チェリまほTHE MOVIE🍒WELCOMEな安達家のひみつと、ポスターについて、など

初めに、一つ目の投稿と同じ注意喚起をさせてください。(チェリまほが好きで初めておいでくださった方は、ぜひ一つ目の投稿である『黒沢家実家での対話シーンを 映画技法から読み解いてみる』からお読みいただければ幸甚です)

以下の文は映画チェリまほ THE MOVIE に関するネタバレを含むものです。ただし映画を観ていない方にはなんのこっちゃわからん記事になってますので、まだ観てない方は直ちに映画を観に行ってください。映画だけでも大丈夫ですが、事前にドラマも観るとより楽しめますので、アマプラ等でどうぞ。鑑賞者の人生観が変わるかもしれない物語です。

さて、前回 

https://note.com/breathchezcerise/n/na63249eb68d7

で触れたスタイリッシュで敷居が高い黒沢家とは対照的に描かれている安達家ですが、こちらもその温かみには(よい意味で)ちゃんとした仕掛けがありそうです。
タイトルの「ひみつ」は大げさ過ぎかもしれませんが、よろしければ偏愛的な駄文にお付き合いください。

その仕掛けは、既にこの家のロケハン(ロケーションハンティング。撮影にピッタリの場所を探し出すこと)時点から始まっていたのかもしれません。

カチコチに緊張した安達(いつもの猫背が伸びています)と黒沢(手足がギクシャクしています)が着いた安達家のドアは、日本の家屋には珍しい内開きです(背の高い二人が前に並んでていても大きく感じるそのドアはおそらく輸入ものでしょう。元々注文建築でこだわって作られたのであろうとても素敵なお宅ですよね)

アメリカなどでドアが内開きなのはもちろん防犯上の理由などもあるのですが(日本では狭い玄関に靴を置いたりすることがあるのでほぼ外開き)、訪問者を招き入れるウェルカムな姿勢を表していることも確かです。
撮影に外光を取り込むためにも玄関ドアは開いた状態で挨拶をするシーンを撮影しているのでしょうが、その内側に開けられっぱなしのドアそのものが、安達家の人達のオープンマインドな雰囲気を、訪問シーン初っ端から効果的に修飾していると思われます。

ちなみに安達から「会わせたい人がいる」という電話を安達母が受けた時に、安達父が鹿の柄がついたセーターを着ていましたが、見間違いでなければこちらの玄関に飾られた絵画もそうです。2頭の雄鹿が描かれた小さなものに見えるのですが、もしそうであれば単に「安達のお父さんは鹿が好き」ということではなく、これにも意味があるような気がしてなりません。
鹿はペンギンやキリン(いずれも同性カップルが一定数居ることで知られている)ほどメジャーではありませんが、映画の世界では同性愛のメタファーとしてしばしば登場することがありますから。
ましてや2頭仲良く並んだ雄鹿とくれば、この後訪れるめでたい結果の暗示かなと思わずにはいられません。

(以降またしばらく脱線してしまいますが、これもチェリまほに関することですのでお許しを)

前回書いた『黒沢家実家での対話シーンを 映画技法から読み解いてみる』でメッセージ性のあるポスターの件に関しても少し触れましたが、思うに、風間監督はたびたびそれら小道具で鑑賞者にこっそりとメッセージを伝えてくれているのではないかなと。

チェリまほTHE MOVIE冒頭、魔法を使いこなす黒沢(他の人のネガティブな心の声に困っていた安達を気遣ってのことですが)と乗っていたエレベーターを降りた安達。華麗な黒沢のターンを見送る彼の傍に貼られていたTOYOKAWAのポスターには、商品の写真と共に「長らくのご愛顧ありがとうございます」とありました。映画の冒頭部分ということもあり、あれは監督からのチェリ家達へのご褒美、感謝のメッセージなのではないかなと(厚かましくも)思えます。

映画にあった豊川社内で象徴的に使われていたポスターといえば、やはり黒沢が安達の事故を知り、鞄を置くのも忘れて必死で電話をかけているシーンの廊下にあったものでしょうか。

繋がらない電話に焦る黒沢の奥に貼られた、無邪気な少女と共に写るにじいろペンシルのポスター。もう一枚左側面にも何やらレインボーカラーのポスターが貼られています。
今の日本ではともすればパートナーの情報が何も得られない不安定な関係なのだということを、それらのポスターが当事者としての彼らを浮かび上がらせ、サブリミナル的に喚起させる役目を担っているように思えます。

ちなみに、そもそもドラマの時から、豊川社内に貼られたポスターはイタズラっ気があるというか、意味深でした。

1話、二人が残業をするシーン。驚きと恐怖(?)に耐えきれず逃げ出した安達を見送る黒沢(町田さんによれば安達の残り香を嗅いでいたとか…w)が座った席の前には既に、2本の万年筆が仲良く並んだポスターがありました。
万年筆は、この時点では目立たせぬようにするためか黒色でしたが、この前途多難そうな恋がいま始まってそして未来は…♡ということを予言してみせているという、風間監督の茶目っ気でしょうか。

また、11話では同じ社内のデスクで黒沢にプレゼンのコツについて特訓を受けるシーンにて。同じ画角の隅には、クリスマスプレゼント用のポスターが貼られているのが映り込んでいました。しかしツリーの横に置かれた赤い万年筆は1本だけ。プレゼンの後の、不穏なクリスマスをうっすらと暗示させるような仕掛けになっているように感じられます。

脱線が長くなりました。すみません。安達家の話に戻ります。

『黒沢家実家での対話シーンを 映画技法から読み解いてみる』に書いたように、黒沢家では心の壁を象徴するように安達と黒沢、黒沢父母を分断していた線がありましたが、もちろん安達家にはありません。
安達、黒沢と安達家の面々が向かい合って座ったシーンも、ローテーブルの真横からではなく、少し左斜めから撮られていることによって、緊張感は和らげられています(どのシーンもですが、役者さん達の演技が素晴らしく、言及したくもありますが、ここではあえて、あくまでそれ以外について書いていきます)

黒沢家考察の時にも書きましたが、安達家では実家ファミリーは画面右側に、黒沢・安達は左側にいます。
映像のセオリーでは↓図のようになっています(ザックリと汚くて申し訳ないです)

画像1

強く安定した大人の世界に、不安を抱えた子ども達として安達や黒沢が向き合っているのです。上手=右側に配されたことにより本来なら(人数的にも)安達ファミリーを威圧的に感じるかもしれない構図となっていますが、彼らの親しみやすい振る舞いとウェルカムな雰囲気が滲み出ているため、それは払拭されます。

賑やかに出されたお茶の器ひとつにも、その親しみやすさと歓迎度は表されています。客人である黒沢に、この家になら本来きっとあるだろうお客用の湯呑みや茶托を使うことなく、日常使いのそれでもてなしたこと。
のちの将棋の場面では、右奥に積まれた立派でふかふかの客人用座布団ではなく、安達父と同じく使い馴染んだらしい薄いそれに座っている黒沢がいます。

将棋をさしながらの会話途中、安達父の曖昧な返答をきっかけに、実は父親は本音では二人の関係を好ましく思っていないのではないだろうかと心配になる黒沢でしたが、そんな心配は杞憂に終わりましたね。
しかしその緊張感と、黒沢の不安な気持ちを表すため、またその後立派で温かみのある嘉言を与えてくれる大人(若者を導く大人としての存在)を鑑賞者がスッと受け止めるためにも、意味あるのが二人の座り位置だったのです(上図参照)

その後の夕食シーンは切なくなるぐらい素敵で、あの一日だけの収録だったにも関わらず、彼らの家族の雰囲気に嘘がまったく感じられなかったのにはいたく感動しました(安心して甘えた様子の安達、黒沢の営業マンという職業を感じさせるお酌の仕方や、安達にお皿ごと食べ物を渡して気遣うようすなどなども全てアドリブだなんて!)

冷たい窓の外から室内で団欒する家族を映すと、温かみはより増して感じられ、情緒に訴えかけます。映像ではありませんが、古くは童話『マッチ売りの少女』でも窓から見える食卓、という視点はとても効果的でした。
逆に同じ室内から撮った場合は、安達曰く「賑やかっていうか、騒がしいっていうか…」の騒がしさの部分が強調されることになり、情緒的な感傷は減ってしまっていたかもしれません。

また、窓という額縁の中にいる彼らのようすは絵画のようで、それゆえ現実みは少し薄れ、マッチ売りの少女のごちそうと同じく、手の届かない儚さを感じさせます。
「儚さ」は、風間監督がこの映画のラストに出てくる結婚式のシーンを表現する言葉としても使われていました。
安達と黒沢の「好き」だけではどうにもならない関係が根底にあるこの物語で、この「儚さ」は重要なフィルターであると言えるでしょう。

最後にまた余談ですが、筆者はこの日に白のハイネックを着てきた黒沢が愛おしいです。
彼があの日、一縷の望みを持ってアントンビルの屋上に行った時に着ていたのも白いハイネックでした。黒沢にとって白ハイネックは勝負服であり、ラッキーアイテムになり得たのでしょう。

ここぞという時の黒沢の白ハイネック姿、またいつの日か別の場面で観てみたいものです(と、さりげなく欲望を織り交ぜてみる)



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