紙さまの言う通り。
妻が気が触れてから、もうかれこれ5年は過ぎただろうか。
いや、より正確には、周りの人々から、彼女がそう思われてから、というべきだろうか。
しかし、当時の自分もまた突然の彼女の豹変ぶりに途方に暮れて、周囲のアドバイスに従うままに、彼女を有刺鉄線付きの柵に囲まれたまるで牢屋みたいな隔離病棟に閉じ込めたのだった。
しかし、その数週間後、透が仕事を終えて帰宅すると、灰色の寝巻き姿の彼女が玄関の前に立っていた。
彼女の両手は土まみれだった。
それを見た透は、反射的に
「ショーシャンクの妻やん」
とつっこんでいた。
そして、その瞬間、そんな彼女を痛快に感じたと同時に、彼女をキ◯ガイ扱いするこの世界のことを
「まるで噛み続けて味がしなくなったチューインガムみたいだな」
と思った透は、そのまま絹枝の手を引いて、人里離れた森の奥へと向かったのだった。
ある日を境に言葉による意思疎通が一切出来なくなった絹枝だったが、それまでだって実際、お互いに全く意思疎通できていなかったのだから、案外、何も変わってないし、むしろそれを自覚できている今の方が幾分マシだと透は思った。
「子供を産むことで、私は変われるの」
そんな強迫観念に囚われた絹枝の願いを叶えたくて続けた不妊治療。しかし、
「だから、この日にお願い」
と言われて、身体を重ねていくたびに、透の彼女に対する気持ちはどんどん冷めていった。
だから、彼女がこんな風になった原因はきっと自分なんだろうな、とぼんやりと考えながら、でも、その贖罪のつもりで絹枝と共に今の世捨て人みたいな生活を選んだわけではなくて、自分自身がずっと世捨て人になりたかったことも透はしっかり自覚していた。
そんな透と絹枝は、地元では九国山と呼ばれる森の奥にある大きな樹木に出来た穴倉の中で、毎日、どんぐりを食べながら暮らしている。
しかし、2人は数ヶ月に1回くらいのペースで、街まで下山することがあった。
信心深かった絹枝がかつてよくお参りしていた地元の神社に行くためだった。
そんな日は彼女は必ず朝起きると透の袖を引いて、神社の方角を指さすのだった。
その日も雨の中、2人でその神社に向かった。
雨の日は人影もまばらで、傘も差さずボロ切れに身を包んだ中年男女が歩いていても、みんな優しく無視してくれるからありがたいと透は思っていた。
そして、1時間ほどで神社に着いた2人は大きな鳥居の前で深々とお辞儀した。
このときの妻の横顔を盗み見るたびに、透は彼女は実は正気なのではないか、と思ってしまうのだった。
しかし、境内に入った途端、お参りする代わりに暗黒舞踊みたいな踊りをし始める彼女の姿を見て、それが大きな見当違いだと透は気づくのだった。
そして、その姿を横目にしながら妻が好きだったおみくじを引く。
末吉だった。
言葉なんて意味がないと思いながら、その縦長の紙に綴られた神様の御言葉を透は、雨の中、踊り狂う妻に向かって何度も読み上げた。
(1199字)
この企画に参加させていただきました。
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