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需要の強度と消費の程度という概念とその差異〜経済学原理第二章第二説について〜


 マルサスは有効需要論や過少消費説を提唱した古典派経済学者として有名であるが、「有効需要」という言葉を始めて使った経済学者は、重商主義者のジェームズ・ステュアートとされている。アダム・スミスを経済学の始祖とするならば、ステュアートは"前経済学者"というべき立ち位置といってよい。経済学的な有効需要論の大まかな流れとしては、重商主義の理論体系の総括者であるジェームズ・ステュアート→古典派経済学者のマルサス→ケインズ→アメリカケインジアン、ニューケインジアン、ポストケインジアンといったところだ。今ホットな議論を引き起こしている現代貨幣理論は、ポスト・ケインズ派経済学(ポストケインジアン)の派生理論なので、極めて興味深い流れではある。そう考えると重商主義の経済学とて、無意味、無価値と切って捨てるのは、いささか軽率な態度といえるだろう。

 ステュアートは「大きい需要と小さい需要」と「高い需要と低い需要」との概念を区別した。前者は財・サービスの需要が、規則的か緩やかに少しづつ増大(もしくは減少)する場合、それに反応して供給も規則的か緩やかに増大(もしくは減少)するので、結果して価格はほとんど、もしくはあまり変化しない状態のことである。増大する場合は「大きい需要」で、減少する場合は「小さい需要」ということになる。後者の場合は、需要が急激に変化したケースを想定している。すなわち、需要が短期間で急に高くなって価格が上がることを「高い需要」とし、需要が短期間で急に低くなって価格が下がることを「低い需要」としたのである。つまり、重商主義経済学者のステュアートは、「需要の定義を明確に2つに区別した初めての経済学者」と考えていいはずだ。

 一方のロバート・マルサスはどうなのか?マルサスも、需要には二つの異なる意味があると考えた。一つは「需要の程度」、これは各々の財・サービスがどれだけ購入されるかに関するもので、需要の範囲といった方が分かりやすいのかもしれない。もう一つは「需要の強度」といい、つまり各々の財・サービスを需要する者たちが、それを満たすために代金等をどれだけ犠牲にできるかの強さになる。後者の場合は前者はとちがい、需要者の意思の存在が強調されている。ようするに需要の強度とは、「高くなってもその商品を購買しようする意思をより引き出せられる強度」ということなのだろう。マルサスがステュアートの需要論を参考にしていたのかは不明だ。経済学原理を読む限り、そのような記述はなかった。しかし、ステュアートの著書をマルサスが読むことはできたので、その影響を受けた可能性はある(実際に経済学原理上巻の100ページに、ステュアートの主張と似た記述がある)。

 ちなみにスミスの国富論には、上記のような需要の概念はない。長期的に見れば、市場価格は自然価格に等しくなっていくのがスミスの理論なので彼としては、ステュアートの主張した「大きい需要と小さい需要」と「高い需要と低い需要」との区別は、事の本質から遠ざかった枝葉末節の問題だったのだろう。しかしこれが、その後の経済学の健全な発展を妨げる大きな要因の一つに、なってしまったといえるかもしれない。自由貿易に批判的な人類学者のエマニュエル・トッドは、現行の近代的な経済学は、貿易の自由化が供給の効率性を高める(生産性の向上)ことばかり主張して、需要のことには全く触れていないという趣旨の主張をしている。トッドの指摘はごもっともだ。今の近代経済学がこうなってしまった根本的な原因の一つには、アダム・スミスのその失敗があると私は思う。