論14.バランス調整と実力アップ(発声での筋トレ不要論について)

〇発声での筋トレ不要論

これは、主に腹筋トレ不要論のことだと思います。言うまでもなく、呼吸筋、喉頭筋群、腹筋肉群、その他のトレーニングは分けて考えることかと思います。

 結論からいうと、筋トレというのが誰に対して、どういうレベルのことを言っているかです。「筋トレ不要」という時流に対して、あまりに一方的な傾向へ注意を促すため、また、そのときの相手に対しての答えとして、不要でなく必要だったことがあります。

 まず、筋トレで筋肉がつく原理について述べます。過度な負担をかけることで、筋繊維を破壊します。それが回復すると、前よりも大きく太く、つまり強くなるわけです。これが効率よく行われるというところに、筋トレの有効性があります。そこに栄養(タンパク質)と睡眠(成長ホルモン)は欠かせませんので念のため。しかし、個別に筋肉を強化することと全身連携でのプレーのよさとは、別であることがいつも賛否を分ける問題の一つです。

 私は、ステージや作品とヴォイトレ(この場合は、鍛えるヴォイトレ)、あるいは、応用としてのプレーと基本としてのトレーニングとのギャップをいつも指摘してきました。

 最近のヴォイトレが調整メインのもの、即実践的なものだけになってきたために、このギャップを時間的な経過をもって修正していくことを待たずして「すぐによくなる、ならない」だけで判断する風潮があります。そこに異を唱えているのです。

 本当にステップアップ、あるいは一番下の基礎、基本で力をつけ、器を大きくしなくてはいけないとしたら、そこでは、「すぐによくなる」どころか「一時的に低迷」、もしくは「悪くなる」こともあります。急ぐとリスクが増えるのです。いつまでも時間をかけられないし、急がざるをえない事情もあるわけです。

 優れたトレーナーは、この範囲や期間を的確に予想できるところの能力があります。

 つまり、今のあなたからあなたをどこまで現実から離して、いつに戻せるかを計算できる力、これには、直観に加え、数多くの経験がいります。すぐに少しよくすることは、すぐにできますが、長い時間で本当によくするには、10年単位で人をみてきたことをくり返すだけの年月がかかるわけです。

〇筋トレ不要論の背景

 筋トレや鍛えることが避けられるようになった風潮については、いくつかの理由があります。

 もっとも大きいのは、日本ではヴォーカルや俳優の体から(腹から)の声の必要性の低下です。音響機器の発達とともに、聞く人の耳の変化などもあります。歌のカラオケ機器への傾倒化も関係しています。器用なアーティストに声の力が宿っていないのは、日本では以前から特に目立っていたことでした。トータルとしての表現力のなかで時間のかかる声の養成を怠っていたこともあります。

 筋トレは、ヴォイトレにはまる人がはまりやすいゆえに、手段と目的を混同していったことも大きいでしょう。はまる人は熱心なあまり、急にたくさんのことをやり、短期的にみえやすい効果を狙います。それでは、どうみても、喉の場合、逆効果になりかねません。がんばってやった分、ただ喉を痛めるようなことにもなるのです。

 プロや一流の人の舞台では、ヴォイトレは、手段として使われています。プロにとっては、ベストを追求しつつも、現状では、最低限のベターな状態を守らなければなりません。その上で、クリエイティブなことを追求するのは歌では一握りの人です。それも大半は声でのクリエイティブティでなく他のことが優先となっていったのです。

 ほとんどの人はきちんと同じようにこなせることを第一の目的にしています。ヴォイトレは、そこでは調整、ウォーミングアップやクールダウンレベルにしか使われないことが多いのです。

 根本的な実力のギャップを埋める時間をもつのでなく、その日の状態をよくみせる、その小さなギャップをカバーするため、私からいうと、今のヴォイトレはトレーニングと真逆の方向に使われているといってもよいくらいです。そして、評価されるには、トレーナーも、その応急処置の能力をアピールすることが必要なわけです。それで、さらに、調整重視の傾向が強まっています。

 私はそれにも対応せざるをえないためにヴォイトレを分けていきました。他のトレーナーにもそこを分担してもらっています。

〇ヴォイトレの偏り

 ヴォイトレにはまった人のなかには、表現手段としての声でなく、声のための声という出口のないトレーニングに向かう人もいます。体に感じるのに筋トレはよいのです。疲れる分、やれた実感があります。そこで、喉を嗄らしていけば声がよくなる、力がつくという独りよがりの勘違いをしていく人も出るのです。

 それらを体験して、その後にそれを改められてきた人は、一様に一転して筋トレを否定するようになります。つまり、「よくならなかった」と真逆の立場に立ちます。そこからトレーナーになった人は、初心者にそのようにならないような指導を始めるのです。

 そこで学ぶ人たちは、ステージに出ていない人が多いゆえに、発言としては大量になります。ステージに出ている人やプロとして全うしている人は、わざわざ効果のあることをPRする必要も時間もありません。ステージで、その結果を問い続けているからです。

早くステージのもたなくなった人から発言するので、私からみると、本もネットも偏り過ぎています。「ヴォイトレは調整であり、鍛えるようなトレーニングでない」となってしまっているわけです。少なくともトレーニングした上で、今は調整だけをしているトレーナーがそれを言うのは、おかしなことです。

 論法として「私は人並みだったが、このメニュでよくなった」とか「私はずっと間違ったトレーニングをやってきたが、この方法でよくなった」は、説得力があるからです。トレーナーが、過去の自分(=今のあなた)を否定し、今の自分(=将来のあなた)を絶対肯定しているのです。一般の人には、その方が希望がもてるわけです。

しかし、問題は、そうして得た声がどのくらいのものかというところにあります。なかには、最終的に大きく踏み外し勘違いしたままの人も少なくありません。これは、好き嫌いでなく、明らかにシンプルな声ですから、一聴きすればわかるものです。

 「よい、悪い」「正しい、間違い」ではなく、目的のために手段としてどのように使ったかということが問題の本質だと思います。「このトレーニングは独りよがりなもので、今の私は他人には勧められない」というだけで、これを否定すると、それで効果を出したと言っているアーティスト、俳優、数多くの先人なども否定することになります。実績を残してきた人たちの言っていること全てが正しいとは思いません。しかし、そのレベルの声さえ出せない人が、感覚や理屈、あるいは少々の経験だけで、トレーニングを否定しているのは、おかしなことです。時間がかかり非効率であったり、別の意味では限界があったということも考えられるとしても、当代一芸をその声で演じることができたという事実は、否定できません。否定するなら、方法論を云々するのでなく、芸や声をきちんと検証することです。

 それだけ「早く少しうまくなる」ことでなく「時間がかかってもすごくなろう」ということを目標とする人がいなくなってきたのでしょう。前者の上に後者が成立することがないとは申しません。しかし、小手先のくせをつけると、後々、本当の能力を出すための妨げになりかねないことも少ないのです。

 一昔前の、声を嗄らしてでも強くしようとした人たちの感覚は、筋トレに近かったのですが、そこをとって、間違っていたとは言えません。それでは日本の邦楽や伝統芸とそのプロセスを否定することにもなりかねません。ハイリスクハイリターンなのか、ローリスクローリターンなのか、あるいは、ローリスクハイリターンか、それを決めるのは本人の感性の力です。トレーナーや医者などの立場では、ハイリスクは一般的には勧められないということですが、一般的なアドバイスで、アーティストがどのくらいよくなるというのでしょうか。例えば、楽になったからといって、よくなったとは限りません。

〇一般論と一流論

 私は、一般論を述べたいと思いませんが、これを読む9割の人は一般の人なので、普通のことをまず述べています。しかし、1パーセントもいないであろう人のために一流のための論を加えています。研究所は、あらゆる人のために解放されているゆえ、年に一人か二人、一般の人とは異なる人も多くいらっしゃいます。そういう人のためにこそ論じているので、それらは、本などには述べられないのでお許しください。とても感覚の鋭い人、とはいえ、声についてはすごい人も人並みの人もいます。そこに対し、私はスタートしたので、むしろ今となれば、本質的な部分の残っているところといえます。  

 そこでは、はまるだけはまるのでよしとし、声のための声でもよし、そこはすでに出口です。内なる一流のアーティストが導くと、呼吸法や発声法もなく、喉も、頭声や胸声の共鳴などもなく、体のトレーニングがそのまま、せりふや歌の成果にストレートになっているのです。そういう現実があるのです。そこで一流たる人と一般の人との違いは、発声や体よりも、まずは意志の強さと集中力に顕著にみられます。

 トレーニングにリスクを負わせてよいのかといえば、本人が望んでもトレーナーとしては、できるだけリスクは避けるべきです。その矛盾をこなせるのが昔の一流の人です。リスクに見合うものがどのくらい得られるかは、人によるからです。リスクを最小にするには、急がずに時間をかけることです。体や心の管理を徹底するのが正道です。

早く急いで人に効果をあげるために使うとしたら、普通はリスクを避けたいのです。ただ無理なトレーニングとなるからです。

〇部分と全体

 ここでは、さらに根本的な問題に入っていきます。

 それは、個別の部分的な鍛練と、全身での有機的な結びつきを踏まえた使われ方とのギャップのことです。これまでも述べてきた例でいうと、「アスリートにマシンジムは必要か」とか「実践に対応した練習以外の部分的な強化トレーニングメニュはデメリットにならないか」というようなテーマで述べたことです。筋トレの問題は、そこでも答えているのです。

 ピッチャーがいくら投げても、もう球が伸びない限界がきたら、腕を中心とした筋力トレをします。それは自ずと腰の強化につながります。しかし、上半身を鍛えて強くするほど、それでは前よりもうまくいかなくなります。バランスが崩れるからです。下半身で支えられなくなるはずです。そこでもっと使いたい人、その上にいくような人は、走り込みなど徹底した下半身トレーニングをします。真逆のことをしてバランスをとるのです。このとき、下半身だけのトレーニングでも効果が出ると思いませんか。そうしてトレーニング法は修正されてきました。

 加えていうと、昔の農村や漁村で、幼い頃から親の仕事を手伝って育ったような選手は、そういうプロセスを知らずに下半身が鍛錬されていて一流になったのです。それで、そこを他人に教えられないどころか気づいていないものです。そこでトレーナーが必要なのです。一見、遠いところをトレーニングすることで技能をアップさせるのは、本当の基本トレーニングなのです。

 ヴォイトレが今や、柔軟やコア、バランストレーニングを取り入れたのは、残念ながら、トレーニングの進化ではありません。それを受ける人の心身の力が落ちたからです。ですから、それをしても昔の人に追い付けないというくらいで、その上には、なかなか行けません。少なくとも、声の力はなりません。そうでなければ、今も声の力だけ、日本は世界においていかれているはずがありません。そういう認識さえなくなったのが、この20~30年です。

 一つひとつのトレーニングメニュはどうであっても、最終的には再び新しいバランスを整えることが必要となるものです。つまり、トータルでのパッケージ化が必要です。

 それを併行させていけるかどうかはトレーナーの方針や実力にもよります。しかし、何よりも本人の性格やタイプによると思います。

 はまって、そのまま抜けられなくなる人は、切り替える力が弱いのです。これは欠点でなく、その人のバランス能力にすぎないのですが、不器用な人は世に出にくくなっています。そこで皆、なおさら器用に走るということです。こういう風潮では、高倉健さんのような役者は二度と出ないということになるわけです。

 不器用な人は、長くコツコツとやるので声の力はついていきます。役者としての可能性は広がりますが、歌手にはなかなか難しいこともあるのでしょう。

〇副作用とリスク

 部分的な鍛練での副作用の最大のものは、そこばかりに意識がいって、全体の流れを妨げることです。

 これには私にも苦い体験があります。1990年代初めまで、いらした歌い手志願の人には、多くの歌、音楽が深く入っていました。声だけをしっかり鍛えたら、その人のなかに入っている一流のイメージが、潜在下で自動的に補正をして、歌として出ていくときには声もバランスをとるのです。そうであれば喉は壊さないし、リスクも回避できるのです。事実、悪くなった人はいませんでした。

 ところが、1990年代半ばになってくると、歌い手を目指しつつも、その感覚が体に入っていない人が多くなりました。そういう人は、トレーニングゆえ、声、体ばかりにずっと注意がいくのです。

 もっとも、よい声と、歌の世界を描きだすことは、次元の違うことです。よい画料を大量に使うこととよい絵というのは違うし、大きな音を出すこととよい演奏も違います。前者は後者をより活かすための道具や手段であって、目的ではないのです。そこに囚われると、それはそれで声を実感できるので抜け出せなくなります。この実感がくせものなのです。

 でも声がよくなるとしたら、その抜け出せないのは抜け出さないというメリットにもなるのですから悪いことではありません。大器晩成型も期待できるのです。

 ともかくも、こうした経緯で、私は、多くの歌を用意し紹介しなくてはならなくなったわけです。レッスンにも世界中の音源を使いました(詳しくは拙書「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」)。

 初心者レベルでも声の出ないのを筋力の不足にするか、全身のバランス、発声へのつながりにするかは分けられません。両方とも足らないことが大半だからです。

 イメージとして、筋力で声を出すというのは発声の邪魔にもなり、発声の原理とも異なります。しかし、場合によっては、より基礎の原理でいうと、息が強くならずに声帯がしまらなくて、まっとうな声が出ることもありません。このあたりも混乱している人が多いのです(この基礎の原理は、すでに備えているという前提で、喉の解放といわれているのです)。

 すべてを知る必要もありませんし、知ることもできません。ただ、今日はうまくいかないことが明日(遠い将来ということ)のためになっているのかどうかは厳しくみる必要があります。とはいえ、今日やっていることは何であれ明日のためになっているというのは、大きな目でみると確かなのです。

 ですから、コツコツとしっかり積み重ねることです。今、ここでやっていることに集中し、それを充分に味わいましょう。それははまるということでもありますが、はまってうまく逃げるよりは、とことんはまって底を破って抜けて欲しいのです。それは同時に、三昧、道楽でもあるのです。業界での仕事目的と自己修行のためのヴォイトレも異なると思いますが、その人の受け取り方次第で千変万化するのです。

 スポーツのトレーナーなどが普及しているトレーニング方法は参考にもなりますが、そこからの混乱も大きいようです。まず、プロアスリート向けと一般の人向け、老化や体に問題のある人向けとは、しっかりと分けなくてはなりません。

〇まとめ シットアップ、コアトレーニングなど

 最後に簡単にまとめておきます。

姿勢…正しい姿勢の一般論と、歌手やモデルなどの職業別のもの、さらに、アーティストとしての個別のもの。止まったところの形よりも動いているなかでのフォーム。

腹筋…筋トレというと、腹筋トレ、上体起こしと思い、しかもそれが腹式呼吸のトレーニングと思っているため、昔のプロダクションでは、歌手や役者になる人に、上体起こしやお腹に厚い本を置いたりしてトレーニングとしていました。上体起こしを今はシットアップと呼びます。この頃は、さすがにそれだけやっている人はいません。シットアップは腹部の表面の、いわゆるシックスパック(割れている腹筋)をつくりますが、それは身体の安定を支える深層筋とは別であるからです。2008年、アメリカのスポーツ医学学会が発表し、広まりました。それで腹式呼吸や、お腹からの発声にするというのは、違ってはいるとなっていますが、間違っているとか邪魔しているとかは、必ずしも言えるものではありません。

体幹(コア)トレーニング…これを腹筋トレと思っている人もいます。シットアップで腹直筋を鍛えるだけでは、背筋トレや体幹トレになりません。元より、体幹トレ、コアトレがベストというのは、しっかり鍛えて筋肉のあるアスリートであってこそ、そのレベルからその問題にあたることができるのです。そういう人がそれ以上に、やたら筋トレをしてもインナーマッスルやバランスはよくないということだからです(そういう注意を必要とする人は、この研究所でも1割くらいです)。

しかし、筋肉がないと姿勢も脱力もマッサージも調整も大して効かないのです。それを器がないと私は言っているのです。器がなくとも、体幹トレで少しはよくなります。しかし、それだけでは根本的な解決には程遠いのです。むしろ、筋トレをやり過ぎるとバランスが悪くなるので、やり過ぎるよりは体幹トレにまわすとよいのです。


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