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チェリまほTHE MOVIE🍒黒沢家実家での対話シーンを 映画技法から読み解いてみる

以下の文は映画チェリまほ THE MOVIE に関するネタバレを含むものです。ただし映画を観ていない方にはなんのこっちゃわからん記事になってますので、まだ観てない方は直ちに映画を観に行ってください。映画だけでも大丈夫ですが、事前にドラマも観るとより楽しめますので、アマプラ等でどうぞ。鑑賞者の人生観が変わるかもしれない物語です。

ちなみに筆者はいつもはtwitter→ふせったーを使うけれど、画像が貼れないため、noteに書くことにしました。チェリまほによって広がる(単に散らかしているだけともいう)私の世界。

(ネタバレ回避でnoteのアイコン画像にはボカシを入れました。下↓に元画像があります)

さて本題です。長いです。
↓こちらの記事にも出てきます、黒沢家実家訪問シーン。映画畑出身の風間監督によって繊細に練られて紡ぎ出された演出に感心しました。(とはいえもしかして解釈が間違ってるかもしれません。その場合はこの映画が好きすぎる者の勇み足と笑ってお目溢しいただけるとありがたいです)

黒沢父が安達から手土産を受け取るくだりのあと安達が促されて着席しようとした時、黒沢母は一瞬思わず顔を背けます。その前に訪れたウェルカムで温かな雰囲気だった安達家訪問とは真逆で、黒沢母には訪れた二人にお茶を出す余裕もありません。(なんとなく色々垣根の無さそうな黒沢父なら代わりにお茶の用意ぐらいできそうですが、いただいたケーキ箱をテーブルに置いただけという父にも、妻の気持ちに寄り添ってきたからこそ、実はそこまで余裕がなかったのではないかと思えます)

しかしながら、本間Pは「黒沢母をラスボスにはしたくなかった」と明言されています。
その通り、黒沢母はここでは、反対する壁的な強者というよりは、一人の、息子を愛するがゆえに悩める母として描かれていて、それはカメラの構図でも明示されています。

黒沢が「母さん、ただいま」と言った場面から安達が腰掛けるまでのワンショットでは特に、黒沢母が作る心の壁は、明らかな「線」と共にハッキリと浮かび上がります。

クッソ雑下手な絵で申し訳ないですが、ご参照ください。このように、映像の中で、クッキリと直線が浮かび上がるシーンが挟み込まれまれています。(本当に一本の線が引かれているかのように見えるので、機会があればご確認ください)

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(エアプラントにも意味がありそうですが、テーブルセンターの上に置かれた器は省きました)

こちらのゴージャスな物件はハウススタジオです。HPお部屋紹介のページでわかることは、元々は配置されていたコルビジェのシェーズロング(有名な寝椅子ですが、少しスノッブすぎると判断されたのでしょうか)が消えているほかに、ダイニングテーブルの位置が変わっていることでした。
黒沢と安達が座った椅子の位置が、スケルトン階段側にやや近くなっているような気がしました。当初は撮影し易いように動かしたのかなと思いましたが、感情のlineをクッキリと区別させたい手法があったのかなと想像しています。

余談ですが、チェリまほの世界では「線」という概念が繰り返し挿入されています。
黒沢は安達の嫌がる一線は彼からは絶対に超えていきません。そして安達が感情の線を超えて踏み出す勇気を徐々に得て行くというのは、この物語の本質の部分です。
製作側の思いや意図を編み込んだomoinotake さんの主題歌(安達目線)の歌詞にも、「停止線」という言葉が出てきます。

安達の部屋には文房具のイラストと共に「DRAW A LINE WITH A RULER」というコピーが書かれたポスターがありますが、こちらもドラマでは印象的に使われていました。
直訳すると「定規で線を引く」ですが、「境界線を引く」という意味があります。6話で安達の寝顔に触れそうになった黒沢が逃げ込んだキッチンの横にあったり、また10話では黒沢のご褒美とコンペの準備の間で揺れ動く安達の背中の向こうにしっかりと映っています。まるで、あのクリスマスの夜を暗示するかのように。

映画でも、「母さんがまだ少し戸惑っていてね」という父からの電話を切った黒沢の寂しげな背中の向こうに、このポスターは映っています。
もちろん隅のほうにぼやけて映り込んでいる時も多々ありますが、目立つ映り方の時には、その意味を立たせてきているように思えて仕方ありません。(逆に二人の距離が縮まっているシーンでこのポスターが端でなく真ん中に映り込んでしまうシーンでは、鴨居にかけられたジャケットや鏡等で、いつもうまくメッセージが隠れています)


さらに余談ですが、黒沢の実家であまりに印象的なテーブルクロスの色について。もしそこにも意味があるとしたら、それはオーシャンブルーを象徴しているのかもしれません。二つの世界を分つ海原が、彼らの中央に横たわっている。テーブルセンターの白いレースは波、までは考えすぎかもですが、この後海岸のシーンに繋がって行くことを思うと、興味深い色選択ではあります。

閑話休題。
先に私は黒沢母は息子を愛する悩める母であると書きました。彼女は強者ではない、とも。

安達と黒沢が黒沢家に着いてからとある時点まで、カメラの向きはキッチンを背にして、ソファの方を見せる状態になっています。

つまり、黒沢・安達は画面右側に居て左を見、黒沢父・母は左側に居て右を見る構図です。

さて、映像の世界には意外と細かなセオリーがあって、人の向きや位置などで心理描写を描いているのですが、それはざっくり言うと下記のようになっています。

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つまりこの場面に於いて、安達と黒沢は黒沢父母に許しを請う者ではなく、固い決意を伝えに来た強者であり、苦悩を抱えた一人の弱き黒沢母と向き合っているのです。

黒沢母が心配なのと言う「そんな日は来ないと言い切れる?」「そんなことは絶対にないって」の「そんなこと」とは暗に二人が後悔するということを指しているだけではなく、その先には、いつか彼らが女性を好きになる可能性があるのではということも含まれているような気がします。それはこの時点ではまだ現状を受け入れ難かった彼女にとっての一縷の望みではないかと。

しかし安達の口から出た「俺は黒沢を愛しています」という言葉が黒沢に無限の勇気を与え、彼が自分自身を解放するように話し始めたことによりーー「安達と出会って…完璧じゃなくてもいいんだって…」辺りから、カメラはキッチンの方向に向けられた状態に切り替わります。安達と黒沢の言葉により黒沢母の気持ちが氷解していくのと同時に、登場人物達の位置は反転するのです。

ちなみに映像の原則で本来右側は「大人」左側は「子ども」をも表しています(安達家での横アングルは、安達ファミリー、将棋の時の父親、いずれも右側にいましたね)
親と子、家族という本来の安定した状態に戻ったというわけです。めでたいです。

もうあの画面を割く中心線はありません。テーブルは画面に向かって斜めにすらなっています。
キッチンや階段下に置かれたグリーンも画面に多く入り込むようになり、スタイリッシュすぎて無機質に思われた黒沢家に柔らかさが差し込まれます。

そしてついに黒沢両親の口から、あの名台詞たちが引き出されます。直接的ではないものの、安達家の「おめでとう」に匹敵することほぎの言葉であることは間違いありません。

「優一、あなた変わったわね…あなたが変えたのね」
「幸せな人が増える。これ以上のことはない」

ぐだぐだと書いてきましたが、とにかく言いたいことは、たったひと言に要約でき、それに尽きます。
ほんとに、なんて素晴らしい映画なんだ!
(雑な締めですみませんが、本音です)

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