論50.実力をあるレベルから向上させるために

○自説へのこだわり

自説を変えたり引き下げることは、とても難しいです。普通は簡単に相手の意見に合わせることもできません。自説とは、他と合わないと他を否定してしまうから、自説なのですから。
 こうして、手段にすぎないはずの議論が、そこで勝つことや、相手を論破するという目的にまわっていくのをよくみます。
それどころか、議論や批判さえ起きずにスルーされ、決まってしまうことが多いのが日本です。
 もちろん、欧米のように激しい議論のやり取りがみられても、結論は、うやむやか平凡なものということも、よくあります。どちらにしても本質をそらしては意味がありません。

○他人の説を自説とする

 誰かに教えられたり本を読んだりして、その説をそのまま持ってこられる人には困るのです。自分のものとしていないから、それで論議するにも、少し深めると、応じられなくなるからです。でも、そこに時間やお金をかけてきた人は、それにしがみついて距離をとれないのです。
「○○の本には、こう書いてある」とか「○○先生は、こう言っている」とかいう人には、それ以上突っ込めません。せめて、「だから、私はどう考えるのか、どうなのか」を加えなくては「だから?」「それで?」で終わってしまうでしょう。仮にそうした他人の説で、相手を論破できたとしても何にもならないでしょう。

○一つの世界観に囚われない

まして、そうした説でうまくいっていないから、ここにいらしたというなら、それが「わからない」からスタートするのではなく、「一度、それを捨てたら」と思うのです。
その説でもっと学んで深めたいなら、その当人にとことん聞いて教わり、ものにすることでしょう。

○専門家の専門とあなたの問題は違う

なかには、それがその人の説ではなく、世界の真理と疑わないで、それでなぜうまくいかないのかと聞きに来る人もいます。そういう世界があるというのと、そういう世界の考えがあなたに当てはまるかは、別問題です。

〇専門家の訂正

健康に関しての医学会の専門家などの説は、今回の新型コロナウイルスでも馬脚を現したように思います。天気予報で「雨」と言っておく方が、万一の時に弁解しなくて済むという方式のようにさえみえます。しかし、予報官は、曇りを大嵐とまでは外しません。
特に悪いところは、訂正しないところです。外れたときに、予測した根拠がどう崩れたのか、新たにどうなったかを提示すること、それが無理なら、少なくとも、撤回すると言うべきでしょう。
 私は、何度も、補っていくということを続けています。最初の一冊を世に問うたときから改訂を止めていません。
真理が変わるのではなくとも、世の中が変われば求められるものや表現も変わるものだからです。

○議論の意味

 本来、議論は、相手のよいところを組み入れ、自分のものを相手をよくするために与えて、(あるいは、捨ててで)関わり合う前よりも、よりよく深めるために行うものです。
 議論といっても、コミュニケーションですから、相手を説得したり納得させるのが目的ではなく、こちらが説得されることも恐れず、自論を崩すこともよしとして、自分が変わろうとするために取り組む姿勢をもって臨むことです。

○抜ける

 研究所では、トレーナーが、そこまで考えたスタンスにいるのに、学ぶ人が頑固に自分の考えから抜けられない例をみることがあります。
私などは、学ぶと決めた相手なら、自分を無にはできないまでも全否定して、180度変わるつもりで挑みます。白紙にして、まずは受け入れてみるのです。
どうせ油断するとすぐに元に戻ってしまうのですから、「変わるため」と目的を絞り込めばよいのです。そのままでよければ一人でくり返していたらよいのです。
変わらないでそのままでよいというのでは嫌だから変わろうとする、それは、ハイレベルへ歩むためでしょう。

○止揚する

異なったり矛盾が出たりするのは、今のレベルだからです。ハイレベルになるにつれ、少なくとも、方向は一致してくるものです。これまでもくり返し述べてきましたが、今の次元での矛盾が一つ上の次元では統一され、解消されるからです。
 対立するのは、次元が低いのであり、一つ上では統一されます。しかし、また、それが次にくり返されていくのです。
ですから、どちらがよいではなく、どちらもできればよい、それで選べばよいとなります。さらに、どちらもだけではなく、その間もその先も、できたらよいのです。
そのために、違う考え、違う判断、違う方法を取り入れてみることが重要なのです。

○恐れない

そうすると、自分がなくなるように思う人もいますが、それが嫌なら、なくさないで今のレベルにしがみついていればよいのです。そこで満足がいかないなら、自分を手離すことです。
それでなくなるなら、それだけのものにすぎないでしょう。ちゃんとしたものなら最後まで残っているものです。手離そうにも離れないのが、個性です。
ただ、プロセスでは、それがみえなくなったり異なったりすることもあります。「それを恐れるな!」ということです。

○リピートで終わるヴォイトレ

 日本のプロ歌手などでは、デビューで普通の人より高いレベルになっていたら、それで得た知名度と同じレベルでのリピートだけで、生涯、活動している人がほとんどのように思えます。
歌い手は、曲がヒットすればよいと思われているからです。そのため、レベルの向上ではなく、レベルの維持にヴォイトレが使われているのです。こうして、ヴォイトレがマッサージや整体レベルで使われているのは、残念なことです。

○糖質制限も個人差

 たとえば、糖質制限も、筋肉のつきやすいタイプでは、筋肉量が増え体重も増加します。それが合わない人もいるのです。日頃、糖質を摂り過ぎている人は、すぐ痩せるでしょうし、ほとんど摂らない人は変わらないどころか危険であることは、考えるまでもありません。人によって異なるダイエット法が必要です。
糖質制限によって、他のものはいくら食べても大丈夫と言われてもいますが、普通は、何であろうと、「いくら食べても大丈夫」はありません。
 たっぷり糖質が入っていてカロリーも多いのに、いくら食べても太らない、太れない人もいます。それは、華奢な体格の大食い女子などでみているはずです。
「何割の人に効果があった」というデータや「私はこうして痩せた」という体験談がいくらあっても人によるのです。要はあなたに当てはまるかどうかなのです。

○エビデンスは一般的に通じるくらいのもの

 エビデンスは、帰納的に多くのデータからほぼ正しいと導いただけのもので、絶対正しいわけではありません。臨床試験を採用するEBM(Evidence Based Medicine)でさえ、エビデンス=根拠は、一般的というところまでのことがほとんどです。
 「他人に通じることでも必ずしも自分には通じない」のです。つまり、安易に「他人のデータを信じるな」ということです。

○統計の嘘

 とはいえ、統計ですから、証明できなくても推測には役立ちます。100人のうち90人に効く薬なら、「多分、自分にも効く」ということです。しかし、10人に1人は死ぬとなると、その個別性をどう判断するのかとなります。
「自分に合うのか」「どうしたら合うのか」であって、「合わせたらよい」というわけにはいかないのです。このように、「よくわからないこともある」ということを知ることが大切です。

○一つだけで他を否定しない

 「何が自分によいのか」は、一概に決められません。時間をかけることでしか変わらないことやわからないこともあります。
長期的な視点でみたときに、一時的な偏りやアンバランスに厳格でなくてはならないとは限りません。むしろ、幅をとって緩めた方がプラスになることがあります。だからといって、厳格にみることがいけないということではありません。
 目的や方向性もさることながら、個人によっても異なるからです。となると、ハードさより楽しさや、今できるだけのことを最優先する判断も許されます。また、その逆もありといえるのです。一つの説で他の説を全て否定してしまわないことです。

○多様多角的にアプローチする

 表現の追及には、孤独に突き詰めてコツコツとやる時間が必要と思います。しかし、まわりの人たちとワイワイやるなかで気づくことも少なくないのです。
その分野の専門家に教えられること以上に、普通の人や他の専門家に学べることもたくさんあります。
また、外部での刺激は、思わぬテンション、集中力をもたらすなど、よい効果をもたらすものです。

○専門職の盲点

 専門職というのは、必ずワクがあります。それが定まらないと研究ができません。
 論文ならテーマです。これは、一定期間に研究できるものと限られます。そのため、すでにわかっていることだけでなく、死ぬまでかかってもわかりようのないものことも弾かれます。結果として、どれもけっこう重箱の隅をつつくようなものになりがちです。
なんせ、読む人が評価できないと論文として認められないからです。ワクの中の世界が学会や○○界といったところでの全てだから、おのずと井の中の蛙となる体質なのです。
ですから、本当の研究所は、そのワクに外でこだわり抜くのです。

○第一線に立つ

 最先端に立つと、その先は未知ですから誰もわからないのです。ですから、わかっていないことや人に説明できないことがほとんどになります。
多くの質問には、私は、自分の後ろを振り返り、来た道を振り返って戻って答えています。
くり返し、同じことを違う人に言うのでは進歩がないので、トレーナーを頼んだりQ&Aのデータベースをオープンにしています。
 でも、本当に大切な問いは、あなたの未来の未知なる問いです。

○再編集プラス創造

 真のことを知りたいので研究するのであって、過去の業績の編集をやっていたら、それで生涯が終わってしまいます。しかし、それを新たに再編集することは、研究をフロンティアに向かって出していく前提ともなるので、他の人の業績も無視できません。新しいことは、何事も、前人の肩の上に乗ることろから始まるからです。

○2つのパターン

 これまでの他の人の業績を編集だけして教えている人、自分独自の思い込みだけで教えている人にたくさん会いました。この2つのパターンは、共に、クリエイティブな分野では理想的ではありません。
しかし、教えるとなると、自分が教えられたことを他人に教えるだけになることが多いのが日本です。クローンはいくら増えてもクローンですが、突然変異を生み出すこともあります。そのかけあわせをどこかで起こすにも、その分野のキープ力として、こういう人々が必要だと思います

○独自の価値

「自分で思いついたことなどは、人に教えてはいけない」などと思っている人が少なくないようです。それは確かなことですが、多くの人は、価値という面で気づいていないのです。少なくとも、先人の過去の業績と今の自分の考えとの二つを整合させて示さなくては、独自の価値あるものとはなりません。
独自のものを教えるのではなく、独自のもののつくり方を伝えるのです。論ではなく、論のつくり方を伝えることです。

○研究の実践とレッスン

 私は、自分の考えを公にして実践を伴わせてから、そこでの批判を求めてきました。常にアンケートやレポートでフィードバックしています。
研究所もまた、トレーナー各々の研究と実践の場です。しっかりと学びたい人が来ると、異なる意見や見解のオンパレードです。
たとえば、「同問異答」として、同じ質問に各トレーナーがそれぞれに自由に答えたものを、そのままブログに載せて、公開しています。
そうしたなかでは、相手によってどの答えがよいのかが決まっていきます。

○並べる

一般的な質問には、トレーナーらの出した答えを並べておくだけです。私が取捨選択はせず、よし悪しを示しません。(たまに明らかに誤解される表現があれば、文章として直すことはあります。)
文章や用語が正しい―というのは、片方しかみていないのです。一見、おかしなアドバイスでさえ、ある状況のある人のある問題に対しては、それがもっとも有効となるかもしれないのです。
並べてある答えを参考に、自らも考え、組み合わせ、取捨して独自のものを創りあげていくのが勉強です。研究所としては、そうした学びを知る可能性を摘まないことに留意しています。

○編集での操作

 情報をそのまま発信してしまうことでセンセーショナルに事実と異なるニュアンスで広まることは少なくありません。マスメディアが自主規制の名のもと、検閲して言葉狩りのようになることもあります。差別語や誤字脱字を直す以上に、わかりやすく伝わるように文章を変えることで、伝えようとしていることが変わってしまうケースもあります。

○「イメージ言語」優先のスタンス

このあたりは、いつも「イメージ言語」ということばで問題提起をしています。
文章として、本意をどのくらい汲み取るのかは、受け手の力によります。マスメディアはマスであるほど、わかりやすい文章にするので、その分、伝わらなくなるのです。
私が、トレーナーの文章を省略はしても、それ以外の編集をしないのは、そのためです。知識や専門用語での言葉狩りも避けたいものです。
研究所のクライアントの誰かに強く伝わるなら、マスメディアの人がみて、おかしいというものでもよいというスタンスで編纂しています。

○帰納性、一般的、平均的

 声楽の発声法や練習法を否定する人は、少なくありません。そう思ってやらずに否定する人よりも、やってみて否定する人の方がよいのは確かのように思えます。邦楽もまた、その教え方が偏向しがちです。
確かに、それらは万能でも万全でもありません。しかし、一つの叩き台としては、他のものよりも扱いやすいでしょう。なんせ、歴史と実績があるのですから否定できないでしょう。
まさに西洋医学と同じく、これまでの他人の一般化したデータを帰納的に、新たに今の若い人に使うわけです。
問題は、一個人にどう当てはまるのか、適合するのかということです。これは、輸血の血液型よりもずっと複雑です。一般的、平均的に当てはまる、から先には、なかなか進めないのです。

○考えずにやること

しかも、声楽といっても一人の人の一つのやり方ではないからです。自分が学んだ先生のやり方をもって「声楽とは」とも言えないのです。どれも完全によい方法でも、全くダメな方法でもないのです。
医学や薬の実験は、対象が動物などであれば、人間にそのまま当てはめられないことも多いでしょう。人間でも、民族や年齢、性差などで一人ひとり異なります。
新型コロナウイルスの感染では、アジアの人は比較的、重症化しにくいようです。臨床での試験がいくら行われても、その結果は、あなたに当てはまるとは限らないのです。あくまでも参考です。

○白黒つけないこと

 そもそも、どちらが正しいかという二極の選択、そして、判断の方法が使える、使えないという2つに分けた線引き自体ができないものです。逆に言うと、どれも絶対に効果があるとは言えませんが、やってみたら効果がないということもない。それなら、やってみればよいといえましょう。

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