特論24.日本人と声とその行方~2018年、音楽業界から平成の総括とその先を読む
〇ヴォーカロイドと声
日本では、カラオケに加えヴォーカロイドが開発され、その合成音での「歌声」が十代には受けています。一過性のものかと思っていましたが、ほぼ定着してきました。声域が高くまで及び、テンポも速いので、カラオケでの挑戦にはもってこいなのです。高く出せる、速さについていける、早口を滑舌で噛まないというのは、もっともわかりやすい指標だからです。この点で、私は、カラオケが結果として日本人にもたらしてしまったものの影響の延長上に位置づけています。「カラオケバトル」が、日本人の歌を聴くものから一人で歌うものへ、そして、高音でハイテンポなものに変えるのを促したとみているからです。
実際、NHKの「歌コン」を除いて、軒並み生演奏の歌番組がなくなりつつあるなかで、歌を永らえるよう努めているのか、だめにしているのかわかりませんが、「カラオケバトル」の番組だけがゴールデンなどでも出ています。とはいえ、「歌コン」も「カラオケバトル」も往年のヒット曲のカバーがメインです。なかにし礼の言うように「歌謡曲は昭和とともに終わった」のです。
日本人の指標好きは今に始まったものではありません。ランキング、口コミなどを異常に気にするのは、絶えず周りのことを察して行動してきた国民性に由来します。
カラオケに採点装置をつけ、さらに採点器によるカラオケバトルなどもその一環でしょう。こうなれば、紅白歌合戦もカラオケ採点器で決着をつければ視聴率が伸びると言ってしまいたいくらいです。
〇カラオケとPV
カラオケ業界には、スナックでの普及からカラオケBOXになる前まで、私も大いに協力していました。新聞にカラオケコミュニケーション論を、雑誌にカラオケ歌唱論を書き、「カラオケ上達法」という単行本まで出しました。手軽に自分の声のキィやテンポで練習でき、皆でステージを楽しめる、とても画期的でアートなことに思えたからです。しかし、これもまた個室化して仲間内だけのコミュニケーションに、そして、お互いの接点はバトルゲームに堕しました。
平成に入ると、カラオケでのヒット狙いの曲がたくさんつくられました。異様に声域も高くなっていったのです。かつては、五木ひろしの上のファくらいで日本人男性には高い声だったのです。オフコース、サザンオールスターズあたりでソ、ラ、さらにその後はハイC(ド)へと。この裏には、マイクと音響技術の性能の高度化やミキシング、アレンジのハイテク化がありました。ニューミュージックやJ-POPSといわれ、歌唱力より高音、ハイトーン、ハイテンポに若い人は飛びつき、懐メロ、演歌畑のおじさんと一線を画するようになったのです。
〇PVと声
カラオケの利用法も、皆が一緒に歌って楽しむ欧米と違い、一人が歌い皆が聞くふりをしている日本では、歌手は、もはやアーティストではなく、ヴィジュアライズされていきました。やがて、オタクを介して応援団がアーティスト化して、世界へ知られるようになったのです。
マイケル・ジャクソンやマドンナの頃、作品は歌唱力の音(sound)を問うものから映像のヴィジュアルな世界(PV=プロモーションビデオ、ミュージックビデオのこと)へ移りました。歌から振付、ダンス(照明、衣裳、舞台装置)へ重点が移ったのは、耳から目への移行でした。それは、ラジオからTVへの移り変わりをなぞっています。
TVも家族団らんの昭和から個別化の平成、そして、ウォークマンからiPodを経てネットで完全にパーソナル化しました。ウォークマンで音を個人に封じ込めた音楽の世界は、再び大きく変わったのです。
〇ミュージカルの興盛
音楽は、政治的、社会的な影響力を失っていきました。特に日本ではそれが顕著です。芸能界でのエンターテインメントの一ジャンルになったのです。
歌の世界で日本から世界に出たのは、坂本九を例外とすると、声の力よりは音の技術、シンセサイザーやテクノ、そしてヴィジュアル系でした。冨田勲、喜多朗からYMOなど。(ミッキー吉野、向谷実、小室哲哉、中田ヤスタカの流れ)
アングラ、不条理劇がミュージカルに取って代わられていったのは、ハッピーエンドで安心してみられるということで、みやすいからでしょう。となると、歌も聞きやすいことが望まれるわけです。
声や音楽、芝居としての芸術性でなく、日本語としてわかりやすいこと、ヴィジュアルとしての完成度が高いこと、そこで成功したのが「劇団四季」です。音楽でなくヴィジュアル面に力点をおき、歌は歌詞の発音にこだわり、老若男女に受ける娯楽としていきます。つまり、ディズニー作品でディズニーランド化を全面に進めていったのです、Tokyoディズニーランド化です。
〇戦後の流れ
時代の流れもあります。わからないものを突き付けたりすると、「わからないからだめだ」「おもしろくない」と、サービスを受ける消費者のように日本の客は変わりました。いや、一般化し大衆化したので、ある程度はやむをえないことでしょう。
これは団塊の世代まで何とか保っていた教養主義の終焉といえます。「わからないから、すごい、おもしろい」と思わない。学ぼうと思わないのは、今の自分を是とするからでしょう。わからないからわかろうとは努めない。大量の情報の垂れ流しが選択のみを迫り、創造の孵化を待てなくしました。
それまでの世代は、海外、特に戦後はアメリカかぶれして向こうのまね、アメリカに近ければよいというものまねの価値観に支配されてきました。日本の音楽業界では、欧米ナイズ、特にアメリカ化されることで二重に複雑になりました。それでも今日は耐え、明日に希望を抱いて、上昇志向で励んでいたのです。
今もって舶来信仰はありますが、少なくとも、今の若い人は、欧米に引けを取っているとか追いつけ追い越せといった競争意識は薄いでしょう。人口が少ないというのは競争意識そのものが薄れ、争うのではなく協力しやすく、共鳴を求めやすくなるということです。その点では私たちの先を行っているともいえます。元より、日本人の社会は村社会で、察する文化(E・T・ホールの言う「ハイコンテクスト文化」)で、共感力が強かったのですが、家父長制など上下関係が支配していてそれを妨げていたといえましょう。
〇デジタルと声
私は、声といったものが、こうも安易にデジタルに変わるとは思いませんでした。そういってもピンとこない人も、歌がロボットの歌に替わられる日がくるとは思わなかったのではないでしょうか。
楽器、インストルメンタルは、それだけでも演奏を成立させてきました。オーケストラはじめ、歌のない音楽はいくらでもあります。楽器は人間のつくりだしたものゆえ、音そのものとその奏法が価値ですから、常に進歩してきました。大昔の楽器よりも18世紀あたりに完成されたものの方が性能がよいはずです。それは20世紀に素材の開発、ひいてはエレキの力で最終段階に入りました。 シンセサイザーは、あらゆる楽器音をつくれます。さらにマイクロコンピュータが入ると完璧です。ここで日本は、ピアノ製造などの技術とともにトップレベルに立ったのです。日本人ですぐれたアーティストなら、それを駆使して世界へ出ていこうとするのは当然でしょう。
ドラムやギター、ベースの演奏は、誰でも打ち込みでつくるようになりました。多くのプロプレーヤーは、打ち込みによって失職させられたのです。シンガーソングライターは、キター一本、あるいは、キーボード一つでステージができた自作自演のアーティストでした。今は、レコーディングやバンドも一人でできてしまうのです。まさに「カラオケ」です。そして、歌唱も「ヴォーカロイド」へと。
〇アーティストの変遷
この間、アーティストたる才能は、バンドマスター→歌い手→プロデューサー、ミキサー、アレンジャーなど、その担い手が変わっていきました。でも、歌手がヴォーカロイドに、ステージでも初音ミクに代わられるとは思わなかったでしょう。
これを年配の人なら一過性の流行や一部分とみていることでしょう。現に海外では、まだ特異なテクノロジーとしかみられていません。でも、日本では、すでにヴォーカロイドの曲は十代のオリコンチャートの半分を占めたこともあったほどです。
海外では、以前ほどの大スターは出ていませんが、多くのすぐれた歌手やプレイヤーが健在です。声や歌唱のレベルは下がっているようにはみえません。大スターが出なくなったのは音楽、歌、ステージとしてあらゆるパターンが出尽くしたため、どんなハイレベルのスターも○○と○○の掛け合わせのようにみえてしまうからです。
これは、現代美術が抽象化して写真など技術革新で写実の枠を破ったのに対し、現代音楽が音ゆえに生理的に成功しなかった、視覚と聴覚の違いもあるでしょう。臭覚と聴覚は古い脳、幼い頃の記憶に強く左右されるからです。
AIは人間と違う、ロボットはペットになれない、アナログとデジタルは、などと区別するのは、アナログで育った世代の感覚でしかないのかもしれません。人間の脳は入ってくるものによって書き換えられるということです。多くは、幼いときに入っているものによります。あなたや私がどう感じようと、新しい世代は、そこに入っているものが違うし感じ方が違うということです。
〇2D化とデジタル音声を好む日本人
全国人気47位の茨城県がランキングを気にして2D(2次元、3D=3次元)のアニメキャラをPRに使ったところ、かなり効果を上げ始めたそうです。ゆるキャラ王国日本では、人間以外のものとも共感しやすいのです。車に傷一つつけない日本人の潔癖感もありますが、日本人は、人間以外のものを人のように擬人化して扱うのに抵抗感がないのです。家畜にもロボットにも名前をつけてかわいがります。本当にロボットで介護や癒しが務まっているのです。これは、八百万の神を持ち出す間もなく、日本人のDNAに受け継がれてきたものでしょう。
アイドル代わりの3Dキャラは、代わりでなく、アイドルそのものです(紅白もオリコンもAKB48ら女子ユニットとジャニーズ系がメイン)。
人間以外のものにも共感すると言いましたが、どうやら日本人はそこに留まらないようです。一部では、人間ではないからよい、人間よりよいと思う人も出てきたようです。人の歌声よりもヴォーカロイドの声の方がよいと言う人もいるのです。
これは、デジタル音声と幼いときに生活してこなかった世代にはピンとこないと思います。でも、人の声には楽しい思い出がなく、ゲームの声や音楽の方に喜びがあった子供時代を過ごしたら、そうなりませんか。
体罰を受けたわけではなくとも、強い口調で大きな声で言われると滅入ってしまう…。説得力を強いてくる声は、もはやパワハラ…。「盗撮注意」という注意書きは日本にしかないでしょう。それを補らえるのに多くの人が関わって日夜がんばっているというのは、まるで喜劇のようです。そうした日本人の感性は、クールジャパンでみられる多くの文化を生み出す一方、偏りを増しています。
〇共感と免疫低下
共感ということは、快いことです。しかし、そこばかりが高まると自分の五感=体に働きかけてくる快だけを中心に行動することになりかねません。となると、不快なものは我慢できないものとなっていきます。それはまさに「今、ここで」の感覚ですから、当初は不快でもそのうち快感になるかもしれないようなものに対しては億劫になるでしょう。
現に日本の芸事や稽古、下積みなどのありようも変わらざるをえなくなってきています。ハラスメントは、スポーツ界を筆頭に、古い体制の残っているところで槍玉に上がっているわけです。
脱臭、抗菌大国日本で心配されるのは、不快を排除することで抵抗力を失った心身です。
「いきなりステーキ」がアメリカに進出して伸び悩み、向かい合うテーブルの敷居を外しました。向こう側は見られぬようにしているのは、アメリカ人には不評、理解不能なわけです。
一人カラオケも一人焼肉もよいこととは思いますが、外国人がラーメンの人気店、「一蘭」に入ると驚くでしょう。一人席で注文も全てノンバーバル、一言のことばも必要ありません。「ありがとうございました」まで自動音声です。日本は、「変なロボット」がおもてなしをする国になりつつあります。
〇AIとサービスと手間
サービスでの顧客満足(CS)において、人間でなくてはできないことがあり、その価値は失われない。これは確かなことでしょう。いかにAI技術が高まってもそれを相手に応じてわかりやすく説明したり安心させたりすることは難しいことです。
しかし、店に人がいないと買う気にならないとか、一言、声をかけることが大切と言いつつ、本当にそうだったのでしょうか。私たちは、「寿司屋は、声が元気でないとおいしくない」と言いつつ回転寿司ですませ(職人との会話を楽しまない)、近所の商店よりも少しばかり安い量販店で買うように、簡単に行動を変えたのではありませんか。
コミュニケーションをとるという手間は、心身の労力も求められるので、忍耐力がないと避けてしまうのです。いろんな人間との関係づくりは、それを必要とするものだからです。
〇日本人の変容
日本人の体型は、a.昭和戦前(おじいさん)、b.昭和戦後(お父さん)、c.平成(こども)と著しく変わり、モデル体型化しました。2018年初頭(1月2日)、高麗屋の襲名披露で横一列に並んだ3人(3代)を、私は、声はもちろん、顔の大きさや体つきでみました。a→bで欧米化した体格は止まり、b→cで小顔化、足長細身化したのです。日本の男性の声は中性化、女性化し、高い声で歌えるようになりました。これは、きっと日本の女性の求めるところだったのでしょう。
日本の女性は、社会的にはともかく、実生活において、どの国よりも強く個性化しました。しかし、他の国の自立した女性のように、男性に男らしさを求めません。中性化すること、まるで去勢をせまっているかのようです。
海外のイケメンはマッチョです。男性スターの条件は、イケメンに加え、女性にない男らしい体です。しかし、日本だけは真逆です。やさしさが第一、強そうなのはだめなのです。戦後の平和がもたらした福音なのでしょうか。
元より、共感を優先するのは女性らしさですから、そうして育てられたら当然なのかもしれません。日本における父性の不在は、日本が「アメリカの妾」となってから、取り戻されそうもないようです。
時代劇がなくなったのもひびいているように思います。
日本は戦後、国際間での戦争ということからみると、平和であり、よって豊かになりました。しかし、この21世紀初頭の低迷のなか、周りの国々が全て日本以上に成長しているのなら、日本は相対的に貧しく弱くなっているのです。世界第二位だった頃の余力は、いつまでも続くものではありません。
声を大にして言わなくてはならないことが、声が出なくなっていっているのです。
以前、「あるウイルスが世界で流行ると、日本人だけが全滅するのでは」と言ったことがあります。今や、「AIに全てを奪われ、日本人だけが全滅するのでは」と、声を大にして言わなくては、と思います。
〇団塊の世代と不祥事とハラスメント
余談となりますが、今どきの流行となると、ハラスメントです。セクハラから始まってパワハラ、マタハラ、モラハラ、アルハラ…と(しかし、「セクシャルハラスメント」が新語流行語大賞の金賞をとったのは1989年、奇しくも平成の始まった年です)。
今の政財界、企業の不祥事は、ほとんどが内部告発です。これらはネット社会の恩恵でもあったのですが、ここでは世代交代から眺めてみたいと存じます。
不祥事などがあからさまになるのはよいことですが、それは内部の統制力を失ったことでもあります。日大アメフトに代表される運動部の不祥事、これもプロアマ問わず、スポーツ界の例をあげるときりがありません。
今年で団塊の世代は、1947年生まれでは71歳(定年が65歳とすると、そこは1953年(昭和28年)生まれです)、現在、ほぼ第一線を退いて直の後輩の退職も続いたところで、その影響力が消滅したのです。
私は、ほぼ一回り下の世代で、いかに人口の多さが力になるのかを目の当たりにして育ってきました。1学年で260万人と160万人の差は4割削っても同じという圧倒的なものです。熾烈な競争をしていく世代の後で、私たちは、三無主義とも呼ばれました。
世界がもっとも大きく動いた1968年は、ベビーブーマーが成人した前後でした。それは、仮に半減したとしても今の20代よりも3割も多いのです。
不祥事は、もともとあったことがフタが外れたことで明るみに出たとみてよいのではないでしょうか。
私たちの世代が社会のトップになって抑えられなくなったのです。昭和30年代生まれは、パワハラ、体罰が当たり前で鍛えられた上の世代の洗礼を受けたのに、下の世代や団塊ジュニアにはそれを強いにくくなったジレンマの世代でもありました。
戦争を戦ったのは大正時代に育った人です。そのあとの昭和の1ケタ代は、戦前の主義の崩壊で不信だらけのままマイホーム化していくなかで、新たに登場したベビーブーマーに対しては、異才や異端児を受け入れる度量もありました(日本史上、稀にみる混乱期でしたからやむなくもあったでしょう。人手不足に集団就職、そして高度経済成長とレールが引かれつつも、多様性が活かされてもいたのです)。
それに対して、団塊の世代は人数が多いのですから、何をするにも自分たちで足りてしまうのです。才能も人材も同じ世代で賄えたのですから、下につく人間には、補助でよい、つまりイエスマンを重用するわけです。同世代の私がみるに、有能な人材は大企業や役所を早々に見切って離れ、イエスマンが残っていったのです。つまり、出世は、忖度能力でなしたのですから、当然のごとく上のフタが外れるとそこでいろいろ起こるわけです。人望も統治能力も異質の人材も使えないのですから対処できないのも当然です。おかげでいいように突き上げられ、そして「民生化」が始まったのです。極論となりましたところで、お開きに。