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【思弁:この宇宙の片隅で】vol.1

私は2023年8~9月,慢性的な希死念慮に深く悩み苦しんでいた。人生最大の危機であった。今になって,その時何を考えて,そしてどのようなプロセスでここまで来たのか,言語化してみたい。
私がなぜ希死念慮を抱いていたのか。その理由は「絶望」であった。絶望と言っても,何か要因があるようなものの類ではなく,実存的な絶望であった。
私のこれまでの人生は,常に,いくばくか先鋭化されていた。例えば,「受験のために頑張る」とか「何者かになりたい」とか「何かのために何かをしたい」とか…。何か目的や意味,価値を見出して,何かの感情や知覚・認知を味わうための行動的な意思。そういうものが自らを規定し,外の空間に対して影響を及ぼしている。そして,私は気づく。何もかもが,目的的・意味的・価値的な意思が具現化された行動や現象,またその目的自体,意味自体・価値自体が超客観的に見れば,相対的に見れば,無価値で無意味で「くだらない」ということに。人生は何かに対する絶望と再構築の連続である。ある局面や状況に置かれた人間は,何かを相対化させて,価値や意味や目的を変化させていく。そのプロセスに私は飽き飽きしたのである。そして思うのである。「なんて自分は小さくて一人(one)なんだ」。しかし,この思考は絶対的だったのである。これだけは真実だった。ゆえに絶望した。私は,宇宙をかなり旅してきた。その中で,ある惑星に降り立つと,今まで遠くに輝いていた星たちがこんなにも近くになるとともに,出発点だった星系たちは,粉々となったのである。その旅の途中で,もう粉々となった星たちを見て,「ああ,こいつら星たちは粉々となったのだ。どうせ遠い。もう行かないだろう。行く価値もない」と思う私のコモンセンスに品を感じることは到底できず,そして孤独で,「もう疲れた。こんな品性の欠片もないoneなんて。死んでやるか」。
結局,まぁ生きているわけだから,死ぬという選択はしなかった。何か希望を見出した訳でも,生きることに価値や意味や目的を見出した訳でもない。ただ,自分の命を積極的に終わらせることが非常に面倒くさく感じたのだ。
 
また更新します。

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