アナログ派の愉しみ/バレエ◎アーサー・ピタ振付『変身』

カフカが告発した
「不条理」はいま…


なるほど、よく考えてみると、これほどバレエに適した素材は滅多にないだろう。フランツ・カフカの『変身』(1915年)だ。20世紀に生きることの「不条理」を告発したこの小説は、サラリーマンのグレゴール・ザムザがある朝、自分の肉体が虫の姿かたちになったのを発見するという、そのハプニングのうえに成り立っている。したがって、表現手段に文字ではなく生身の肉体を使ったとしても、カフカが構想したとおりの「不条理」がステージに立ち現れるはずだ。

 
そんなわたしの予想の、半分は当たり半分は外れた。2011年に世界初演された英国ロイヤル・バレエの『変身』は、アーサー・ピタの振付、フランク・ムーンの音楽により、主役のエドワード・ワトソン以下8名のダンサーが演じる舞踊劇で、翌々年にコヴェント・ガーデン王立歌劇場リンバリー・スタジオで行われた公演のライヴ映像が残っている。それを鑑賞したところ、生身の肉体が文字に引けを取らない説得力を発揮しているのは予想どおりで、確かに強烈な「不条理」が立ち現れたが、原作とはおよそ正反対のベクトルを持つものだったのである。

 
まずのけぞったのは、この劇がいつはじまったとも知れないことだ。会場に観客が入ってくると、ステージではすでにザムザと父親、母親、妹が立ちまわり、『変身』以前の一家の日常をえんえん描いていく。どうやら林檎がポイントらしい。原作では、虫となったザムザは身動きもままならぬまま、最後は腐った林檎を背中にめり込ませて死んでいくのだが、こちらのザムザは毎朝、背広を着込むとテーブルの林檎をひとつ鞄にしまって出勤する。つまり、人間のなりでいることにまだなんの疑いもなかった段階で、すでにかれは林檎の象徴する宿命にがんじがらめになっていたのだ。

 
そうした日常の光景にそろそろ観客も倦んできたタイミングで、ザムザは突如の変身に見舞われる。カフカがこんなふうに描写したシーンだ。

 
「ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。甲羅のように固い背中を下にして横になっていた。頭を少しもち上げてみると、こげ茶色をした丸い腹が見えた。アーチ式の段になっていて、その出っぱったところに、ずり落ちかけた毛布がひっかかっている。からだにくらべると、なんともかぼそい無数の脚が、目の前でワヤワヤと動いていた」(池内紀訳)

 
いやはや、感嘆しないではいられない。ロイヤル・バレエのプリンシパルの座にあるワトソンは、かぶりものやメーキャップの助けを借りず、パンツひとつだけを身につけた格好でこれを演じてのけるのだ。もちろん、逐語的な再現ではないにせよ、その奇抜なパフォーマンスから受け取る印象はまさしく「途方もない虫」であって、決して肉体の「奇形」ではなく「異形」として表現されているところが凄い。以降、おおむね原作に沿ってストーリーが展開していく。

 
しかし、と急いでつけ加えよう。前記のとおり劇の出発点でベクトルが正反対の向きになっているため、原作では時間が流れるにつれてザムザはどんどん衰え、生きる意欲も減退して、ついに生ゴミのようになってこと切れるのに対して、舞踊劇のザムザは逆のコースを辿る。この事態に怯えたり混乱したりするのは同じでも、その動きはむしろサラリーマンのとき以上にエネルギッシュで、次第にふくれあがる自我を支えきれないかのようにふたりの分身まで登場して、盛んに茶色い液体を撒き散らしながら、いっそうパワフルになっていく。かくて、驚愕のラストを迎える。ザムザは部屋の窓から脱出して、黄金の光があふれる外界へと姿を消し、あとに残された家族たちは茫然と立ち尽くすのだ。

 
この結末は一体、何を意味しているのか? いまやだれもかれも林檎ならぬスマホを手放せず、メディアとの境界を失った日常に呪縛されて、にっちもさっちも身動きできずにいるのはわれわれの側で、それを尻目に舞踊劇のザムザは「途方もない虫」として広大無辺の世界へ飛び立っていったのかもしれない。『変身』が出現してから100年ほどが経って21世紀に至り、カフカの突きつけた告発がいつの間にか反転して、人間のままでいることのほうが無残なのだとしたら、これほどの「不条理」はないだろう。


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