Aメロやサビの2か所くらいで、ほぼ終わっているのです。そこを聞かせてくれて、次にも聞きたいと思わせる人は、2~3年に一人、いるかどうかです。かなりすぐれた歌い手か、その見込みのある人です。

○一つ深める

何の分野にしろ、引き出しを多くして、組み合わせが自由にできるようにパターンを入れておくことです。
「意識するとできない」というのを、意識できるようにしておく、つまり、意識して練習をすることです。
気づくことは、みること、聞くことと違います。一つ、深めたということです。
見る―観る、聞く―聴くことになります。ことばではなく、そのことばの表す意味をとることの能力を高めます。それに対してリアクションすること、すぐれて仕事のできる人と同じものが問われているのです。

○くり返しへの評価

歌に慣れていくのは、よくありません。カラオケのうまい人の歌が、うまいのに、うまさがみえて感動しないのは、新鮮でないから、くり返しだからです。そういう意味では、ヴォイストレーナーの歌い方もそうした見本といえます。同じにできるのではなく、同じにしかできないからです。
日本のプロ歌手にもそういう人が多いように思います。私は、生で聞かなければよかったと思うことも少なくありません。ただくり返しているだけだからです。
本人もくり返しているつもりで歌っているだけなら、プロ失格です。最初よりも、新鮮でなくなり、下手になったものを、皆、「あの頃と同じ、変わっていない」と喜んで聞いてくれるのが、日本のファンなのです。

○歌唱力の衰え

同じで変わらないならまだよいかもしれません。くせがつき、歌いやすく崩したものを、うまくなったかのように歌われることも多いのです。アレンジしたり、リヴァーヴを強くかけて、より今風にしているのですが、実のところ、質が下がっているのをカバーしているだけ、あるいは改悪に気づいていないのは、何とも残念です。
本人が、かつて、一所懸命、無心で歌って感動させた自分を、歌を、裏切っているのです。そうなる前によりよくしておくのが、プロの矜持でしょう。
そうした工夫をし続ける数少ない歌手もいました。また、ファンのためか生活のためか、さらなる自己表現欲や生きがいのためか、復帰した人もたくさんいました。そこは人それぞれです。

○集中と固さ

せりふや歌に集中するという、レッスンで求められる集中の状態や表現へのモチベーションが、一時的に、演じすぎになることがよくあります。真面目、一所懸命で力が入っている、それが、しぜんな表現を邪魔する、つまり、みる人に余計な固さを与えてしまうのです。
視野が狭くなり、しっかり言ったり歌ったりするほど閉じてしまうのです。
そういうときは、レッスン外で、日常生活やレジャー、旅などで解決するのもよいと思います。しかし、この緊張―緩和が、レッスンでの中心になってきたのが、最近の傾向です。

○研修あるある

研修でも、日頃、司会をしている人が、同じ職の人たちや上司ばかりがいるところで行うと力が入ってしまい、いつもの実力が出ないことは、よくあります。
いつものように全体をみられず、相手を捉えられず、緊張するのです。
そこで、空間的に視野を広げ、全身を開いて会場を捉えるようにします。さらに、声がどこまで伝わっているのか、そのベクトル方向と距離を把握します。それとともに、声から心身を統一、制御、つまり、コントロールしていくのです。

○ゆっくり読む

「ゆっくり読むように」と言うと、全てのテンポを落とす人が大半です。しかし、それは第一に、間をとる、間を長くとるという意味です。次に、心構えのことです。
長く間をとるのは怖いことです。あがってしまうと早口になるのは、そのためです。ですから、沈黙の時間をつくり、耐えるトレーニングをするのです。

○内面化

「間」のように、本人が沈黙の中で、自らの心身や声に気づく時間が必要です。伝わっているのかをチェックします。
歌もせりふも、一所懸命に練習すればよいという段階があります。そこから次にいくには、大きく意識を変えなくてはなりません。ベクトルを外から内に向けます。聞くこと、自分を客観視して修正すること、これが伸び続けるために必要な能力です。

○目標イメージ(ヴィジョン)とレッスン☆

天然、生来の天才タイプもいるので、全ての人にとは言えませんが、レッスンとトレーニングで伸びていくのなら、自分の力よりも高いところへ目標をおくとともに自分を判断、評価する力をつけていくことです。
それをヴィジョンと言うこともあります。イメージを現実から引き上げていくのです。イメージに実力が追いついたら、伸びは止まります。
ですから、順調に伸びているとは、常に自分に満足できないレッスンやトレーニングが続いている状態なのです。

○表現

経験のないことを演じるには、自分の少ない経験や似た経験から導き出すか、他人のやったことをまねてみることです。
役者が自分の恥をさらすことを恐れるわけにいかないのは、演じるシーンに非日常なことや人前に出さないことが入ることが多いからです。
それは、「演じているのであって、自分本人ではない」のです。「芸術のため」とか「人間の深い本質の表現」などということでフォローされます。
作家も同じです。現実なら罪に問われることも、表現では許容されます。とはいえ、いつの時代も、表現の自由と制限の兼ね合いは、難しい課題です。

○古典に学ぶ

古典劇になると、演じる人も、観る人も過去の世界、そこでのことば遣いや風習を知らなくては伝わりにくくなるでしょう。それでも現代まで継承されてきたものには、時代、地域を超えたものがあります。そこを捉えなくては、今に活かせません。そこには、必ず、人間の心を捉える普遍性に根差したものがあるのです。
それを表現するためには、歴史、文化、演奏技術、言語など、学ぶ幅も量も多くなります。「今、ここ」とは異なるだけに、難しくなるのです。これは、オペラやクラシック、伝統芸能を学ぶのと似てきます。

〇二重の錯誤

自分の思いとことばは、一致しているとは限りません。しかし、私たちは、そう思っています。そして、自分のことばで伝えたことは、相手にも同じこととして伝わっていると思っています。これは、二重に正しくありません。
伝えた(つもりの)こととは、イメージや意味、内容です。これがうまくいくようであれば、仕事などで問題は起きないし、人間関係もうまくいくものです。

○イマジネーション

人の受け取り方は、それぞれに違います。それを学ぶには、多くの人に接して、自分と違う多くの考え方や受け取り方、感じ方のあることを知ることです。それに、イマジネーションが働くようになることです。さらに、それを汲み取り、相手側から受け止める度量がいります。

○感性

本や映画、旅、アートと何でも、他の人の人生を知る機会と捉え、学ぶとよいでしょう。
そして、現場では柔軟で中立的な心で必要な方向に対処します。時には、自分を離れてイメージを広げて受け止めましょう。
それが役者や歌手としての表現技術以前のところでの必要な感性といえそうです。

○意味、内容

心で歌うには、内面を掘り下げていく、内容を解釈して歌う、そういうことに突き当たるでしょう。
詞の表現を400字ほどの作文にして、ストーリー、心情をそこから取り出してみましょう。ただ歌うよりは、豊かな表現になることでしょう。
あるいは、大げさに感情移入して読んでおきましょう。そこで、表情やしぐさや声に感情の余韻が残っていると、それがニュアンスとして出て、意味、内容が伝わりやすくなるでしょう。ことばの意味、内容のニュアンスが声に出るのです。

○表現になっていく

たとえば、つまらない文章でも、「自分が一番好きな人に言ってみて」とイメージするだけで、声が変わります。棒読みでなくなり、メリハリやトーンが出てきます。その人の性格や育ちも、そうした経験も出てきます。表現になっていくのです。

○自分の器の拡大と限界☆

a.今の自分、b.拡大した自分、c.自分の外、とすると、トレーニングは、今の自分の器を拡大していくことです。レッスンは、その必要性や方法を与えるために行います。
限界まで拡大したら、これまで自分の外だったもののいくつかは自分の内に取り込めます。無理してやって、できたりできなかったことが、しぜんにできるようになったということが、bの「拡大した自分」です。
しかし、いくらトレーニングしても、自分の外にあるものは残ります。どんなに声量を出せても人間に200ホーンの声量は無理、声域も10オクターブは無理です。テンポ480はとれません。
bの「拡大した自分」は、トレーニング前は潜在していた能力がトレーニングで開発されたものです。cの「自分の外」は、使えないようですが、無理すれば、一時なら、できるようなところもあるでしょう。ただ、完全にものにはならないところです。しかし、トレーニングで前よりはアプローチしやすくなるでしょう。
つまり、a―bcがab―cとなり、トレーニング後は、abが「今の自分」なのです。cは、そこで「拡大した自分」を一部含むようになったということです。トレーニングは、c→b→aのくり返しなのです。

○問題に行き詰ったとき

行き詰ったときには、何かを変えてみるとよいでしょう。
今のメニュの何かを変える
他のメニュを使う
心身の状態、条件を変える
場所や時間を変える
日常生活を変える
レッスン、トレーニングを変える

○演者の感覚と観客の感覚のズレ

演者は、演じるストーリーや内容を、くり返して読んだり練習したりして知っています。しかし、一般的に、観客は、そこまでわかっていません。そこには、演じる者と観る者のギャップがあります。
演じる人は、どうしてもハイテンポで間をなくす方へなりがちです。お客は、もっとゆっくりでないと理解しにくい、間があってもよい、それを望んでいることが多いにも関わらず、です。

○間と詰め

レクチャーでも、講師がまくし立てると理解されにくくなります。ことばは聞こえても、その内容の理解までは追いつきません。まして、内容の全体の把握や考察には至りません。
じっくりと味わってもらいたいと思うなら、遅すぎるくらいでよいのです。間もとります。それで想像させる時空を広げるのです。狭めて詰めてはいけません。詰めたら、その分、間を空けましょう。
長文は少なくして、短く切りましょう。そして、もっとも必要なのは、しぜんに間をとれるためのメリハリなのです。声の大きさではなく、勢いや語調の変化です。

○歌の判断できるレベル
 
客に想像させ、気づかせていく、それをコントロールするのです。
「えーっ」と驚かせ、「なぜ」と考えさせ、「多分…」「もしかして…」と想像させ、「やっぱり」「なるほどな」と落とす。
 歌は5~10秒で判断できると言いました。それは、聞くに値する価値のあるもの、ハイレベルであるかということについての判断だから、はっきり言えるのです。もっと聞きたいか、お金を払っても買いたいか、それ以上かというレベルのことです。

○判断以前のレベル

のど自慢やカラオケ大会は、そうした基準ではありません。5~10秒で、「最後までこう歌うだろう」というのは、9割以上みえるのです。つまり、大した価値が生じないものだからであり、そこで無理に優劣をつけるのは、レベルを下げる分、複雑でややこしく、あいまいになります。
素人は、いろいろ工夫したり変えているので「最後まで聞いて」とか「他の歌の方によいのがあるかも」と思うかもしれません。
しかし、それは、草野球のチームをプロのスカウトや目の肥えた客がみるようなものと同じです。万に一つの可能性がないとは言いませんが、本人が本人の魅力を知らず、うまく選曲したり、曲の吟味をできていないレベルなら、論外なのです。
でも、プロが素人の歌の判断をしても意味のないことだから、励ます以外、何ともならないのです。

○未知であること

5~10秒聞いて全てわかるものは、最後まで延々と聞いても、全てを通じて、何をどう表現したいのか、何をやりたいのかがわかりようもない、練られていない、吟味されて仕上がっていないということです。デッサンの一本の線で訴えかけないものは、全ての題材の絵を見ても、似たようなものであることが多いです。
わかり過ぎてはよくないですが、わからなくてもよくないのです。
これは私だけの基準ではありません。お客さんは、わかり過ぎるものには飽きるし、わからないものにも飽きてしまうのです。アバンギャルドなものなら別かもしれませんが…。

○カラオケの功罪☆

どんなに表現したい意欲が高くイマジネーションが豊かでも、歌ったら、演じたら、訴えかけてこないというのなら、表現としては価値が高くないのです。
日本の場合、役者として演じられる人が、歌では人並み程度になってしまうのは、音楽的素養の欠落というより、カラオケでつくってしまった、歌に慣れてしまったからというケースが多いと思います。

〇マイクの功罪☆

舞台で伝えるということの判断と実技ができる人は、マイクを使わなければ自分の歌をもっと厳しくみることができ、上達させられるはずです。
歌=マイク(リヴァーヴ)が音楽セットとなったことが日本人の救いでしたが、実のところ、悲劇です。
欧米世界では、それは、オペラに対してポップスで起きたようなことですが、ポップスもまた、独自に世界で親しまれる一流のアートジャンルにまで成長したのですから。

○作品と歌い手

作品のもつ力に対し、歌い手の力は、イマジネーションの喚起と増幅です。それをコントロールして最良の結果を出すのです。イマジネーションを起こさせないのは論外ですが、それを広げ過ぎて収まらないのもよくありません。
歌は、そのようにつくられています。歌はそう歌うのです。

○イマジネーションについて

表現しようとする人は、表現欲は大いにありますが、必ずしもイマジネーションが豊かではありません。聞く人が心を動かす方のイマジネーションです。
イマジネーションは、欲と同じく、生来とは言わないまでも、育ちのなかで大半は、すでにつくられていて、その個人差がとても大きいのです。
舞台でも、いや、作品づくりにも、イマジネーションは問われます。レッスンやトレーニングでも必要です。

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