論38.体と感覚

〇2つのアプローチ

生まれつき、どこまでのことが人間の体には入っているのでしょう。つまり、素質とかDNAということです。
それは、今の私には、自ら何かをやり遂げる能力として手に入れるためでなく、他の人にそれを得させるために知りたいことです。
本人自身は、そんなものがあろうとなかろうと、やることに専念すればよいのです。しかし、それに専念するかどうかをアドバイスする立場となると、話は別です。
必要のあるものに対し、相手にあるもの、ないものを比べるところからスタートするからです。
これまで、どのくらいが才能(先天的に得られている形質、素質も含めて)であり、どのくらいが教育、努力、後天的に得られるものかということを見極めるアプローチをし続けてきました。
この2つは、厳密に分けられるものではないのです。そこで、これまで教える側は「俺のようにやれ」で通じさせてきたともいえましょう。
これからはDNA解析で、多くのことがわかっていくと思われます。

〇教えないで伝わる                    

 私にあるもので相手にないものを伝えるのは、その一つでしかありません。私にあろうがなかろうが、相手に必要なものを伝えることが第一です。
 教えるものがなくて教えられないのではないのです。教えるのではなく、伝える、厳密には、伝わるようにセットすることです。それは教えようとしないで、近づけるのです。教えないで、創り出せる力をつけさせるのです。

〇我としぜん~ADHD

 生まれてしばらくは、誰もがわがままそのものです。大声を出したいだけ出し、動きたいように動くわけです。だから、声は大きくひびいたのです。ハイハイから立って歩くにしたがって、自由になる能力を手に入れていくのです。
しかし、自由=危険から身を守るため、自由という好き勝手な行動は、躾として制限されていきます。泣いたりわめいたりするような抵抗も3、4歳を過ぎると社会的生活に適応するために、なくなっていくものです。
それができないとADHD(注意欠陥多動性障害)とされかねません。今や、成人して発症していることが社会的問題となっています。

〇仮死と再生

同質性を重んじる日本の社会では、言われるままにやる人の方が、好感を持たれ評価が高いのです。学校では、挨拶も校歌も声をそろえて間延びしてまで合わせるようにして育ってきたのです。正しくしなくてはいけないと無理を感じつつ従っているとき、感情も体も“仮死”状態にあるともいえるのです。
 それに従えない人が、自分を変えるのでなく、脳の病のせいにするのは否定できることではありません。それで救われる人もいます。うまくいかないのは自分の努力不足のせいではなく、脳の病のせいだと。しかし、現実は、医療関係者の利益と化し、社会に不利益をもたらしていると知ることです。
 自分を変えようが変えまいが、再び生まれ、生きることが必要なのです。

〇チェックと自主規制

 自分のものを内から出して、外からチェックします。トレーナーが外からチェックするなら、もっと自分のものを内から出してよいわけです。出しすぎても、できる限り許容します。ストップをかけない限りやってよいのです。「この程度」というくらいでは通用しません。
そのまま我を出すと周りに迷惑をかけたり摩擦が生じることもあります。すると、その結果、集団で生きにくくなります。
そこで守りとして外のチェックを入れる、つまり、空気を読むわけです。しかし、それを読み込みすぎると病気になりかねません。過敏で傷つきやすい、というより、傷つく前に自らを閉じ込めるからです。
我と個性は、能力として高めて両立させるしかないということになります。体質、素質が世の中、その国や環境に合わない人ほど苦しむのです。
 「心の命ずるままに行って矩を超えず」この孔子のことばは、アートの境地です。

〇脱力と因果関係

 「力が入っているから、そこの力を抜くように」と言うことがあります。首でも肩でも胸でも足でも、力を入れているところを抜くのに、その部分の問題ではないことが大半です。肩に力が入っていたらこっている。それをほぐしても本当の解決とはなりません。
緊張して力が入っているなら心の問題、あるいは、そうでない他のところに肩をこわばらせる原因があったのかもしれません。
声を出しているから肩や首に力が入るのなら、声を出さないように、となりかねません。体全体で感じるその場、人間の周り、その室内に、さらに過去のことを思い出したとか、時間をもみなくては、どういう因果関係があるかもつかめないこともあります。
部分でなく全体をみることは、もっとも大切なことです。そのつながりで障害が生じていることが多いのです。

〇「正しい」と「間違い」

 「正しい」姿勢、「正しい」呼吸、「正しい」発声の人がいて、ときどき、驚かされることがあります。その多くは、どこかでトレーナーに「正しく」習ってきた人たちです。「正しい」とこちらが感じてしまうのは、ふしぜんだからです。その人のしぜんに合っていない、人間や動物のしぜん体に反しているからです。
自己流の人は、そうはなりません。「間違った」姿勢、呼吸、発声になる方が多いです。多くは、「間違い」という前に、「達していない」、達していく方向へ進路をとれていないことを「間違った」というのですが。
どちらにしても、一度原点に戻す必要があります。これらは、そういう人たちを引き受けたトレーナーが行うべき第一のレッスンです。でも、そこでまた、同じことが繰り返されることも多いのです。

〇必要悪と目標

「正しい」の、どこがよくないのかというと、ふしぜんだからではありません。トレーニングのプロセスでは、誰もがふしぜんになります。型なども、そういう考えでのふしぜんを意図的に押しつけた上達プロセスです。ですから、「必要悪」と私は言っています。
問題は、それが正しいと思っていること、そして、「できた」「よくなった」と思うことです。できているとか、よくなっていると感じていることはよいでしょう。しかし、それだけでは、深くなっていかないし、しぜんになっていかないのです。
「正しい歌」になっても「魅力的な歌」になりません。「正しい」を目指しているからです。プロセスなのに、目的にしてしまっているからです。
「うまい」「よい」というのも同じです。「よい」歌は「よい」し、「うまい」歌は「うまい」、ただそれだけです。

〇データの限界と自己判断

 体重計の計量よりも自分で感じる重さの方が大切です。私は、測るのをやめました。体が軽いか重いかは、気分や疲労感でも変わるでしょう。
それに対し、数値は、その人の感じ方より客観的なデータです。ですから最初は参考にするとよいでしょう。自分の感覚を客観的に正せます。
しかし、絶対的な観点からいうと、それは正確であっても真実ではありません。感覚を磨いていくと、感じ方からメンタル的要因を差し引いて、数値以上に自分に合ったという正しさで出せるようになります。それは、何㎏ならよいという程度のものではありません。今日ならこれでいい、体が重い、軽いといった自らの感じ方に反応したものです。そうであってこそ使えるのです。自分に使えるようになることが大切です。
 歌うのに必要なのは、「正しい姿勢」や「正しい呼吸」ではなく、「歌える姿勢」や「歌える呼吸」です。喉仏や舌の正しい位置とか正しい形を学ぶことは、大して必要ないと思います。しかし、学びたいなら、そういう意味で知っておくのはよいでしょう。

〇感覚のマップ

歌うときの喉仏や舌は、決して写真や図面の解剖図のようなものではありません。解剖マップでなく感覚のマップを自らつくっていくのです。それはとても面倒で難しいことです。
その基本として解剖図があるのではありません。そこに囚われる限り、正しい情報はマイナス情報でしかないのです。形や構えは、初心者の偏向した思い込みを是正するのに便利なだけです。
たとえば、「緊張した気をつけのような姿勢」で何ができるのでしょうか。軍隊式の行進がやりたいのでしょうか。あの行進では戦えません。寝て暮らすよりは、戦いに有利に正されているのです。
舞台では、誰しも緊張するものですが、緊張した姿勢が悪いのではないのです。硬く固まって不自由でふしぜんにみえるからよくないのです。それで動きにくいというのなら、動きやすくすることでしょう。

〇自由と慢心

 自由に動けるために全てがあるのです。自ら自由を手放すと学べなくなるのです。学んでも、よくないことを学び、学ぶべきことを学べなくしていくのです。
 「―するな」「―してはいけない」「―すべき」という禁制や制限に固められたレッスンのすべてが悪いとは思いません。ただ、それは、かなり限定された目的のために限られるのです。何かしら克服することを優先される課題があり、それに早急に対処する必要があるなら、大きなハンディが伴っても、やむを得ないときもあります。
「自分が思ったり感じたりするのが正しく、トレーナーの言うことが正しくない」と思う人もいます。自分の考えや感覚を信じるというわけです。しかし、その自分自身が頭で、自分の体と感覚を否定していることがほとんどです。深く探れないからです。それではよくないのです。そのままでは学べないからです。
これは、最初よりも、1,2年して少しわかってきたと思うころに、よく犯す誤りです。トレーナーや周りに褒められて慢心してくるからです。
とはいえ、最初は間違っても大した害になりません。少し伸びたあと、伸び悩んだときに起きやすいのです。そのときに本を読んだり他の人の話で理屈に納得してしまうと、偏向が重症化しかねません。まだまだ頭でっかちなのです。

〇最高への疑問、「ベター」の声

 「『こうすればうまくできるようになる』程度で通じるようになるほど甘くはない」と思わないところでは、感性も経験も足らないのです。そこは考え方、感じ方から変えていくしかありません。
 再現性は、応用力のための基礎ですが、基礎にすぎません。繰り返しで再現の質、パーセンテージを高めるのは、あくまで初心者のときです。10回のうちの最高の1回を、やがて、10回とも同じようにできるようにするには、そういう考えも使えます。
しかし、それを私は「ベター」といって「ベスト」とは、区別してきました。この「ベター」は、今のレベルの「ベスト」の力なのか、疑うことです。
私は、いつも本当の「ベスト」につながる「ベター」なのかを見極めようとしています。そこが私のレッスン価値で、それが私のレッスンのすべてだと思っています。

〇最高のステップと「ベスト」の声

初心者のレベルでの最高の1回が確実に再現できたところで、その1回は大したレベルでないからです。そこで、次の10回のなかの最高の1回を目指す、それを、「次元を上げていく」といっています。
問題は、どこまで本当に最高を選べるのかということです。
もしかして最初の最高の1回の選び方から間違っていなかったか、そういうこともあります。
しかも、本来は、選ぶのでなく、何も見本のないところで追及して創造していくことになります。見本があるのは、選択できるのは、レベルが低いのです。声や歌に関しては、そこに至るには、相当ハイレベルなことになります。
自主トレの多くの人は、声に関しては早々に迷うことが多いです。
目的により、ケースにより、「ベター」は大きく異なります。ですから、ぶれない「最高」を求めるようにするのです。声も同じですが、既存の世界では、この「ベスト」自体が異なることもあります。声は作品ではなく、ツールとして扱われているからです。
何よりも、個別には必ず異なるのです。その異なることも見たうえで、選べる人はどのくらいいるのでしょうか。ましてや、創造となると…。

〇準備~ショートカット

 手順や準備の手間暇かけずと、自動的にシステマティックにこなしていく、これを「ショートカット」と私は言っています。
研究所でも、レッスン教材、マニュアルとプログラム化を半分のところまでしています。この効率化は両刃の剣です。くり返して力がついていくのでなく、それだけの空回りというのを、本人がわからなくなることが多いからです。
 世に通じているか、どんどん通じていくようになるかも目安です。会社が売り上げてなんぼというようにみれば、です。

〇暗黙知

世とは人間です。周りの人間にか、一流の人間にか、というのも一つの指標です。
 頭でわかったつもりでは実践できないことを、体のこと、声のことは、わからせてくれます。わかったつもり、できたつもりでいると、その先はないわけです。
 私がよく使う、「異次元」というのは、未知の世界です。上の次元のことは、下の次元にいてはみえないということです。
鍛えるのは一つの条件です。それは、体だけでなく、むしろ、感覚であることを忘れてはなりません。どこかから鋭くなれなくなる=鈍くなるから課題を見失ってしまう。目的を見失うから、間違ってセッティングするから、鈍くなるといえます。

〇鈍さ

 強い声を鈍い感覚で、力づくで出せば、いずれ喉はつぶれます。無理が生じて重なっていくからです。無理とは、声でいうと、より高く大きく長くということです。
困ったのは、こういうプロセスを経た人が、自分は「できた」とか「効果が上がった」などと言うようになったからです。それを真に受ける人が出てきたからです。
 何事も、しぜんとよしとします。それは柔軟で合理的、機能的、美的、無意識、全体的なのです。
 この逆の観念、部分的、意識的、ふしぜんなどは、おかしいと述べてきました。トレーニングは、目的のために、このプロセスをわざととることが多いです。
声は、体や喉、感覚が警告してくれます。そのメッセージが読み取れないほど鈍くなるのは、レベルが上がるごとに、当然、求められることが厳しくなるからです。あるいは、ハードな状況に追い込まれたからです。

〇しぜんと補助トレーニング

何事も、しぜんに日常生活でできていくのが理想ですが、それには条件があります。
しぜんというのは幅広いので、その中でもハイグレードなレベルでしぜんとこなす生活でなければならないといえます。
つまり、理想的な環境、習慣があるのかということです。
そうでないと時間がすごくかかるか、あるところまでしかレベルが上がりません。
そこを補うのがトレーニングです。トレーニングは主体でなく日常の補助です。☆
目的を高くした場合の補助が、トレーニングなのです。

〇天与の声

 心身統一のパワーで、私は、真の感覚を2度確信したことがあります。その前では、私ごときの実感はまやかしでした。
トレーニングして強化してできた声などは、仕事のための確実で再現性に耐える声にすぎません。芸術性に欠けています。自分がコントロールできる程度のものなのです。
しかし、私の仕事には、これが必要です。見本や手本としてでなく、説明したり手順を伝えたりプロセスをみせる声として、です。
三昧、ゾーン、次元が違っていることには、因果関係がないと思います。私は、歌の声として経験しましたが、一流の歌手は、歌で何度も体験しているものと思います。
 自分の力は10出しても1~9しか働かないものです。自分の力が10で20が働くと、才能ともいえましょう。天才に近づく一歩です。本当の天才は、10で100とか1000とか、あるいは、無限に働くのだと思うのです。

〇基本と目的

 最初は、基本など、なかったことでしょう。
ただ一流を聞く(入れる)、コピーする(出す)、変ずる、それだけです。
この前の2つの比率が、最初は9:1~7:3だったものが、5,6年経って3:7~1:9の割合になっていくのでしょう。
 最初は10のうち9の自分を殺し、後には10のうち1の自分を活かすわけです。
 呼吸法や発声法というような基本は、なかったのです。場と雰囲気と一流の作品、あと、仲間というか、そこにいる人物から学ぶということです。
自立的、自主的に学ぶ、本人がそうなるまで余計な手伝いをトレーナーはしてはなりません。トレーナーは邪魔しないことです。
誰もが同じ声で同じように歌えるようになる、というのは、目的そのものがおかしいでしょう。

〇生き残る

 「あのときのあれ」では、もう古いのです。その場の状況で、あなたを出さなくてはなりません。
 なぜ、歌が古びたのか、新鮮でなくなったのかは、そのためでしょう。まして元々、まねていた二流のものは、古くなって当たり前です。まねた時点で古いのです。
 世の中も現実も変わるからこそ、そこで変わらないもの、生き残ってきたもの、継承されてきたものに価値があります。そこに学ぶのです。
 バランスは、とろうとしなくてもとってしまうものです。実感、力感をあまりあてにしないことです。頭でおぼえているものは、再現しても古いし通じません。執着しないことです。

「こうすればうまくいくと考えないこと」
「こうしなくてはならないと考えないこと」
「これでいいとは考えないこと」

〇自由とでたらめ

 でたらめになるのは、真の基本が入っていないからです。基本が深まっていない、まだ鈍いか、心身が伴っていないかです。
1.自分で自由に
2.音楽で自由に
を徹底すると、それなりに決まってくるものです。
なぜなら、ほとんど両立しないからです。自分と音楽は、たやすく一致しません。
役者なら、役と自分の一致でしょうか。
 「制限があるから自由がある」と言われます。その制限が厳しいと定まりやすいので、実力はそういうところでつけるとよいのです。音楽も役柄も制限というものです。

〇捨てる

一流は、自分や作品にとことん厳しいので一つに決まっていくのです。
 アマチュアは、自分の作品のどれも捨てがたく、選べないのです。時間や精力をかけたものや周りが評価するものを捨てられません。つまり、ハイレベルの制限で観る目がないのです。
 現場では、再現などできないものが多数です。美空ひばりの「悲しい酒」のせりふも歌も再現などでないでしょう。演技とは、嘘であっても、演技でも嘘でもないリアリティがあり、そこで伝わるのです。両方とろうでなく、両方、いや、全てを捨て切ったとき、成立するのです。

〇評価と状況

 評価を当てにすると、心身とも自由になりません。みてもらうとかみせたいとか、力んでもリラックスしても、それではなんともなりません。
 トレーナーは、評価する立場になってはいけないし、本人もそこで駆け引きしてはよくないのです。レッスンの場に、そういう二人は、ともにいてはならないのです。
 私は、できるだけいないように努めます。すでにそこにいるのですから、それを主張する必要はありません。その人のレッスンであって、私のPRの場ではないのです。
いるだけで、一人の自主トレーニングとは違うのです。何が伝わるのか―そこを一方的に真剣に聞いてあげてはなりません。自身で確立し他に依存しないこと、それは、ここでは、私に伝わるように本人がどうするかから始まるのです。
「聞いてあげる」ではなく、「聞かせる」「伝える」、さらに「伝わる」「聞かざるをえなくなっている」、そういう状況が起こりえなくては何も生じないのです。

〇全力の罠

 「戦争になれば逃げる」と、文化人が言っていたことを思い出します。逃げられるような、逃してくれるような甘い戦争がどこにあるのでしょう。
降参したら平和になったというのは、第二次世界大戦後、日本の表面だけでの教訓です。捕えられたら前線の歩兵として死地に送られることもあるでしょう。仲間を殺させることもあるでしょう。

 生命の危機を経験しにくくなった日本人は、頭のイメージと実際の現実とのギャップに気づかなくなりつつあることに気づきません。
 動くことと動けることは違います。100%全力となると伸びしろがない、その結果、見切られます。客が飽きるのです。
全力とは、全ての力を出してはできないのです。バランスがとれるところまでの力で出す。ということは、余力の分が必要です。そこをトレーニングで補って、つけておくのです。
カラオケ名人は、プロの形を100%まねしようとしますが、70%の力でまねられないと、土台、勝負になりません。

〇自己否定

 トレーニングでは、バランスを見失うものです。そこから再発見、再構築していくのです。自己否定とは、この見失うことをいいます。自分を活かすとは、発見して活き活きとなることです。これまでの動きを肯定していては動きません。一度、止める、そこでこれまでを否定してこそ、新たな動きが出るのです。
その中に活かせるものを見つけ、とり出します。トレーナーの言うことは、自己否定のために聞く、また、自己否定のために聞かないようにしましょう。自己否定のためだけなら、聞かないようにしなくてはならないともいえます。
 否定してくれるトレーナーは、今や希少で貴重ですが、何に基づいて否定しているかによっては悪いこともあります。
 ただ動く、ただ声を出す、ただ歌う、ただ自分である、ありのままに、体も呼吸も声も使うなら、とてもよいことです。合理的です。それを妨げないことです。
頭=観念=偏見となる自分の判断は、本当の自分の判断ではないのです。
判断も実感も、正しくもよいことでもないことが多いのです。考えるのは、ことばで一つのことを分けていくからです。常に迷い、悩み、乗り越えていくのです。

〇若いときに

 心と体と生活、行動パターンのバランス、環境を変えることで、よくなることは多いです。エネルギーが無駄、無理に回されてしまっているのは、若いときの特権です。
だからこそ、量をこなすことを勧めます。失うものがないうえ、回復力があるからです。合っていないこと、できないことにもチャレンジしていくことで、いつか器を合わせられたり組み合わせたりできるようになるのです。が、具合まで悪くしてはよくありません。
 体質や性格が合うのかも大切です。しかし、それも経験からわかってくるものですから、若いうちになんでも試みることがよいでしょう。

〇丹田と呼吸

 「丹田に力を」と言いますが、腹に力が入らなくなることがあります。その上の方が固まってしまうのです。そこから体が固くなり、腰、肩や腕、首、頭まで痛くなる人もいます。過換気症候群になったり、動悸、めまいを感じることもあります。
鈍感なのでなく、過敏で真面目な人に多いようです。解放が必要です。

〇依存と場

 そこにいるだけでよい、これがゼロ、何か価値あることを創ろうと、“Be Artist”と言ってきました。これも、いつもプラスに出るとは限りません。
我欲でもあるし、他へ働きかける分、他に依存しているわけです。人の目、評価を気にし過ぎてしまうこともあるのです。
ゼロは、マイナスよりもよいともいえます。何もないゼロというより、動きを待っているゼロであれば、です。
いることで場が生じます。2人でいたら、場に流れができます。
 エネルギーは、溜まりすぎるとストレスや緊張にもなります。それを発散させるのです。声は、その有力なツールとなります。
その方向を間違えてしまうと悪くなることもしばしばあります。頭痛やうつにもなります。疲れてだるくもなります。
よい循環を心がけることです。
目的があると顔つきが変わります。それは、方向が見えるからです。

〇幼児化と老人化

 めんどうなことは、いっぱいあります。
前屈が苦手になったら、腰椎3番が固くなっている、これは、老けているのと同じです。
 幼児化は過敏になり反応しすぎます。老人化は鈍くなり反応しなくなります。どちらもよくはないのです。考え方、意識、感受性まで硬くなるからです。過敏であると元気になり興奮しやすいのですが、あたふた振り回されがちです。

〇寛容と実感評価

感じ方は、人によって違うのですから、そこが寛容になるとうまくいくのです。よし悪しより、おもしろさでみることです。
がんばりすぎている状態で感じる実感は、狂いがちです。力を入れていることでの実感の評価を美化しないことです。
一時、執着しているのもよいですが、そうできる対象がみつかりにくい時代とはいえましょう。認識の問題もあります。共鳴すると活力が得られるものです。

〇読みとセンス

声はしぜんと出るものです。しかし、声をつかみ、絞り込まないと扱えません。
「心が体を抑えていませんか」
「ギャップをジャンプで超えましょう」
歌ってみないとわからないから歌ってみて、重ねていくのです。動きを出していくのです。雑さをていねいにしていきます。

〇MaxとMinimum

 トレーニングはマックスに、表現は効果をマックスにするために、できるだけミニマムにしていくものといえます。
曲の解釈から創造のための再生を目指しましょう。
 
〇イメージ

 イメージから自分の声に合わせたキーとテンポを決定していきます。
テヌート、声で動かして線を描く、そこに音、ことばをおいていきます。
メロディ、リズム、ことばの処理です。それを息=呼吸で支えるわけです。

〇声が教えてくれる

 わからないのが当たり前で、わかってできるというものではないのです。わかるくらいのものでは、間違っているとはいいませんが、そんな程度なのです。
一方、わからないうちに、できないものではないともいえます。考えていることの延長上にないのです。あくまで考えたことは仮定です。
ことばは、インデックスというか補助線のようなものになればよいですが、それをそのままに捉えると、次にいけなくなります。本体のないところに支えをもつことはできません。わかるとしたら、おかしいと思っておけばよいのです。

〇体の状態と感じ方

 人それぞれなので、出している声と、その人との自覚とを捉えていくようにしています。鋭いとか鈍いとかいうこともありますが、どちらがよいかも難しいところです。
 常にプロセスなのです。「ゆく川の流れ絶えずして…」の境地でしょうか。
ですから、治療するというマイナス→ゼロのことでなく、創造するというプラス、美的な感覚にまでもっていくこと、そこで芸術なのです。しぜんであり、本来の人間性回復ともいえるわけです。
スポーツの技術の向上にも似ていますが、一流のアスリートは技術だけではないのです。モチベーションとパワー、人が接するだけで元気になる力を宿しているのです。

〇体の学習能力

 一日の体や心の動きを追ってみましょう。じっとしていると固まっていくので動くでしょう。反射的にバランスをとろうとします。これは、頭で考えているのではなく、体が行っているのです。寝返りなどは考えてやるわけではないのです。
 ヴォイトレを楽しんでやっているなら、しぜんと呼吸は深くなります。しかし、レッスンなどで緊張したり頭で考えていると浅くなってしまうのです。
そこで自主的な練習が必要、それを楽しんで行うことで結果として効率よく習得していけるのです。楽しいことは生きるのに有利ですから、自ずと取り込んでしまうのです。

〇収めていく

 理想モデルに近づけるか、その人のままにしておくのか、迷ったときは様子をみます。間違いを正すのではなく、正されていく、いえ、あるべきところへ収まっていくというのが、無理のない言い方かもしれません。
トレーナーが全てをやってあげようとするのは、違います。
途中までとか途中からとか、トレーナー一人では、すべて完結してやらない方がよいと思うのです。本人に任せていくことができるようにするために、他のトレーナーや専門家の手も借りた方がよいと思うのです。

〇場の気

 これまで、才能が共鳴し合って複数、同じ時期に開花するのを見てきました。時代や背景があってのものです。一人のキーマンがいて、他を呼び込みまとめあげるときと、集団のなかから誰かが立ち上がってくるときがあるようです。とにかく、場があり、あるいは、場ができていくのです。
ここもいろんな人物が出たのか、来たのか、育ったのか。まだまだわかりませんが、そういう点では、とても恵まれてきた場と思います。
運のよい人が集まると、そうでない人は出ていく、また、来る人に運が向いてくる、運のよい人が来る。これは、私の意志や方針と関係なく起きているのでしょう。
 そういう状態を守ることは、とても大切です。
たとえば、部屋の窓を開けて気を通すとか。体がよく鳴るようにしているのですから当たり前のことですね。

〇声のあたり

 おでこから胸の真ん中(胸骨)、みぞおち、足裏、つぼでいうと膻中(だんちゅう)、湧泉のあたりです。そこに声の中心線を描きます。

力が入っていないとできているのは、力が伝わっているからです。膝を緩めることで下腹に力が入ります。すると伝わるのです。足裏呼吸という感じ方をお勧めします。
女性はクーラーを寒いと感じるが、男性は感じないといいます。それほど硬くなっているともいえます。硬いのはよくないのです。

〇長い呼吸と深い呼吸

 よい声というとわからない人に「深い声」、よい呼吸でわからない人に「深い呼吸」というのをイメージしてもらいます。余計にわからないとしても、それでよいのです。
たとえば、よい話というのは何となくいろいろありそうですが、深い話となると、なかなか大変でしょう。一度、これまでに制限のかかっている意識を解放するのです。
息や声が深いと、長くできないと続かないというのなら、続くところでブレスということでよいのです。長さはトレーニングの成果としてわかりやすい目安ですが、要は質なのです。長くブレスせず続くとか、せりふやひびきが続けばよいということではありません。でも、そこから始めるのはかまいません。

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