論21.心身の使い方のミスと人間発声学(対処から統合へ)

○声楽という治療法

 クラシックは、西洋のものですから、西洋医学と似ていると思うことがあります。西洋医学は、病気をどうするか、そこから始め、それをみて処理をしてなくすのをよしとします。単純にいうと、痛みをなくすために傷んでいるところを切り取る、薬で痛みを感じなくするなど、消したり取ったりするのです。マイナスが出ているとみて、元に戻すという発想です。病人からスタートするのですから、すでに病気があることを前提としています。

 クラシックは、教育体系がプログラムされています。普通の日本人が歌うと、「それは発声が違っている」として、正そうとします。しぜんに歌ったままでOKと言われた人はいないでしょう。自分なりに歌ってきた人は否定され、直されます。

 日本人のトレーナーに習った人ほど、徹底してダメ出しされ直されるとも言われます。下手に習った、ということになるわけです。しぜんもだめ、習ってもだめとは、いったいどういうことでしょうか。それこそが、クラシックの特殊性ということになるのです。

○声楽の功罪

 声楽というのを、思い切って西洋の治療法とみると、それを処して100余年、未だに日本から世界へ出た成功者が増えていかないこと、それと本場との大きな技量の差をみるに、本当のところでうまくいっているとはいえません。

 ただ、初期に何人かのトップレベルのオペラ歌手が出たこと、その後、全体的にレベルの底上げしたのは確かでしょう。底辺レベルを平均レベルに引き上げたのは、日本人らしい受け止め方と教育のせいだったのでしょうか。昔のようにスターは出なくなりましたが、全体として、ひどいというレベルのオペラや合唱はなくなったわけです。悪いのをなくした、まさにマイナスをなくす効果を上げたのです。

 マイナスをゼロにするというのは、元に戻すのですから、予め、明確な目的、正答があるわけです。つまり、向こうのお手本に似せる、向こうの人と同じように普通にするということです。しかし、プラスというのは、個々に違うので、創造的な分、形は予めわからないのです。

○ミュージカルという病

 ポップスのように、自分なりに歌って、そのままプロになっている人も世界中にいます。クラシックとどちらかが正しいとか、この2つは違うものと言いたいのではありません。私は、歌の声ということで同じに捉えています。

 その混合地帯が日本ではミュージカルともいえます。日本では、かなり特殊に二極化しているからです。役者出身と声楽出身では、得手不得手がかなり違ってきます。大ざっぱにいうと、役者は個性、声楽家は技術がみえます。

 ところがブロードウェイの出演者なら、何が出身かなどわかりません、両方を学び、共に極めているからです。技術と個性が両立して一体化しなくては、プロとして認められないからです。

 日本では、声楽家出身者は、高音域に届かせることとロングトーン、ビブラートの技術に秀でていて、役者出身者は声の個性やせりふ、演技での表現力に秀でています。さらに、ダンスで秀でた人もいる、となりましょうか。

○劇団四季の先に

 劇団四季は、興行として、日本で大成功した例です。音声面、歌唱技術に限っていえば、ブロードウェイのレベルとは比べものにならないものの、ダンスは、少しずつ近づいていると言う人もいます。そこで、役者から声楽出身者にメインが替わっていくのは、原調での無理な高音共鳴が必修となってきたからです。

 さらに、韓国、中国出身者に替わられていくのをみるに、その理由を日本人の発声力と音色力、特にパワー不足に求めざるをえません。

 ミュージカルなのに、発音ばかり優先されるのは、感心しません。私は、歌では、音楽面を主にみているので、根本的に違います。

 日本語を優先し、話の内容が初心者や子供にもわかりやすく伝えられるようにして、日本語の教育にも関わるようになった、日本語発音第一主義の劇団四季は、発音が不明瞭だった日本人の舞台へのアンチテーゼとして登場してきたと思います。そして、そこに学べることは、日本人の受け止め方ということです。それは日本での興行に成功するための優先順ということでしょう。

○総合して超える

 問題は、日本の歌が洋楽曲を取り込んで日本語詞をつけたところから始まっています。メロディとことばの矛盾です。それは、今はラップでリズムとことばの矛盾として起きているのですが、あまりみえていないようです。

 それはともかく、せりふからの歌へのしぜんな移行、それに伴わせた発声のマスターを考えると、次のようなことが言えます。

 後天的に出てきた病を、そこで捉えて治すのでは遅すぎるのです。対処治療の前に後天的に出てきた理由を探り、その前に出てこないようにします。未然に防ぐ、東洋医療でいう未病で治す、ということです。医療保険制度での治療費を減らすために、日本でも、ようやく未然に防ぐことの方に注意がいくようになってきました。それが予防医学です。

 発声は、ポリープや声帯結節ができたら病気と言われ、治療となります。喉がかすれたり痛くなっても、将来の芸術や芸能の歌唱、せりふに影響しないようにすればよいのです。それは一時の病、風邪のようなものかもしれません。そこでヴォイトレなどで予防することを覚えていくの

とよいでしょう。

○達するレベル

 芸事ですから、あるレベルに達していたのが達しなくなるのと、まだ達する実力がないのとは、違います。これは、日常の中に、声、せりふ、歌もあるので、なかなかややこしい問題です。ともあれ、間違っているのと達していないのは違うのです。

間違っているのは、直すとか正しく戻す必要があるのですが、達していないのは達するようにしていくしかないのです。しかし、達するに上限はないので、そこに求める程度の問題、いや、達せられる程度の問題となります。

 ですから、初めて声楽を学んだときには、正しく歌っていないとか、間違っているというのはおかしいのです。それは、達していないにすぎないからです。でも、声は出て歌っているから、その発声では舞台に通じない、OKは出ないから、間違いといわれ、正しい発声を覚えなさい、となります。この場合、間違いでなく、違っているというべきです。

○「正しい発声」と使える声楽

 声楽の「正しい発声」とは、多くの日本人には、これまで出したことのない特殊なものです。日本人の日常から離れているものです。実際に接するとまるで、初めて楽器を習うようにも思われます。楽器なら、初めてではなんともなりませんが、せりふや歌は、少々はできるのに通じないので、間違いと言われます。外国語の発音を学ぶのと似ているかもしれません。ただ、合唱や学校の唱歌などの歌唱、童謡などでは、声楽と共通しています。

 私は、「正しい発声」でなく、それを可能とする体づくり、呼吸づくり、発声づくりを学ぶように声楽を取り入れています。声楽の共鳴も歌唱も、声の可能性を大きく開花させる手段としてみていますが、目的ではないのです。そこが、私の考えるヴォイトレと声楽との違いです。感覚や体づくりとして、これまでの自己流や日本人らしい発声を打ち破る手段として、声楽は大いに使えるということです。

○生来の声と健康

 人は、生まれて、声が出て、母語を学び、話せるようになります。そして、歌えるようにもなります。そうして過ごしてきた幼少期から十代、ここでベースができます。ことば同様、その民族の生活や風習によって、歌や踊りは習得されていくといえます。とはいえ、同じ環境下でも、かなりの個人差はあります。

 同じ時代に同じ日本で育っても、いつも歌ったり踊っていた子と、そういうことに関心のなかった子では、十代でかなりの差がつくでしょう。カラオケによく行く人と、行かない人でも大きな差がつきます。歌でも、TVをみて育った子と、ラジオやレコードで聞いて育った子では、違ってくるでしょう。

 そこでは、小学生の100メートル競争での実力のように、特別にトレーニングするわけでもないので、あまり努力と関係ありません。素質や環境に大いに影響されての特技、才能として表れるところです。

 とにかく、健康である人には、関係のなかったはずの健康づくりが、日本では当たり前の時代になってきたわけです。話して歌っているのが当たり前の人がヴォイトレのレッスンなどで声づくりをするようになったわけです。どうも似ていませんか。

○直すのでなく、達していく

 病気を心身の使い方のミスから生じると考えるのなら、発声も同じようにミスと考えられなくもありません。となると、その発現の時点に立ち戻って直せばよさそうなものです。

 発声がよいとか悪いとか、歌がどうこうという前に、それに有利な考え方に変えて、それに沿ってトレーニングをして、変えていこうというのが、日本人の声楽です。

 それに対し、直すのでなく変える、間違いを正すのでなく、達していないのを達するようにする、できているのをもっとよくする、そのように考えるのが、私はよいと思うのです。

 正しい、間違いの二極でなく、程度で考えるのです。

 老いも病も不運にして起きるのでなく、すべては体の変化の中でのプロセスです。健康な人も、100パーセント完全ではなく、必ず病をもっています。ガンになっていない人もガン細胞をもっています。

 生きて死んだら何もありません。老いや病も私たちの頭でつくり出したものです。いえ、そう教わったものです。発声も同じではないでしょうか。

○発声依存からの脱却を

 声は、宗教とも深い関係があります。生活全体から人間発声学として捉えるならば、そこには無限の可能性があります。風邪で病院に行くような国はありませんから、日本人は病院依存症です。病院に行って薬に依存して、いつも病気を引きずっているのは、よくありません。

 一方、東洋医学でも、治療や薬に依存してずっと抱え込んだままになったり、直ってはまたすぐ繰り返すという人は少なくありません。そこは直っても別の個所がよくなくなる、転移のようなことも多いようにみえます。

 残念ながら、発声やヴォイトレも、そういう人がたくさんいます。いろんなところをいつも回って悩んでいる人もいます。そういう人には、是非、この研究所で終止符を打って欲しいものです。

○ライフワークにする

 私のところには、10年、20年といる人がいますが、それは、直らないのではありません。達していこう、極めていこうとしているからです。途中、かなり踏み外しているようにみえることもありますが、続けていくと、そういう人の方が大きく育っています。そこで、どういうアドバイスをするのかも、なかなか難しいことになるのです。武道のようにその人のライフワークとなっているのです。

○ヴォイトレの誤解

 「声が思うように出ない」「喉を傷める」などで医者に行く人の多くは、医者から紹介され、研究所にいらっしゃいます。そのほとんどは、病気とか怪我をしたのでない、治すというのでなく、達していないのです。発声や歌い方が間違っていたり、できていないのでなく、中途半端なのです。もっと大きく伸びる余地をみて挑んでいないのです。

 そこがわからないと、発声法を教わったところで、少し無理をすると壊します。それがわかると今度は無理をしなくなります。無理しないことで壊さなくなるのをヴォイトレと思ってしまう人が多いのは、私としては残念なことです。

 目一杯の無理をしても壊さなくなる、昔より大きく強く声を出せるようにならなくては、トレーニングではないでしょう。

 「発声が直らない」とか「歌がうまくならない」と思っている人は、考え方を変えてみることです。キャリアを重ねていくように考えて続けることです。そこでレベルアップするためのレッスンに気づき、ヴォイトレでは、ロングスタンスで声の器づくりをしていく力を蓄積していくのです。

 「すぐにうまくなる」「間違いを直す」ということばは、使いたくありません。そういう指導は、本質を見誤りかねません。

○発声は間違えない

 歌詞を間違えたり、音程やリズムを外したとは言いますが、発声は間違えるというものではありません。地力のなさでのコントロール不足といった力の問題がほとんどです。それは、訓練していかない限り安定しないのです。

 丁寧な発声と、それを再現しキープできる体力、技術を身につけていくこと、それが基礎たるヴォイトレです。歌唱には、発声や共鳴のバランスやコントロールとともに、表現のためのパワーとメリハリがいるのです。そのときに、声の芯や声量、共鳴と言った基本の力が大きく効いてくるということです。

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