見出し画像

みんな一緒でなくていい。少数派の論争。

学生時代、クラスで何かを決める際は、
たいてい「多数決」だった。
学園祭の出し物は何にするか、
クラス委員は誰にするか、
挙手や投票、1人ずつ意見を言っていくなど、やり方の違いはあれど、
1人でも多く票が集まったほうに決まる「多数決」社会で育ったように思う。

社会人になって、上司や偉い人のひと声で、せっかく出した企画がひっくり返ることがあると知ったけれど、それでも、基本的には「多数決」システムが身に染み付いている。

国民的アイドルグループの嵐には、5人のうち1人でも「やりたくない」と言った場合、決してやらないというルールがあったという。
多数決ならぬ、全会一致システムだ。
少人数の話し合いなら、もっとも公平なやり方かもしれないが、
なかなか結論が出ないというデメリットもある。

多数決は、少数意見が疎かになりがちで、
全会一致は、少数派の影響力が強くなるという、真逆の決定方法なのだ。

2人で食事に行くときは、どちらかに従うというやり方をとるが、
人が集まって、さぁ何を食べよう?となったとき、意見の調整はなかなかに難しい。
それぞれの嗜好やそのときの気分があるわけだから、大勢の意見をひとつにまとめるなんて、実に困難なことなのだ。

今年日本でも公開された韓国映画で『デシベル』という作品がある。
ネタバレになるので、詳しいことは書けないが、
海底でトラブルに見舞われた潜水艦の乗組員(海軍軍人)たちの究極の“決定方法”が描かれている。
A案かB案か、生死をかけた選択に迫られた彼らは、無論、全員一致にはならない。
多数派も、少数派も、どちらの主張もわかる。
多数決によって、少数派が反対する案を呑むわけだが、
大勢が納得する決定とは、難しいものだと痛感する物語だった。
(泣いた)

では、少数の意見が大切なのだろうか。

多数決で決まったことが、正解とは限らない。
そのため、少数の意見も大切にすべきだという論調が、少なからずあるし、そうすべきだと個人的にも思う。
が!
少数意見を気にしすぎるあまり、気持ちが揺れてしまうこともある。
それって、どうだろう?

昨日の夜、親しい仕事仲間、友人たちと食事をしていたときのことだ。
そのなかの1人が、こんなことを言った。
「SNSでは、ごく少数の人が発言した強い言葉が、大きく取り上げられて広がり、それが大勢の意見のように受け止められてしまう。
もとは全体の一部の意見でしかないのに、謝ったり、折れたり、自分の意見を曲げたりするのはおかしい」
そんなようなニュアンスだったと思う。
(レコーダーでとっておきたかったくらい名言だった)

本当は、肯定的意見が大半であるにもかかわらず、
ほんの一部の強烈な批判的意見やネガティブな言葉に世論が傾いてしまうことが多々ある。
そんな光景をみるたびに、かなしくて、胸が痛む。

日常でも、たった1人から言われたよくない言葉が、ボクシングのアッパーのようにこたえ、ひたすら落ち込むことがあるだろう。
そうなると、困ったことに、たくさんの愛のある言葉、温かな言葉が聞こえなくなってしまう。
たった1人、されど1人である。

逆に、たった1人の温かな言葉が、嬉しい言葉が、美しい言葉が、一気の心に花を咲かせることもある。
たった1人、されど1人なのだ。

もちろん、間違いの指摘や助言など、厳しい言葉でも納得のいく指摘もある。
傷つきはしても、とてもありがたく、受け止めるべき言葉だ。

でも、世の中は、なかなか全会一致にはならない。
だから、小さな反対意見に、自分とは異なる意見に、必要以上に振り回されたり、傷ついたりする必要は、おそらくない。
(とはいえ、そのときは傷つくんだけど……苦笑)

せめて、少数の反対意見に折れそうになったら、
大多数の温かな言葉に耳を傾けようと思う。

ちなみに、名作ほど、賛否両論意見が分かれるものだと言われている。
人気者ほど、「否」を唱える人も多く生まれるということ。
それだけ、多くの人の心を揺さぶっているということ。
人気者も大変なのだよなぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?