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時間は命

『Time is money 時は金なり』ではない。
『Time is life 時は命なり』だ。

『時間は命』という一文をこの数ヶ月で、何度も目にした。
図書館や電子書籍で無作為に選び、著者もジャンルもバラバラの書籍なのに、この言葉を何度も見るのだ。

私がそれを感じているから、無意識に選んでいるのか、あるいは引き寄せられているのか。

でもこれは私が、父の死を経て強烈に感じた人生の真理だと思う。

感じたという表現も、おかしいのかもしれない。
物理的事実だ。

人生=死ぬまでの時間なのだから。

死ぬまでしか生きられない。
死なない人間がいない以上、生まれてから死ぬまでが、自分に与えられた有限の時間だ。

『時間は金』も、時給、日給、月給、でお金を稼ぐことを考えれば間違いではないと思う。時間(命)を使って(削って)お金を稼いでいるということだ。

日本人女性の平均寿命は、87.09歳らしい。
もし私が平均寿命まで生きるとすれば、あと50年ほど時間を持っている事になる。

87歳まで生きるのなら、5年、10年先の目標を立てたり、老後に行きたいところを考えたり、老後の資金の心配をするのも良いだろう。

でも私が何歳まで生きるかは、誰も知らない。
自分のことなのに、自分でも分からないし、どんな名医に聞いても分からない。

それならば、老後の為に今の自分の時間を犠牲にすることに何の意味があるんだろう。

何歳まで生きるか分からない以上、長生きの可能性に備えて準備する必要がある。という理屈も一理ある。
では、長生きしない可能性に備える必要性はないのだろうか?

父は、結果的に末期ガンが見つかることになった検査を受けに病院に行く直前、コンビニに寄って電子タバコを3箱買った。

なんてことはない。車を出したついでにコンビニでタバコを買う。
いつもの父のルーティーンだ。

その時買ったタバコを1本も吸うことなく、3ヶ月後に自分の棺桶に入れられることになるなんて、想像するわけもない。

私は父の棺桶にタバコを入れながら、今日自分が想像している明日は、3ヶ月後は、永遠にやってこないかもしれないのだと、ぼんやり思った。

痩せた体に、母とハワイで買ってきたアロハを纏って眠る目の前の父の姿を、3ヶ月前の私が想像できただろうか。

誰にも、明日も3ヶ月後も保証されてない。

なぜ父が死ぬまで、こんなに当たり前のことに気がつかなかったのか。
いや、気がつかないふりをしていたのか。

明日死ぬかもしれないなんて、縁起が悪いから?怖いから?
そんな事言ってしまったら将来に希望が持てなくなるから?

私は子供の頃からずっと、死が怖かった。
父のガンが分かると、その恐怖は更に大きくなった。
そして父が死んでからは、巨大な波のようにその恐怖が、自分を飲み込もうとしている気がした。

だから考えないようにしようと試みたこともある。人間は誰でも死ぬ。それは分かってる。
でも、そんな事考えても仕方がないじゃないか。

どうせいつ死ぬのか分からないんだから、とりあえず、今日を楽しく生きればいいと思った。

『今日を楽しく生きればいい』
これについては、今の私も賛同する。

ただ、死について考えることを避け、場しのぎ的に『今日を楽しく生きること』と、死を受け止めた上で、今しかない『今日を楽しく生きること』は、似て非なるものだと思う。

今の私は、以前ほど死が怖くなくなった。
父が天国で待ってくれているから..とかそんなんじゃない。

父の死によって、私には死ぬまでの時間を生きるしか選択肢はないのだと分かったからだ。

そして死ぬまでの時間が、あと何時間か知り得ない以上、私は、今を生き切るしかない。
過去を悔いたり、未来を憂いたりせず、今、目の前にある時間を生き切るしかないのだ。

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