見出し画像

マティス展 〜こんなことってあるだろうか!?〜

 つい先日まで、国立新美術館で開催されていた『マティス〜自由なフォルム』展に行こうか、行くまいか迷っていた。昨年、同じくマティスの展覧会を十分に堪能し、まだ記憶に新しく、つい最近観たばかりのように感じていたからだ。

 マティスは色彩の魔術師。色使いが素敵なフランスの画家だ。今回の展覧会は、晩年に盛んに手掛けた切り絵、内装や司祭服などをデザインし、最晩年に注力したロザリオ礼拝堂に焦点が当てられている。

 うーん、行ってみたい。でも忙しい。後ろ髪引かれながらも、今回は見合わせようと結論づけていた。

 先々週、久々に会った友人が、不意にこの展覧会の話を始めた。友人は“行って良かった”と力説した。力説されると、私は弱い。  

 ほぼ埋まっているのを承知で、スケジュール帳を覗き込む。会期は残すところあと10日。空いてる日はあるにはあるが土日だけだ。絶対に避けるべき閉会間際の土日、混雑この上ない。
 あー、やはり早く行くべきだったと、後悔しながら再度スケジュール帳を睨みつける。

 空白があるではないか。もうそこだけ白く輝いて見える。金曜午前、ここしかない。もう迷っている場合ではない。

 家事を済ませ、暑くなりそうな気配の中、自転車で駅まで、そして急ぎ電車に乗り込んだ。久しぶりの国立新美術館。だんだんワクワク、足取りも軽くなっている。

 私やっぱり美術館好きだ。

 近頃のチケットは、スマホで簡単に事前購入が可能だ。夜中であれ早朝であれ、思い立ったら購入できる。圧倒的な手軽さに、私は専ら電子チケットユーザーである。

 しかし、本当は昔ながらの、美しく印刷された紙のチケットが嬉しい。今日は急だった事もあり、久しぶりに当日券を買うことに決め、美術館のチケット売り場に並んだ。

 当日券を購入する客は、実に少ない。必ず行くなら、お得な前売券を買うだろうし、電子チケットが浸透している事も手伝っているのだろう。今も、数名が列を成しているだけだ。それもみな二人組、じきに私の番だ。


 その時、肩を叩かれた。何か落としたんだと思い、地面を探すように振り返った。
「マティス?お一人?」
顔を上げると、少し年配の小柄な女性が私にそう言った。
私は咄嗟に、はい、と答えた。

「あ、良かった。そうじゃないかしらと思って。一緒に来るはずだった人が来られなくなったので、これ、使って下さい。」
と、切り絵のデザインが美しいチケットを私に差し出したのだ。

「えっ、ではお支払いします。」
「良いの、気になさらないで。」
と、既に歩きながら話し始めた。

「いや、では、お供します。」
「いえいえ。でも良かった、お声かけて。」
「ええ、では、せめてお茶でも。」
「本当に気にしないで。」
「えーでもでも、嬉しいです。」

 そんな会話をしながら、長いエスカレーターに乗り、2階展示室まで進んだ。入場制限されていても仕方がないと思っていたが、すんなり入れた。しかし、中はかなり混雑している。

 すると女性は、
「それじゃ、楽しんで。」
と言って、黙々と流れる人の波に溶け込んでしまった。
「ありがとうございます。」
 私が言えたのは、それだけだった。チケットを貰った側の私を、さりげなく気遣う振る舞いに、感動すら覚える私だった。  

 思わず行方を目で追い、“せめてお名前を”と言いかけて、とどまった。聞かれる側の迷惑も考えねば。

 わずか五分ほどの間に出会って別れた女性。おそらくもう二度と会うことのないその人から、私はチケットのみならず、一つの指針も受け取った。彼女の年齢になるまでたぶんあと十年くらい、あんな風にさりげなく振舞える人になりたい、そう思った。

 しかし、こんなことってあるだろうか!?

 全ての偶然が衝突したみたいだと思った。なんと稀有な事か。しかし同時にふと
“袖触り合うも多生の縁”
という言葉が頭に浮かんだ。まるで何かに導かれて、待ち合わせしたみたいだ。
 例えば電車一本、あるいは信号ひとつ、ほんの少しでもずれていたら、違う世界線が有って、もしかしたら、私の前に並ぶ誰かに彼女が声をかけるのを見たかもしれない。

 偶然と多生の縁と、驚きと喜びが超合体したような一日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?