論30.日本のヴォーカル論~カラオケバトルから、声力の欠如について~2020年に向けて

〇カラオケバトルと実力

 ときおり、カラオケバトルの点数と歌唱力について聞かれます。「点数に実力は伴っているのですか」ということです。一般論では、点数は低いより高い方がよいということでよいと思います。80点くらいまでは、歌の正確さの判定としては、案外とよい線をいっていると思います。
元より、歌唱力、実力をどうみるかの問題です。そこは、芸術点です。しかし、どのレベルでも歌の評価は聞く人によって大きく違うわけです。同じ曲で比べるならまだしも、選曲が違うことでもぶれるわけです。さらに声質も一人ひとり違います。つまり、評価の基準の要素と、その配分(点数の割合)の問題があります。
だからこそ、客観性のあるソフトに判断してもらおうということで、バトルゲームになっているのでしょう。ソフトは、人がつくっているので、その設計思想を検討することが第一に必要なことでしょう。でも、全く同じに歌ったものを同じ点数で出す点では、人よりも確立した基準をもつといえます。人は、どんなに優秀でも、その日の気分や前の曲のよし悪しの影響を受けることもあるからです。

〇カラオケソフトでの練習

一人のトレーナーの耳として、どのくらいぶれないのか、基準の確かさといったところで考えてみると、カラオケソフトは、下手なトレーナーよりはましです。しかし、秀でたトレーナーやプロデューサーには、今のところ及びようもないということです。
「カラオケの採点機で練習できるのか」という問いもよくきます。歌はともかく声そのものについては、調整はともかく鍛錬については、難しいでしょう。点数が上がったことを上達とみて、それをめざすので、点数を上げることが目的になるからです。
トレーニングのプロセスではむしろ本格的なほど、一時点数は下がるのがふつうと思われるからです。点数は、総合点、つまり、バランスを評価します。トレーニングはバランスを一時、考えないものだからです。

○カラオケの上達

カラオケの採点機能は手軽に使えます。しかも、これまで70点で充分うまいと思っていた人に、あと30点の上達する余地があることを示します。その明確さでは、トレーナーよりもわかりやすく役立つこともあるでしょう。
点数のアップを目的にすると、少なくとも何回かの歌の練習は必要、となります。100点は、ある人には、無理かもしれませんが、曲を変えたりして比べていくと、自分の得手不得手を知ったり、苦手なことを知って克服することもできます。
80~90点くらいのところまでは、一般の人が聞いて、うまい、あるいは下手でないと思うレベルということで一つの基準にしてもよいと思います。私見では、そこからは、評価は難しくなります。少なくとも、私の基準とは一致していきません。それ以前に、歌の練習はヴォイトレとは同じではないからです。

○カラオケチャンプと日本のプロとの共通点

 カラオケバトルでも、他の歌番組のステージでも、私自身、ときおり歌に感心したり感動することがあります。それがプロといわれる人の歌唱より素人に多いのは、とても残念なことです。平均すると、プロの方がずっとうまいのは当然ですが、1曲なら、それを超えるアマチュアがいるのは、珍しくありません。
今の日本のプロの歌唱は、卒なく無難でテクニカルに見えることが多いのです。そこがプロとしては素人ともみえるし、声の歌唱以外の要素でプロとして振舞えるゆえに、プロともみえるのです。この振舞い能力は、見せ方でもあり、この装飾や脚色とフォロー能力もまた、現在のプロの条件ではありますが。
日本人の歌には、明らかに共通して欠けるところがあります。それは、とてもベーシックな部分です。私は、主としてそこに関わってきました。
しかし、現実として、それとは別に、日本人の歌唱をとても丁寧に細かくみるようにもなりました。依頼される仕事は、そちらがメインです。しかし、そこに入るほど、根本的な解決とは離れていくのも知っています。即ち、パワー、インパクトの問題をスルーしてしまうのです。

〇理想とギャップ

外国人にも、確かにうまい下手はあります。しかし、プロとなると、オリジナリティがテクニックを上回ります。有無を言わせないパワーがあるのです。私の好きではない歌い方も多いのですが、これはこれで完成と認めざるをえないものです。
何ら手を入れなくてよい、修正の余地はないと思わせるからです。それは主として、声の力に拠っています。パワーを伴う技術、いや、技術を伴うパワーという方がよいでしょう。この声の力、技術を、私はフレーズということで説いてきました。
それに比べて、日本のには、いろんなギャップを感じます。欠点や間違いでなく、不足が露わに出ます。それは、音程、リズム、発音でなく、主として声と声の動かし方です。
だから、そこを補うのが、私たちのレッスンになるのです。つまり、手を入れざるをえないし、基礎不足で超えられないという壁がみえてしまうのです。日本人ゆえに、日本人の不足に外国人トレーナーよりも厳しくみることができるのだと思います。

○歌としての基準

歌については、どんな人が、何をもってよし悪しを判断するのでしょうか。これについては、個々の自由であり、その人の好みのままに、ということです。誰かの聞き方がどうであれ、私に何ら異論もありません。
トレーナーは、レッスンとなったときに何らかを向上させる必要があります。そのために、何をどういうところまで上達させるかを決めるわけです。そこで目的や優先順や重要度の判断を強いられるのです。ゴールなくして、トレーニングのプロセスもないからです。

○レッスンとトレーニング

発声の状態のチェックと改善アドバイスをするのが、大体のヴォイトレのレッスンです。レッスンに行っても、それだけでトレーニングにならないのは、こういうことだからです。
 本人かトレーナーが、最初はともかく、少しずつ目標と基準を明確にしていくことが必要です。どちらかがゴールしたと思った時点で、レッスンの目的は達しているのです。目的が実力維持なら、そのトレーニングをくり返していればよいのです。
 私にとって、レッスンはトレーニングの指針づくり、課題を与え、チェックすることのくり返しです。しかし、レッスンのなかでトレーニングとして行われていることもあります。毎日、レッスンで行っているというなら、それはトレーニングとほぼ同じ意味です。

〇「レッスンになる」まで

私の思う「レッスンになる」には、いくつかの条件があります。私の思う「本当のレッスン」には入れなかったり、入るまでにすごく時間がかかることもあります。その前に、わからなくて続かなくなると残念なので、親切なトレーナーに手伝ってもらって組織体制にしたといってもよいでしょう。一人で何役もできないというか、もっとも大切な役割が薄まってしまうからです。日本にもかつて存在した数少ない優秀なトレーナーが皆、そうなっていくのをみていたからです。

〇声と歌、あるいは、音とフレーズ

1.楽器として、その人の音色をしっかりと引き出す「声」(音)
2.引き出した音が音楽を感じるように動く「歌」(フレーズ)
ここで絶対的に欠けているのが、1です。日本人の歌手なら100人のうち95人以上に当てはまる問題です。
2については、1の条件がなくとも、出している声でうまく処理することもできます。持ち前のセンスで「音楽らしく」「歌らしく」なるのです。日本のプロの多くは、それに該当します。それを技術と思っている人も少なくないのです。
その前に、作詞、作曲、アレンジ、ステージング、パフォーマンス(見せ方)で、ほとんどの実力が問われている日本では、声の力でアピールするのは何とも難しいのも確かです。
1と2が伴わないと、インターナショナルには通じません。
1の問題を、1→2の問題とみると、かなりのトレーニングが必要です。しかし、マイクのある歌では2(→1)で日本では通じてしまうわけです。
そういうプロと、そういうのを目指すトレーナーばかりになると、1と2を伴う世界のヴォーカリストには敵いようがないのです。いえ、ずっとそうだったのです。そして、その差は大きくなっています。

〇声楽のレベル

 私は、欧米にかぶれ、向こうの基準で日本人をみているわけではありません。かつての声楽家がポップス歌手を見下げていたり、欧米のロック好きが日本の歌手を軽んじていたりしていたような見方もしていません。
 そこを、文化の差であるのだから欧米の基準でみるのはよくないと考える人もいます。しかし、私としては、全世界に共通するシンプルな声の力としてみているのです。この声の力は、邦楽にも適用できます。むしろ、ジャンルを超えていることで、実用性を証明してきました。
比べるというのなら、日本の声楽の方が根深い問題を抱えています。クラシックというのは、ヨーロッパ、主にオ
イタリア、ドイツ、フランス、スイス、ロシアあたりの特別なものから全世界に普及し、インターナショナルな価値、基準をもつものです。それは、時代や国を超えた評価があるということです。
先の1→2の処理ができていないことは致命的なのに、今も充分にできているわけではないからです。
 日本人の声楽家は、歌唱、表現、舞台において、世界の一流レベルに達していません。ポップスやミュージカルも、です。ここでは、声楽を学んで、その技術でプロとして活躍している人を指しています。

〇聞く人にストレートに伝わるか

日本人の耳や声に合っていて、日本人の実生活への影響力を考えたら、声楽よりもポップスの方ががんばっていたのではないでしょうか。
声楽家は、声楽の世界、ポップスは、ポップスの世界でしかみないから、声についての本質的なことがわかっていません。必ずしも実演者がわかる必要はないとは思うのですが。
表現力として、人々の心に入っていかないとしたら、ジャンルや趣味嗜好や時代のせいではありません。
聞く人にストレートに入っていかないなら、それは一流ではない、一流でなくてもよいのですが、分野として確立されたものが衰えてきているなら、表現として大切なもの、本質的なものを失っているということです。

○レッスンの成立

 私が、著名なプロの人たちを差し置いて、このように話すのは、目的と必要性を最高レベルにおいてみないと、元より論じる必要のないことだからです。ステージでなく、ヴォイトレということにおいて、のことです。
「目標の基準は、個人の価値観、感性の違いによる」というのなら、大したレッスンもいりません。いやレッスン自体が成立しません。
私は、オペラ歌手でもポップス歌手でもないので、「他の人ができないことを自分だけができる」とか、「他のトレーナーは誰一人育てられないが、私だけはすべての人をハイレベルにできる」などと思い上がっているわけではありません。示せるのは、歌でなく声です。
日本が世界とのギャップを埋められない理由を、声において明確にして、そこを埋めていくことから始めようというのが主旨です。ですから、反発よりは協力をして参加していただきたいと思うのです。

〇しぜんと世界基準

 「しぜんな声がよい」というのはわかります。しかし、その声が弱いというハンディは、大きなものです。生まれて10代くらいまでの間、育ってきたなかで、周りの環境に応じて声もまた成長します。そこでは、個人差が大きくなっていきます。その結果としての世界基準との声のギャップのことです。
その弱さは、それまでにしっかりと声が使われていないことに起因します。強くも多彩にも充分な鍛錬を積んでいないのです。今の日本人の育ちと日常での使用の脆弱さ、元より、必要のなさ、これが、よい歌手や役者の育たない最大の理由です。というのは、担い手だけでなく、聞き手の求めるレベルになってくるからです。

〇声の基礎体力

毎日、5キロ走って学校へ通う子供は、20歳になると難なく10キロは走れるでしょう。それと同じで他の国の方が、生活などのあらゆるシチュエーションで、より大きな声をたくさん、音声表現力として長く使っているということです。それは社会的、文化的な必要度や母語の問題、家族、地域、学校など、コミュニティ、対人関係、コミュニケーションの方法に根差します。それによって大きな差ができます。
 音声において、日本で育つ日本人は、国際的にみて弱すぎます。あまりに声を使わずに成長しているのです。長生きはよいとして、声は早く老化してしまいます。その環境が大きいのです。
私は、中国やインドで舗装されていない道を、窓のない車に乗って走ると喉が痛くなります。でも、向こうの人たちは、そこで2、3時間話しっぱなしでも何ともありません。声の基礎体力は、こういうところから大きく差がついてしまうのです。

〇必要性

そういう環境で育ったなら文化、芸術のためになるということでもありません。あくまで日常レベルの声のことです。
弱点を認め、必要性に気づき、効果的にトレーニングにおとしこめたら、オリンピックで活躍する世界の一流レベルになるのは夢ではないはずです。そのあたりは、具体論になります。
声変りがあり、身体のなかで、もっとも成長が遅いものの一つである声は、二十代からが勝負ともいえるから、希望はあります。ただ、そこだけみるには複雑すぎてやっかいなものなので、手をつけてこなかったのです。完成をよしとしないような日本人の感性もまた、障害となっています。せっかくの素質がありつつ、その素質を充分に活かしたり、そのための環境を整えたりしていっていないのです。
成熟、円熟させるべきトレーニングも、ストレートに未熟、幼稚化させるような目的に充てられては、複雑に、どっちつかずになりがちです。結局、長く活動できずに終わるか、若いときの名声で活動を続けるだけになります。日本の歌手でデビュー曲が最高の出来という人がいかに多いのか、です。(最高の出来と最大のヒットは違います。)ベースを固めてこそ、応用は自由自在になるものです。

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