勉強するってなんだろうねって話なんだけど、夜中に思いついたので夜中に書くと筆が滑る傾向にあるので寝て起きるまで寝かせてから書くよってことを今のうちに書いておきます。

起きた

昨晩思いついたことをタイトルにメモしておいて書くというのはなかなかどうして便利なようだ。なんせ寝て起きたら全部忘れているのだから。
と、いうわけで、勉強について考えていた……はずだ。

勉強ってどうしてするの

さて、子どもたちは勉強が嫌いというのは我が国では大人の共通認識にあるような気がする。ボクもご多分に漏れず勉強が嫌いな子どもであった。
おばあちゃんが夏休みにボクの勉強を見てくれたのだが、ボクは勉強が嫌いな子どもだったのでさっさと投げ出し、なんとおばあちゃんがボクの夏休みの宿題を勝手に解いているという事態になってしまった。
そう、おばあちゃんは誰に言われなくても勝手に勉強をしていたのだ。
ボクは疑問だった。自分から進んで勉強してしまうことが信じられなかったのだ。だから当時のボクはおばあちゃんに聞いたものだ「なぜ勉強をするの?」と。
おばあちゃんは『楽しいからよ』と言ったとおもう。記憶の彼方のことばだが、勉強嫌いの少年には当時よっぽど理解し難かったのだろう。それくらい記憶に残っている。

勉強、いいじゃないか


で、それからえーと……30年くらい経っているであろう今日、ボクはいまさら思うのだ。勉強、悪くない。と。
大人になったら勉強したくなるという話はよく聞く。あれは嘘だ。ボクの周りには大人になっても勉強しない人、勉強というたぐいのことばを聞くだけで顔をしかめる人が大勢いる。
勉強ということばが抱えている内容が多すぎる気もする。いわゆる学校での勉強はもちろん勉強だが、例えば好きなものについて新しい知識を得るために調べ物をするのも勉強だし、読書や人と話をするのも勉強になるものである。
ボクの周りにいる勉強嫌いの大人たちは、これらの中から嫌いなものを連想して顔をしかめるのかなとおもう。
そのゲーム攻略のためにいまやってる攻略wikiの熟読も勉強じゃないのか?と聞くと、たいていは『これは趣味のためだし勉強なんて言えるもんじゃない』っぽいカンジのことばが返ってくる。
勉強ってそんなに高尚だっけ?と思うのだ。
小さい頃に家の中でスリッパを脱いで裸足で床に立つのを初めて経験するのは、拡大解釈かもしれないが触覚を育てるための勉強と言い張れないだろうか。
……逆に、自分の興味のあることしかやらず、それを勉強と言う人もいる。それは勉強嫌いよりマズいと思う。たしかに勉強にはなる。でもそれは都合のいい言い方なのじゃないかと思う。
それでしか世界を見ることができなくなるのだ。興味のあることを探求するのはけっこうなことで、そういう人たちがいるから人類は進化してきたのだろう。でも、そういう人たちの一部は、自分の勉強したことの他がこの世にあるという事実を無視しがちなのだ。
話を戻そう。せっかく大人になって自由なのにこれ以上勉強なんかしたくない!という人がボクの周りにはそこそこいる。あなたって人は勉強に親でも殺されたんですかと思うが、もし勉強に親を殺された人がいたらそうだよと言われてしまうのでそれはいつも言わないでいる。
身構えすぎてはいないかなと感じるのだ。勉強というのは日々の生活で自然に行われるもので、机に向かって教科書を開いてペンをガリガリと走らせることだけではないのだ。
勉強。と言われるだけで、なにか難しい講釈が始まると思う人もいるかもしれない。難しい講釈を聞かないと勉強したことにならないと考える人もいるかもしれない。
興味ないことは興味がないのだから仕方がない。でも、興味ないことがあるということを認識することも勉強だと言い張れないだろうか。
そんなに勉強ってことばで嫌がるもんでもないんじゃないかな、という話。

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