アナログ派の愉しみ/音楽◎R・シュトラウス作曲『英雄の生涯』
そこに描かれた
英雄とはだれなのか?
なんとも居心地の悪い音楽というものがある。リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』はわたしにとって、さしずめその筆頭に挙げられる。ちなみに、クラシック音楽の分野では、他にウィンナ・ワルツで有名なシュトラウス一家が存在するため、こちらはファーストネームのリヒャルト、ないし頭文字のRを添えるのが通例となっている。そのリヒャルト・シュトラウスが1898年、34歳のときに作曲した交響詩『英雄の生涯』は約45分をかけて、英雄→英雄の敵→英雄の伴侶→英雄の戦場→英雄の業績→英雄の隠遁と完成……と、くどいぐらい英雄づくしのプログラムが展開していく。日常を超越した世界でおのれの理想を掲げ、ソロ・ヴァイオリンが奏でる貞淑でエロティックな伴侶にかしずかれ、ライヴァルとの闘争においては威風あたりを払って立ち向かう。そうした臆面もない描写に、わたしのような凡人は羨望の気力も萎えて辟易しないではいられないのである。
当然ながら、英雄とはだれを指すのか、作曲者の意図が当初からさかんに憶測を呼んだことは言うまでもない。リヒャルト・シュトラウス本人は、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を論議の俎上にのぼせたり、また、自作からの引用をちりばめた楽曲を自叙伝かのように装ったりしてはぐらかしている。しかし、終生、鉄面皮ではあっても肩から力の抜けた風情を持ち味としたかれが、あえて「楽聖」の向こうを張ったり、わが身を英雄になぞらえたりするとはとうてい思えない。わたしがひそかにモデルと推測しているのは、もうひとりのリヒャルト、そう、あのリヒャルト・ワーグナーだ。
根拠を示そう。1864年ミュンヘンに生まれたリヒャルト・シュトラウスの父親は同地の宮廷管弦楽団のホルン奏者で、ワーグナーやその盟友の指揮者ハンス・フォン・ビューローとも密接な交流があった。こうした環境のもとで育ったかれは、ミュンヘン大学を卒業すると本格的な作曲活動に取り組むかたわら、オーケストラ指揮者として経験を積み重ねるにつれて、いっそうワーグナーへの傾倒を深めていき、やがて聖地バイロイトにおける楽劇上演のタクトも振るようになった。そんなかれにとってこのドイツ・ロマン派の巨人こそ、眼前に聳え立つ稀代の英雄であったろう。
もっとも、それはリヒャルト・シュトラウスにかぎった事情ではない。だれあろう、当のワーグナーそのひとがおのれを稀代の英雄と捉えていたらしい。新たな音楽の出現が人類世界を改革し、われこそがそれを成し遂げるべき使命を負った英雄である、と――。論文『芸術と革命』(1849年)にはこんな記述を残している。
「強い人間だけが愛を知り、愛だけが美を把握し、美だけが芸術を形成する。弱い者相互の愛情は肉欲の満足としてあらわれることができるにすぎない。弱い者の強い者にたいする愛情は同情と寛容である。強い者の強い者にたいする愛だけが愛情である。この愛情はわれわれを強制することのできない者への自由な献身であるからである。いずこの風土においても、いずれの種族においても、人間の真の自由によってひとしい強さに、強さによって真の愛に、真の愛によって真の美に達することができるであろう。しかるにこの美の活動が芸術なのである」(北村義男訳)
熱に浮かされたような文章は、ほとんど『英雄の生涯』のプログラムを要約していると読めるのではないか。実際、多くの指揮者とオーケストラが繰り広げてきた演奏の記録は、たいていこうしたコンセプトのもと、みずからを英雄に擬して、上から目線によって自由と愛のメッセージを伝える構図で成り立っている。しかし、わたしは疑問に思う。リヒャルト・シュトラウスは本当に、こうした大言壮語を真に受けて楽曲をつくったのだろうか? と言うのも、作曲者と親交のあったクレメンス・クラウスがウィーン・フィルを指揮した古いモノラル録音(1952年)を聴くと、まるで雰囲気が異なるからだ。ウィンナ・ワルツの演奏でも絶品の録音を残したこのコンビの音楽は、大言壮語の対極にあって、そこに描かれる英雄は普段着の日常を生き、ぺちゃくちゃとラチもないおしゃべりに興じ、しぶとい伴侶の大きな尻に敷かれてうろたえているのだ。
英雄、色を好む。ワーグナーもその例外ではなかったことはよく知られている。23歳で女優ミンナ・ブラーナーと結婚後、奔放な恋愛遍歴を重ねて、ついにはリストの息女コジマが盟友ビューローの妻だったにもかかわらず奪い取って子をなし、ミンナが世を去ると57歳で再婚したといった成り行きも、「強い者の強い者にたいする愛」の実践だったろうか。もっとも、好事魔多し、のちに静養先のヴェネツィアで70歳直前に心臓発作で最期を迎えたのは、一説によると、小間使いにちょっかいを出したのがコジマにばれて叱責されたのが原因と言われている。そんな英雄の実像を承知したうえで、リヒャルト・シュトラウスはこの曲を書きながらぺろりと舌を出していたと考えたくなるのだが……。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?