論45.バーチャル化していく世界をリアルに生き抜くために

○対応の仕方

 皆がうまくいくとは限りません。どんな競技でもチャンピオンは一人で、それ以外は皆、敗北を味わいます。
a.求められることに対応する
b.求められることに対応できない
c.求められることに対応しない、気にかけない
 求められることに対しても、こうしたスタンスがあります。
アダルトチルドレンは、aのパターンに当てはまるようです。bのなかには、やめたり引きこもったりする人が多いでしょう。cは、悪い方向に突っ走ると、アウトローになりかねません。
他の人がいてこそ、自らが存在し認められることをよく考えてみましょう。

○自信、尊厳、価値と修行

 いろんな経験を積んで、どんな新たな局面でも「大丈夫」と自信がもてるようになることが大切だといえます。
自らの価値に尊厳をもつには、修行あるのみです。自分の尊厳は、他の人の自分への対し方などでもわかってくるでしょう。しかし、それにあまり委ねないことです。

○リアルとバーチャル

 現実よりもバーチャルの方が楽しい、いや、楽しくなくとも楽なのかもしれません。「昭和の頃はよかった」と、その映画を楽しむなら、すでにそれはバーチャルです。
 年配の人の若い頃へのノスタルジーは、今の若い人には、バーチャルの世界です。昔あったことを初めて知って、新鮮でおもしろかったりします。まさにゲーム化しているわけです。
現実は、常に生身の体とともにありますが、ゲームはバーチャルです。
なのに、バーチャルで知った後、現実を生きていることの方が多くなりつつあるともいえます。
懐メロ歌手を誰かのものまねで知り、その後、ご本人を知ったり、TVで観光地を知って、その後、そこへ行くというようなことです。

○仕事、生活、遊び

 生身の体であれば、何が違うのでしょう。
「ゲームはお金を使い、仕事はお金を稼ぐ」というなら、ゲームだけを永遠に続けられません。衣食住と、生活しなくてはいけないから、お金も必要です。仕事をして稼ぎます。(この場合のゲームは、バーチャルということで、その延長に稼げるプロのゲーマーなどを想定しているのではありません。)
かつてのように、「仕事の金で食べて生活して、その余暇で遊ぶ」というのは、とてもわかりやすかったわけです。こうした制度は、よりよい子孫を残すという生物の本能に則って定められてきたと思われます。

○つながる

何であれ、今、ここにいるのは、子孫を残してきた人々の社会の結果で、私もあなたもいるのです。そうでない社会も、あったかもしれませんが、それらはすべて滅びていったのです。
子供を産み育てるというのは、社会全体としての問題です。民族なのか国なのか村なのかはともかく、人間の種として、全体として繋がればよいことでした。これも人類が滅亡してもよいというのなら、考えることはないと思うのです。

○オタクの一般化

 ここから、ゲームというのは、ゲームそのもののことを指します。オタクが増えだした頃は、遊び相手がいないからゲームにハマっていたように思っていましたが、ゲームが優先され、価値を認められてくると、何となくまわりに見下されているというコンプレックスもなくなってきたのでしょう。数はものを言います。
男女ともに「自分に合ったゲームのキャラのような相手がいれば付き合ってやるけど」のような感じになってきたようで、「それは、どうも…」と思うのです。

○過剰評価

世代人口の多い競争社会では、早々に自分の能力のなさを突き付けられます。そこで、分相応の生き方で妥協して満足するようにもなります。しかし、そういう経験が少ないと、自己を過剰に評価してしまうものです。
たかだか記憶力くらいで競争社会を勝ち抜いて、自己に万能感をもった過去の日本のエリートよりも、彼らはめでたくも厄介かもしれません。

○通過儀式

 現実社会に入ることは、昔でいえば、大人の社会へ入ること、それに対しての儀式がなくなったわけです。
団塊の世代が、長い髪を切ってリクルートスーツを着て就活した侘しさ、割り切り、つまり、挫折がないのです。
 社会の束縛がゆるくなると、親密な関係をつくったり、それを長く続けたりするのが難しくなるのです。
競争社会で痛めつけられた経験がないと、そういう人たちよりも打たれ弱くなります。そういう人からみると、仕事や恋愛にも臆病になりやすいし、冷めやすくなるでしょう。

○リアルの難しさ

 人生がゲームと違うのは、時間のめどがつかないこと、結果が明瞭にみえないこと、そして、努力が必ずしも報われないことです。そこに大きな格差ができたものの、それをあまり大きく感じないようにして、私たちは、幸せを感じてきたのです。
両親がそろわないとか愛し合っているようにみえないという環境で育ってくると、結婚や家庭に「夢をもて」といっても難しいでしょう。夢はもてても、実感を得て現実化しにくいように思えます。しかし、何事も本人次第です。

○夢と期待
 
 夢というのは、願望です。現実でやっていきたいのは、期待したいこととなります。夢を現実で成し遂げようとして難しいことに挑戦し、叶えていくのが、かつては人生の目標でした。期待もハードルが高かったのです。
 現実は、夢のようにはいかないものです。そこで、どこかで妥協します。つまり、願望が叶わないとあきらめて、できる範囲での期待になって、ハードルを下げるのです。理想や夢を忘れるのが、社会人となり大人となり、現実の生活となっていくのです。

○それなりの満足感

今は、情報があふれ、モラトリアムもエンドレス、何よりもバーチャルでいろんな経験ができます。時間やプロセスを大してかけずに、ハードルを上げず、それなりに満足感も得られます。傷つきたくないから、仕事や恋愛に、願望どころか期待もしなくなるかもしれません。 
習い事でも恋愛でも何でも、一つのことや一人に時間をかけない、いや、時間がかかるということを知らないようにさえ思えます。深さとか濃密という関係を選んで、自らが変えていった経験にも乏しいのでしょう。
一方で、ネットやSNSでは、限られた狭い関係での相互束縛のような構図があります。そのよし悪しは別として、ヤンキーは、地元で早婚、やや多めの家族をつくって、それなりに幸せに暮らしていたりするのです。

○刺激と深さ

 ゲームやバーチャルでは、現実離れした刺激を求めていき、さらに現実離れしてしまいます。戦後、団塊の世代は、「ローマの休日」などのスクリーンの世界に憧れました。同じように現実離れしたバーチャルの世界を縮小したサイズで現実化していたりしたのですが。
 思うに、「かわいい」とか「やさしい」というのを理想としても、それは人間としてのその相手の本質ではないでしょう。今の若い人の多くはそう思い込むようですが、それは「誰でもよい」と言っているのに等しいのです。ですから、「この人」と定まりようがないのです。入れ替え可能だからです。
 「星の王子様」では、「長い年月を共に過ごしたから」と、友だちの意味が語られます。私もそれがわかるのに、ずい分かかったのです。「欠けがえのない存在」は、事件や刺激の大きさ、強さとは全く別のものです。
経験は深さで問うものです。少なくとも、刺激の大きさや強さ、その数ではないのです。失恋した人がホストになるよりも、見合い結婚する方が深いというようなことかもしれません。

○うまくいかない

 不快というのが、束縛されたり嫉妬されることとなると、関係はなかなか持続しないでしょう。そうなってしまうのは、経験値のなさ、余裕や自信のなさです。先に認められることを求めてしまい過ぎるからだと思います。でも、それも若さゆえ、未熟ゆえのことで、しっかりと体験して学んでいけばよいことです。

○試行錯誤していく

相手を理解せずに認められることは、今も昔もありません。テイクよりギブが原則です。
 どちらにしろ、芸事も人間関係も、めんどくさく手間をかけるところで深められていくものです。最初からうまくいくことはないし、試行錯誤をし続けて、失敗し、少しずつ、学んでいくものです。

○時間をかける

 傷つくのも打ちのめされるのも、成長のためです。ですから恐れないことです。勇気をもつこと、チャレンジすることです。倒れたら都度、起き上がればよいのです。
時間は充分あるのですから、充分に使わないのはよくないでしょう。使っては無駄になり、よい結果が出ないとしても、使い続けていくのが人生です。使わなくてもなくなっていくのだから、全力で使えばよいでしょう。

○規律と自由

 軍隊は闘いに勝つために、刑務所は社会に更生するために、厳しい規律を厳守させられます。自由に振る舞うことは制限されます。特に、日本では、そういうことが一律に徹底される国のように思えます。
 それは、そのまま産業社会の発展向上のために働くのに有効な方法になりました。近代の学校教育にも通じます。国が強くなり、生活が豊かになるという目的への具体的な手段がそうした規律でした。

○モノからコトへ

 新しいものをどんどんつくり、それを買っていって夢がかなった。それが日本の明治の文明開化から昭和の戦後の一貫した政策であり、庶民の夢であったわけです。3S(炊飯器、掃除機、洗濯機)、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)と、生活は、モノの購入とともにグレードアップしていったのです。
モノづくりの昭和から、モノが行きわたった平成になると、サービスや情報が求められる社会となりました。人を集め楽しませることが求められる時代となったのです。
私が大人になった1980年代、その切り替えは、私にもみえていたように思うのです。労働より消費に人々の生きがいが見い出されていったのです。

○アーティスト化

 そうなると、ある規則のまま、言われたままにやるのではなく、自分で考えて試行錯誤し、創意工夫することが問われてくるのです。
 歌い手も、作詞家や作曲家がつくった歌をうまく歌うだけでなくなりました。どうみえるかを自ら工夫したり、自分で詩や曲もつくったり、歌の形などに縛られず、しゃべったり踊ったりするようになりました。そして、流行歌手、シンガーからアーティストと呼ばれるようになります。
人々のニーズは、歌を聞かせる歌手からネタをつくり、演じる才能をもつお笑い芸人に行き着きました。世の中も、それを見るだけではなく、自らもそういう日常をアップしたり、そうしたものを仕事に使うように変わっていったのです。私が当初から“Be Artists”と言っていたことが、うすうすとはいえ、現実化したのです。

○コミュニケーション能力

 新しいものをうまく提示するには、プレゼンテーションやネゴシエーションの能力が必要となります。つまりは、コミュニケーション能力です。事務処理能力や労働「管理能力」でなく、発想力、告知力、動員力といったものです。
 海外では、元より、貴族の仕事と奴隷の労働のようにlabourとworkに分けられていました。これは、体を使うか頭を使うかの区分です。一般的に、体だけ使う仕事は辛く、頭だけ使う仕事は、体としては楽です。肉体の格闘から頭脳戦となったのです。

○創意工夫と生きがい

創意工夫するのは楽しいことです。若い日本人は、コンビニのレジの仕事さえ嫌なのだから、ベルトコンベアでのモノの組み立てなど耐えられないでしょう。それは、軍隊や刑務所を想起するかも知れません。
 生きがいとして、「自分に合った仕事」などというのを求め始めると、「自分に合った人」を求めるのと同じく、定まりようがなくなります。身近な人の勧めるコネ入社や見合い結婚が当たり前だった時代の方が、早く落ち着き、自分を知ることができたことでしょう。

○演じる

 望むもの全てが手に入るものではないとわかると、自分に必要なものと必要ではないものがみえてくるものです。その前に、その望みが本当に自分の欲するものとは必ずしもいえないこともわかってきます。
私は、役者や声優を目指す人と数多く接してきました。この2つの職は、自己否定の上にしか自己表現が成立しないから、わかりやすいのです。
「いろんな人になれる」からといって、そこに選択の自由はないのです。ずっと自分ではない人を演じ続けていくのです。そこで、いろんな人生をバーチャルとして短期に味わえるのですが、リアルではないのです。
もし主人公という役柄なら、日頃の自分の人生以上に華やかなことを舞台で体験し、人にみてもらえるということを味わえるのです。そこまでは、下積みで、やりたくない役のオンパレードでしょう。それだけで終わる人が大半ですから、まさに、社会のダイジェストです。

○生きがいと仕事

 人は、生活のために金が要るから働くし、働くところは、その人に金を出せるように、儲かることをやり続けなくてはいけないわけです。倫理観、社会的責任、貢献、エコなど、どんなことを掲げても、企業は、利潤なしには続かないのです。
社員の生きがいが仕事となり、会社を支えて、結果、儲かっているといえる会社もあるのですが、案外と長くは続きません。仕事を生きがいとみなす方がうまくいっていたわけです。

○誰もが共通の「いい」もの

自分の生きがいや自分に合った仕事などが、どこかにあるように思うのは、前提からして、おかしいのです。「いい学校」や「いい会社」や「いい人生」は、自分の求めるものともっとも遠いところにあります。
なぜなら、誰もが「いい」と言うものは、誰にでも取り替えが可能です。その人らしい生きがい、その人に合っているということから、もっとも離れるからです。
 それを知った上で、そこを土俵にして這い上がっていくのなら、それは悪いことではありません。誰にでも「いい」ものが、自分にもよかった時代は、長く続いたからです。

○安易に癒すと

 「人を元気にしたり癒したい」というのが働く動機というのは、今の時代にピッタリです。ピッタリすぎて、そうなると、本当に「いい社会」はつくれないのではないかと思います。
私が、カウンセリングもどきを信じないし、おすすめしないのも、苦しみや病気の元凶となっているものをスルーして、上辺だけ取り繕って、その場を凌ぐ図式がみえるからです。すると一時、凌いで、元気になっても、また同じような理由で落ち込みます。
また同じカウンセラーを頼り、勇気づけられて立ち直っていく。としても、これでは単に凌いでいくだけのくり返しなのです。そして、時間だけが過ぎ、自ら力をつけて自立していけない人をたくさんみてきたからです。まさにマッチポンプです。
死にそうなラインにいる人、真の弱者を救うことを除いては、安易な承認や肯定は、その人をダメにしかねないのです。本人が何も気づかないと、変わろうとしないまま、年月だけが過ぎていきます。中高年にまで至る引きこもりの問題は、その代表例です。

○最低限の希望

 必要なものを知るために、自分の最低限の希望から考えてみましょう。
「何をしているときに満足したり幸せを感じたりしますか」
そこからは、それをつかむ努力と、つかんだら離さない努力が問われます。社会も人生も甘くはないのです。

○割り切りのよし悪し

 最近は、仕事も人間関係も、短期に入れ替えていくような風潮になっています。それがダメというのではなく、その結果、深まっていくものがあればよいと思うのです。仕事を割り切るのもよいでしょう。しかし、それでは、いつまでも誰にでもいい仕事でも、あなたには悪くない仕事であるのが精一杯です。
同じく、人間関係でも、いい人、つまり、悪くない仲間同士、つまり、あなたである必要のない仕事や人間関係で終わってしまいかねないのでしょう。

○教養からの「すごい」

 昔は、周りとの競争に勝つために、周りよりも勉強して、多くを知って理解する勉強が必修でした。教養の力で差がついたものでした。しかし、そこに本当に働いていた力は、そのプロセスで得たすごいもの、すごい人の影響力だったと思います。
両親が、尊敬する人、偉い人に挙げられることの多い今となれば、他の人に触れて、感化されていく機会が少なくなりました。感じて動かされる、感動の力こそが、人間の力の根源です。

○自発性の伝搬

 感動すれば、その作品やその人自身のまねもしたくなり、してしまうものです。そうして、型、スタイルが入っていくのです。そこに自主性、自発性とか内発力というものが大切です。
多くの場合、その先に、あなたの感動した人が感動したもの、感動した人に行き着いて、そのなかで、さらに感じて動かされるものに出会っていくでしょう。そのくり返しでヴァージョンアップしていくのが、学びというものです。そして、今度は、あなたが人を感じさせ、動かす力を手に入れていくことになるのです。

○いい人とコミュニケーション

 日常での判断は、当てになりません。「皆、いい人のふりをして、いいように思われようと生きている」からです。最近では、そうでなければコミュニケーションが成り立たないかのようにさえ思えるほどです。というところまで、多様性が否定されつつあるといえます。日本では、コミュニケーションは、異なる人への説得や対話ではなく、空気を読み、同調することと思われているからです。

○信じられる人

人に期待すると外れることは少なくないでしょう。いや、裏切られると思った上で関係を続けていくとよいと思うのです。そうしたら人間不信になりません。人の本質などは、最悪の状況でしか出てこないものです。
信じられる人間というのが、あなたの信じたい人、信じている人に一致するのかはわかりません。人は、TPOで変わります。相手により、状況により、年月により変わるものです。

〇会っていく

 今いる人を大切にしましょう。というのは、これから現れる人をスルーすることではありません。
人が目の前にどんどんと現れることはないから、自分から会っていくことです。会っていけば、そのうち何人かは、大切な人になる可能性が高まるのです。大切な人に会えるのでなく、大切な人にしていく、それも会うことによってです。その判断こそが、個性となります。

○選ばない

「いい人を選ぶ」ということは、ややもすると周りの人の思惑を汲んでしまうことです。本当に自分で選んだこととはなりません。「あなたにとって、本当にいい人」とは、周りが評価する人とは限りません。
まず、そのフィルターを外しましょう。むしろ、自分では選ばない、選べない人をみつけて接していきます。そして、器を大きくしていくとよいと思います。
生物が二つの性をもつことに進化したのは、自分と違うものを受け入れて、次代に生き残ろうとする戦略です。
 
○死からの生

 事故にあったり、病気になったり、刑務所や軍隊に入ることは、望んでいることでも望んでできることでもありません。しかし、その存在意義は否定できません。死に損なって初めて、生きていることを実感できるほど、私たちは鈍いからです。
 死が身近にあると、生き方にも覚悟が表れます。介護や葬式などは、成長に必修の経験でしょう。

○意志と責任

 殺人の裁判では、殺す意志があったかどうかが要となります。なぜなら、意志があればこそ、責任が問われるからです。
「あなたにとっていい人」はいません。会い続けて、あなたにとって「いい人」にしていくのです。会うには、意志とか必要です。会い続けていくと責任が伴ってきます。

○社会より世界

私が大人になろうとしていたときは、大学よりも予備校に、個性的な先生がいるようになった時代だったように思います。
 社会は刻々と変わるので、世界を相手にしましょう。ここでいう世界は、グローバルとか地球ということではありません。生きている実感の味わえる世界、あるいは、世界観です。
人とは、変わったつもりでも、変わったつもりでしかないことも少なくないのです。それよりなら、自分の作る世界の方が心地よく、落ち着くのです。なかなか生活の糧にはなりにくいとは思いますが。

○世界観と自由

 世界から逃げる自由から、世界をつくり出す自由にしていくのです。逃げるのは自分だけのことですが、つくり出すと、必ず第三者に、他の人に関わっていくことになるからです。リアルが成り立つのです。

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