アナログ派の愉しみ/映画◎豊田四郎 監督『夫婦善哉』

男に求められるのは
度胸より愛嬌?


こんなニュースをテレビで見たことがある(確かNHKだった)。新潟県佐渡島にある佐渡トキ保護センターで十年来、中国産トキの飼育・繁殖に取り組んできて、いよいよケージから出して複数のオスとメスを放鳥するに至った。ところが、メスたちだけが本州へ渡ってしまい、自然環境での交配が望めなくなってしまったという内容だ。そこで、画面には鳥類の専門家が登場して「メスはタマゴを産むため、オスよりも栄養を摂る必要があるのです」と解説したのち、今度は現地の畑で農作業中の婦人に向かってマイクが差しだされたときのコメントがふるっていた。

 
「人間と同じじゃないですか。女のほうが逞しい」

 
ニュースが取り上げるコメントは月並みで面白くないのがふつうだが、このひと言には意表を突かれ、口をへの字に曲げた顔つきまではっきり記憶に残っている。いま調べてみたら2009年の春先の出来事だった。

 
豊田四郎監督の『夫婦善哉(めおとぜんざい)』(1955年)は、その農家の主婦が喝破したとおり、女性の逞しさと男性の頼りなさというものを描いて出色の映画だ。大正から昭和初年にかけての大阪が舞台。化粧品問屋の長男・柳吉(森繁久彌)は妻子がありながら、曽根崎新地の売れっ子芸者・蝶子(淡島千景)に入れあげて駆け落ちしたものの、出奔先の熱海で関東大震災に遭って舞い戻ってきた。安アパートで爪に火をともすような生活にもかかわらず、ボンボン気質の抜けない柳吉は働く気もなく、アルバイト芸者となった蝶子の貯金を持ちだしてカフェで遊びまわったり、彼女の目を盗んでとっくに勘当されたはずの実家とヨリを戻そうとしたり……と、呆れるばかりの体たらくだった。

 
しかし、ここに留意すべきポイントが見出せる。原作となった無頼派の作家・織田作之助の小説(1940年)では、柳吉は吃音のせいで口をもぐもぐさせる癖があって、蝶子に思慮深そうな印象を与えたことになっているが、映画のほうの柳吉は吃音どころか、人並み以上の活舌ぶりでぺらぺらとよくしゃべる。それは必ずしも主役の森繁の持ち味を引きだすためだけの脚色ではなかったろう。小説が書かれた太平洋戦争前の男尊女卑の風潮がまかり通っていた時代には、男性が威張り散らすよりも口を閉ざしているほうが女性にとって好ましかったのが、敗戦ののちアメリカから民主主義がやってきて、映画化されたのは「戦後、強くなったのは女と靴下(ストッキング)」が流行語の時代で、男性も軽妙洒脱な可愛げのある態度のほうが女性に魅力的に受け止められるという、そんな世相の移り変わりを反映していたはずだ。

 
つまりは、ろくでなしの柳吉にそうした才覚があったせいで、しっかり者の蝶子はさんざん泣かされながらどうしても見捨てることができなかった。そして、最後にはこんなセリフが殺し文句となってすべてを許してしまうのである。

 
「頼りにしてまっせ、おばはん」

 
まったくもってちゃらんぽらんな仲ではあるけれど、それを眺めて笑い飛ばしている場合ではない。われわれはむしろ、そこから教訓を仕入れる必要があるのではないか。

 
人生百年時代を迎えた今日、男性はたとえ輝かしい過去があったにせよ、いつまでもふんぞり返っているわけにはいかず、身内の妻や娘はもちろん、やがて看護・介護で世話になる不特定の女性たちともうまくやっていくことが求められる。もし彼女たちに疎まれたり嫌われたりしたら、どんな仕打ちを受けるかわかったものじゃない――。と、こんなふうに思いめぐらすにつけ、『夫婦善哉』のヒーローを手本として、女性に可愛がってもらえるよういまから修練に励むべきだろう。愛嬌。まさにそれこそがいちばんのキイワードに違いない。

 
さて、冒頭に紹介したトキのエピソードだが、本州へ渡ったメスたちは、そこでたっぷり栄養を摂取したあとオスたちの待つ佐渡島へ戻ってきてくれたおかげで、晴れてカップルが成就してことなきを得たという。以降も世代を重ねながら、メスたちは荒海をものともせず本州とのあいだを往復してきたのに対して、オスのほうは現在までそうした行動が一例も報告されていないそうだ。やはり度胸よりも愛嬌をもって旨としているのだろう。


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