『喜嶋先生の豊かな世界』~森博嗣~

久しぶりにこんなに面白い小説を読んだ!

 私は大学受験はそれなりにがんばったけど、反動で大学では勉強をしなくなった。それは「大学受験を乗り切るため」の勉強であって、今ある不安をなんとなく凌ぐための時間がほとんどであったから、その苦しみの反動となったのだと思う。ただ間違いなく、特に数学の問題を解いている時など、純粋に面白さを学べだと思う。数学の問題を考えている時、問題の解法を考える時どうしてあんなに面白いんだろう、それは、与えられたことに対して自分の思考の自由が唯一表現できる学問だったからだ。それはもちろん、親に支えてもらいながら初めて自転車に乗った時と同じように、道が示されていて、自分の力で本当に導いたものではないけれど、少なくともその思考を一緒になぞることができたから、それが凄く嬉しくって数学が大好きだった。

 大学では4年生の時くらいから、やっと本の魅力が分かるようになった。たまに、私が面白いと思う時は、きっと既存の事柄を学んで「へぇ~」となるときではなくて、「この先こうなるのかもしれない」とあれこれ可能性を考え、それが少し見えた時なんだということが分かった。そして、今有り難いことに開発のお仕事をさせて貰っていて、仕事の中にその感覚が存在することが本当幸せなことだなと思う。それはこの本の主人公や喜嶋先生ほど純粋なものではないし、研究のように問題を見つけるなんていうことではないけれど、その喜び自体は確実に自分の中にあったものだった。今回の小説を読んでワクワクがとまらなかったのは、純度は違えど自分の中に同じものが存在していることだし、曲がりなりにも研究をして、いま開発の仕事ができているということが影響している。幸せなことだと感じる。

 文章がすごく理系っぽいなと感じた。なんだか凄く落ち着いて、不思議な感覚に陥った。純粋に学問を追究する人ほど表には出てこない。小説の中で教授の研究費集めの話がでてきたけれど、大学の研究でさえ実態はそうなのだから、世の中に存在する、大衆受けするものは本当に純粋なものはないのかもしれない。きっと、この小説はできるだけ、純粋な道を歩み続けたとっても希少な人の視点から書かれた文章だから、今まで読んだ小説と何だか異質な印象を受けたのだと思う。

 それから主人公の世界観が、ちょっと自分と似ていて嬉しくなった。自分はこれで良いのだと救われた気がした。世の中はどうなっているのだろうとか、人間は何故今生きているのか、仕事の問題の疑問点について語っていると、「変な人」と言われることがある。でも、誰が誰と別れたとか、あいつが許せないとか、そんなことを考えることはなんで「変な人」ではないんだろう?多くの人が考えていればそれは変じゃないの?良いんだ自分のままでって思えた。きっとそういう人は自分をアピールしないから、気付かれないだけで沢山いる。小説を読んでそう思えた。

 喜嶋語録めっちゃ深い・・・

『人を喜ばしても仕方がない。人を喜ばせるために研究をしているのではない』

以前ソクラテスの本の感想書いたとき、人に恨まれたソクラテスをバカにしてたけれど、より良いものを探求する姿勢がそうさせていたと感じた。処施術やお金のため、家族のため、色々な方便があるけれど、弁論は全て純粋さからかけ離れたものなんだな。

 私も仕事でもなんでもいいけど、山を登ってみたい。純粋にその高みから世界を見たら、どんな景色が見えるんだろう?凄くワクワクした。

 これからも本を読み続けよう。そして自分で探求するクセをつけよう。大人になるということは、きっとそういうことを捨てていくこととは違う。

 かっこいい大人になりたいな。

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