論17.「まね」で教えること

○客観化する

 自分が一人で行うことと、レッスンのようにトレーナーと二人で行うことは違います。私は、一人と二人とは絶対的に違うと思っています。何十人ものレッスンでも、私は、1対1の複数形でみて1対多とはみていませんから、二人以上なら何人いても同じかもしれません。

 ですから、自主トレの結果を問うレッスンが大切だと思うのです。よいレッスンは、声が行き来するもの、声が働きかけるものです。トレーナーから教えるのでなく、生徒が声で問うのにトレーナーが応じているようなものです。

 「トレーナー対生徒」の1対1のところへ、私がそのセッティングみる形をとると「1対(1対1)」となります。トレーナー二人のレッスンを比べることで、もっと客観視できます。たくさんの個人レッスンを受けるのは、平行ですが、それを統括してみる私がいることで、重層的になるのです。これがとても大切なことです。そのトレーナーと生徒、二人の働きが、より客観的に判断できます。さらに、生徒1人に2人のトレーナーをつけると、1対[(1対1)(1対1)]となります。

 昔は、マンツーマンのレッスンを次の番の生徒さんに見学させることで効果を上げているレッスン体制がよくありました。距離をおいてみていると、聞く力もつきます。

 私はステージやCDを自分だけが聞くのでなく、すぐれた生徒やトレーナー、すぐれた観客が聞くのを、その外からみて、つまり、一番後ろからみて、より多くを学びました。秀でたトレーナーや生徒が作品をどう感じるかを知ることで、自らの評価を客観化するように努めてきたわけです。

○まねの盲点☆

 研究所では、一人の生徒さんに複数のトレーナーをつけています。その分、客観視しやすくなります。

 トレーナーが信頼されると、よい面もたくさんありますが、そうでない面では、トレーナーのくせが入ります。それゆえ、2~3人のトレーナーにつく方が、もっともよいと自分が思うトレーナーだけにつくよりもよいと思うのです。

 一人のアーティストや一人の役者だけから学ぶと、知らないうちに必ずまねになってしまうと警告しています。これまでに、教えている先生にそっくりな芸風になった生徒さんたちを、他のスクールでたくさんみてきました。

 先生が歌手なら、なおさらその感性が大きく影響します。多くの人は、プロ歌手ほど才能や強い個性があるわけでないから、そこにいると、その影響下にどっぷりと置かれます。喋り方や言うこと、立ち居振る舞いから考え方まで似てしまうのです。そこに出入りする関係者も、先生を評価する人の集まりだから、なおさらそうなります。これは、北島ファミリーの例で以前、説明しました。それも一つの学び方であり、特に日本では徹底してそういう伝え方でした。

 これが有利な点は、形だけは早くできることです。人前に早く出せるのです。そうであるほど後で不利な点に化してしまうのが、怖いところです。自力で出ているのでは、ないからです。まねを外そうにも外せないし、外したら形もなくなるのです。他の芸なら、それを踏まえて次に進めることもあります。しかし、声や歌はそうはいかないからです。個人の体、さらに個人の喉、そこは他人の入り込めない壁があります。なのに、その区別が本人にもまわりにもつきにくいからです。

○育つ

 教え方がわかりやすく、やさしいトレーナーにありがちですが、いつも自分よりできない人だけを相手にしていると、どうなるでしょう。そのトレーナーの力を5としてみると、半分の2.5の力くらいにまでしか育てられなくなっています。

そういうトレーナーは、自分の力を示すのに、未熟な相手が出せない高音やファルセットなど、わかりやすいことをやって見せます。それが獲得すべき目的であり、技術のようにみせるのです。「私はできるが、あなたはできない」というギャップを示します。そして、自分のまねをさせて、まねができるようになることを目的とします。おのずと器用にまねられることが優れているという評価になります。ロングトーン、ビブラート、ボリュームなどを見せる人もいれば、昔の作曲家のトレーナーのように、歌や伴奏のうまさを見せる人もいます。でも、どれもヴォイトレの本質ではありません。

 自分より有名であったり活躍していたり、違う面でプロである人を相手にしていると、トレーナーの力が5しかなくても相手が10に育つことがあります。学ぶポイントを本人自身でつかみ、何事もできるようにする方が大切です。

○勢い☆

 年をとり衰えていくと、それを隠すための飾り方、いわば、声や振りの使い方、みせ方がうまくなります。それも芸であり、文化たるものと思うのです。

 しかし、若いうちはパワー、勢い、威力がベースです。エネルギーをムダに使えばよいのです。過剰な放出こそがインパクトとして唯一、アピール力となります。

昨日の自分との競争などは、衰えてきたらでよいのです。最初は、周りに勝とう、より秀でよう、からでよいと思うのです。

 トレーナー業は、そうはいきませんから、そうでないことを教えることになりがちです。それが、トレーナーにつくときにもっとも注意することです。多くの人には、まとめるのでなく、力を出すことが第一の課題だからです。

○秘訣★

 「特別な教えはありますか」「何回くらい通うとコツを伝授してくれるのですか」

 初日、初回でも必要なら、私はすべてを示しています。私のトレーニングの基本は一声の「ハイ」「アー」で示せます。それがそっくりできたら、初日に卒業です。何ら隠していません。わかりやすいでしょう。

 難しいことなどは学んでも、身にならないものです。ステージは難しいことをできることをアピールする場ではありません。難しく思わせないほどにこなせていてこそ、客も楽しめます。

大切なのは自分を知ることです。自分の声を知るのには時間がかかるのです。

 私よりもよい声の人、高い声、低い声の人、長く伸ばせる人、個性的な声の人など、いくらでもいます。ここのトレーナーも私よりすぐれた声の技術をたくさんもっています。歌のうまいトレーナー、ピアノのうまいトレーナー、せりふのうまいトレーナー、だから、皆で運営しているのです。

しかし、他の人と比べても仕方ないのです。「私はこれができる」「あなたは何ができる」「私と同じことができる」ということではなく、「他の人のできない何ができるのか」ということを問うのです。

 私のできないことをできてしまう人はたくさんいます。ですが、ここのトレーナー全員のことが一人でできるような人は、日本人なら、ほとんどいないと思います。それが総合力としての研究所の体制のもつ力なのです。

○プロの能力

 問われるのは、できる、できないではなく、できることでどこまでできるか、ということです。私は、歌手も役者も声優もアナウンサーもお笑い芸人、噺家もできません。では、できるとは、どういうことなのでしょう。それは実際、結果で問うしかありません。

 一つの基準は、「それで食べている」ということです。プロよりうまい素人もいるのです。資格のない職では、区別できないものです。何十年も前のヒット曲での知名度であろうと、印税やタレント活動であろうと、それで食べている人は、プロなのです。

 プロとして考えるなら、できるに対してできないというのは、それで食べていないということです。歌手といっても、自称歌手を含めたらカラオケに毎日のように行っている人は、たくさんいるでしょう。プロとして稼いでいても、歌や芝居だけで生計の立つ人は少ないでしょう。作詞作曲の印税は、歌い手とは別の職とも思います。あくまでヴォイトレからみてのことです。シンガーソングライターは、声も含めた総合力ということになります。

 プロとは、人生でそれを選び、あるいは選ばされ、それで生きてきている人といえます。歌手出身の、アナウンサー出身のヴォイストレーナーというならわかりやすいですが、それは、むしろ本職でうまくいかない人も多いのですから、できていても売れない、でもプロの世界では、それはできていないとなるわけです。

 ですから、ヒット曲や出演機会もないトレーナーが、プロの歌手やプロの役者とその分野で張り合ってもどうしようもないことです。トレーナーは、声をみて判断し、トレーニングすることのプロであるべきです。トレーナーとして声がよいとか、カラオケがうまいのは、そうでないよりはよいだけで、本質的なことではありません。それで実力を問いたいということなら、役者や歌手をやればよいのです。なぜ、それで通用しないか、自らを知ったトレーナーでないと、プロをみたり育てたりはできません。

○トレーナーの業

 私ごときが声のトレーナーをやっている、なら、「自分ならもっとできる」で、アーティスト志願者がトレーナーに転向したなら、それは、よくも悪くも、失敗です。反面教師としても、私の影響下に入りすぎだと思います。それで人生が変わったというのは、必ずしも喜べません。なぜなら、好きなことの周辺で食べられる数少ない職とヴォイトレを考えてしまったと思うからです。

 私は、ライフワークとして、自らの心身のためと後進のために、声の研究のための研究所をつくっていました。アーティストや社会人としての勝負もしないうちから、トレーナーとして先生になって欲しいとは思わないのです。

 世界への人材が出ていない日本で、私は、アーティストの踏み台になるつもりではあったのですが、トレーナーの踏み台にもならなくてはいけないようでは、困惑します。「トレーナーの選び方」を、トレーナー向けに述べているのは、その責任もあってのつもりです。

○よいと思うことを疑う

 「昔がよかった」という自分が、まともだとは思ってはなりません。自分たちがよいと思うよう行動していて、時代がよくなっていっていないというのなら、自分の「よいと思うこと」を疑うところから始めるべきです。

大人はバカだといって、大人になってみると、バカになっているものなのです。それに気づいているのといないのとは、天地ほどの違いがあります。私が語るにあたり気をつけているのは、次の2つの事実です。

1.海外の外国人の声、歌唱のレベルは総じて高い。

2.今の日本のレベル、日本人の歌唱力、声の力は向上していないどころか低下している。(平均レベルはカラオケレベルで上がっても、トップレベルは下がっている)


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