アナログ派の愉しみ/音楽◎カラヤン指揮『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』

その日、大隈講堂の壇上で
「帝王」の両手は猛禽類のごとく


20世紀のクラシック音楽の最大のアイコンは、ヘルベルト・フォン・カラヤンだったろう。はるか遠方の極東の島国にあっても「帝王」と呼ばれ、その『運命』と『未完成』をカップリングした日本独自企画のレコードはベストセラーとなり、まさに指揮者の代名詞として轟きわたっていた。それだけに、他方ではアンチ・カラヤン派なる勢力もあって、新しいレコードが発売されるたびに喧々囂々の議論が巻き起こった。かく言うわたしも、カラヤンがつくりだす絢爛豪華な響きにあっさり陶酔するのは沽券にかかわる気がして、あえてソッポを向いたりしたものだ。

だから、あろうことか、自分の通う大学にそのカラヤンがやってくると知っておっとり刀で駆けつけたのは、なかば冷やかしからだった。キャンパスの学生によるアマチュアのワセオケ(早稲田交響楽団)が、カラヤン財団の主催する国際青少年オーケストラ大会に優勝して、「帝王」みずからのタクトで記念演奏会を行うはずだったところ指揮台からの転落事故で叶わず、翌年の1979年10月13日、ベルリン・フィルとの来日に合わせて大学を訪れ、改めてワセオケを相手に公開リハーサルを実施するという運びになったのだ。

当日、大隈講堂の壇上に現われた71歳のカラヤンは、わずかに足を引きずりながらも、その全身が放つオーラはまばゆいほどだった。わたしの皮肉めいた気分もたちまち消し飛んで、万雷の拍手を捧げる観衆のひとりになっていた。まず大学総長から名誉博士号が授与されて、正装に身を固めたカラヤンが謝辞を述べたあと、角帽とガウンを脱いで背広姿となり、ワセオケのリハーサルに移った。選ばれたのは、『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』――。

ほんの15分間ほどだったとはいえ、ふだんリハーサルは公開しない主義のカラヤンからすれば異例中の異例だったろう。弦楽器が「むかしむかし、あるところに」と弾きだす前奏が要求に応えられず中断が繰り返されたため、ほとんどその部分だけの練習に終始して、肝心のホルンのメインテーマにも辿りつけなかったせいで、楽団員の友人の話によると、あとで弦楽器のプレイヤーたちは他のセクションから罵声を浴びせられたとか。それはともかく、オーケストラを操るカラヤンの両手はあたかも獲物を狙う猛禽類のごとく、その動きを眺めているだけでもじわじわと背筋が痺れてくるのだった。

リヒャルト・シュトラウスが1895年に作曲したこのカラフルな交響詩は、中世ドイツの伝説的な人物のエピソードを描いたもの。村の市場で牛や馬を追い放って大混乱させたり、神父に化けて出鱈目な説教で人々を煙に巻いたり、騎士に変身して美女を口説きにかかり、それが失敗すると開き直って復讐したり。あげくの果てに捕まって裁判にかけられ、死刑に処されてしまう。だが、最後にふたたび笑い声が弾けて、それは不死身のティルがいまもいたずらに明け暮れていることを表しているかのようだ。

二次世界大戦前後の激動期を生きたカラヤンに、この交響詩の主人公の姿を重ねたら穿ちすぎだろうか。祖先はギリシア人とされながら、あくまでモーツァルトと同じザルツブルグ出身のオーストリア人と名乗り、ヒトラーのナチス党が台頭する時勢のもとで2度も党員となりながら、戦後の非ナチ化審査では処分保留とされ、ベルリン・フィルを率いる大指揮者フルトヴェングラーから徹底して斥けられたものの、その急逝後にはただちに後任のポストを勝ち取り、またたく間にヨーロッパの楽壇に君臨していく……といったふうに、ときにしたたかに、ときに軽やかに、決して逆境に屈することのない融通無碍な生き方はティルを思わせはしないだろうか。

最後に告白しておこう。カラヤンがリハーサルを終えて退場するとき、おもむろにステージの袖から現われたスタッフに促されて、観衆の学生たちは全員が席を立ち、右手を振り上げて『都の西北』を合唱しはじめたのだ。その間、カラヤンは右腕を胸にあてがい殊勝な面持ちでいたけれど、本当は何を感じていたのか。たとえひとりひとりの声は大音声に埋没したにせよ、ともあれ「帝王」にわたしも歌を聞かせたことを思い起こすたび、赤面しないではいられないのである。

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