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アダム・スミスの考えた人間の幸福は、実は朝ドラの「おしん」のテーマとほぼ同じ。

「おしん」といえば、説明不要の朝ドラの名作だが、脚本を手掛けた橋田壽賀子さんによると、おしんで本当に伝えたかったことは、「辛抱が大事」ではなくて、「身の丈に合った日常の暮らしの大切さ」「人生足るを知る」というものらしい。
おしんは海外でも評価が高いので、おそらく外国人にも多く受け入れてくれそうな価値観ではある。しかし、アダム・スミスの主張によると、人が身の丈を超える豊かさを求めることは、「俯瞰して見れば、良いところと悪いところ両方ある」というものである。

スミスの考える真の幸福とは、「心の平静」のことだった。そして、これを保持するためには、健康であること、負債がないこと、良心にやましいことがないことの3つが必要なのである。これには最低限度の水準の豊かさないと実現できない。人間は「衣食住満たされて礼節を知る」というやつだ。
貧困が悲惨や理由は不便なだけでない。貧乏人というのは、どうしても他人から軽蔑される。スミスはストア学派の賢人のような強靭な精神を持つ者以外は、それには耐えられないと考えた。個人的には、社会はもう少し貧乏人に優しくなった方がいいと思うが。

ドラマおしんで重要視された「身の丈に合った日常の暮らし」や「人生足るを知る」というのは、「心の平静」が前提条件になる。スミスが想定したとされる「弱い人」というのは、身の丈に合った豊かさではなかなか満足できない人である。
スミスは道徳感情論において、「貧乏な人の息子」や「古代ギリシャのエピロス王と寵臣のやり取り」の物語を、そうした人の弱さの事例として上げている。

前者は「貧乏だった少年が、必死に努力して金持ちになった後の晩年に、自分が築き上げた富と地位が取るに足らないものと悟る」という内容だ。
後者はエピロス王が、寵臣に征服の計画を一通り説明したとき、その寵臣が、「王様は征服が終わった後は、なにをなさるのでしょうか?」と尋ねたものだ。エピロス王は、「征服が終わったら、友人と酒でも飲んで楽しみたい」と答えたが、寵臣は「今そのことを妨げる理由がありますか?」と言った。

おそらくこの寵臣は、別に征服活動に反対したいわけではない。一方のエピロス王は友人との宴を、征服後の楽しみとして、あえて取って置いているように見える。寵臣がいいたかったのは、「野望や夢に向かって必死になることは素晴らしいのですが、日常のささやかな幸せまで、無理に犠牲にする必要はありません」ということだろう。

こう考えると、スミスの幸福な人間像とおしんが最終的に手に入れた幸福は、殆ど差がないといえる。ただし、スミスの場合は社会全体のことも視野に入れた分析もしている。

最低限度の豊かさに満足できずに、より多くの富を求めてしまうのは「人の弱さ」である。スミスはこうした人間の性質は「自然の摂理が齎す欺瞞」と判断した。人々がその欺瞞に動かされることで、経済や文明が発展していくというワケだ。しかし、スミスがあの2つの物語を例に上げたり、「欺瞞」という言葉を使うのだから、この性質は手放しで良いものはといえない。
こうした哲学から導き出せるのは、「虚栄心をはじめとする多くの富を求める願望は、無理に抑えようとするのはダメだが、同時に相応に飼い慣らす必要がある」という思想だろう。

現実の世の中は、それを飼い慣らすのが困難だ。どうしてそうなるかを最も浮き彫りにした経済学者は、「有閑階級の理論」を書いたソースティン・ヴェブレンだといえる。次回は有閑階級の理論について詳しく述べてみたい。