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臨床心理学における学派論争への私論

臨床心理学とその学派論争において重要なテーマの一つに「人間性への疑義(ここではあえて人間性の否定とまでは言わない)」がある。特に,精神分析家間,あるいは行動療法に対して,1900年代,長らく論争が行われたことは事実である。特に有名なのは,クラインvsアンナ・フロイトの論争だ。この論争は,非常に感情的な白熱した論争に至った。臨床心理における学派論争の大きな特徴は,一般科学(数学・物理など)と違って,心理療法の理論や核心となる考え方が,発案者の人間性や生涯の臨床経験に大きく依存している点があるということだ。つまり,私が言いたいのは,臨床心理における学派論争というのは,少なからず,発案者やその療法を支持する人々の知識や経験に疑義を呈したり,あわよくば否定に至ることがあるということだ。しかしながら,私たちはここで,大きな間違いを犯してきたように思う。あくまで,学派論争やその考え方を議論するのは,臨床心理学の発展,および,その臨床心理学の対象となる被支援者に還元するためである。それなのに,学派論争という名目のもと,人格の否定と攻撃に走ってしまうことは多々見られることだと思う。学派論争という高尚なものでなくとも,同じような現象は,大学院の事例検討会(私は学部生なので聞いた話ですが…)で個人の人格攻撃や否定に注力する不毛な学生や教員がいるのはよく知られたことだろう。つまり私が言いたいのは,覆すことができない私たちの経験をまず認め,尊重したうえで,その心理療法に宿る人間性を問うということである。
ここで,よくある学派論争が起きた時に言説されるものを検討したいと思う。
・「Clのためになるなら何でもいいと思う」
→半分賛成,半分反対。この言説は心理臨床に比重を置きすぎた論理であるように思う。心理臨床と臨床心理学は相補的な関係である。臨床心理学における理論の検討,効果研究などの定説が心理臨床に役立ち,心理臨床での体験が臨床心理学にさらに還元される。これこそが「科学者-実践家モデル」の核心だと個人的に思っている。もしこれを無視し,「Clのためなら何でも」という考えの行きつく先は,極論になるかもしれないが,フェレンツィの24時間治療契約や治療構造の破綻,セラピストとClの治療構造外の多重関係にまで及びかねない。
・「こういう学派の人たちは○○の本とか読んでなさそう」
→非常に生産性に欠ける,無意味な発言だと個人的には思う。こういう発言の本質は「内集団びいき」だろう。つまり,概念・集合Aについて語るには,集合Aの人たちだけという非常に隔離された議論を起こす。この論理は,現場至上主義の人がよく使う文句である。「じゃあ,お前がやってみろよ」「何も知らないで」。そういう言葉が飛び交う。確かに,現場のそういう気持ちは当然あって良くて,尊重されてもいいと思う。ただ,集合Aの人たちが集合Aについて語る時に耳を傾ける程度と同じくらい,集合Bや集合Āの人たちの言葉にも耳を傾ける必要はあると思う。
補足;【私の中の学派のイメージ】
それぞれの心理療法というのは,一つの山みたいなもので,心理臨床家は皆,登山家という仲間である。富士山好きもいれば,駒ヶ岳を好む人もいる。それぞれ違う山を登っていても,同じ高山植物に出会うかもしれないし,ギラギラと光る太陽は同一のものだし,酸素が薄いのも同じだ。学派の事から逸れるけど,登山というのは非常によくできた比喩で心理臨床のプロセスを表現するのには最適だ。例えば,下山できないような山には登らない。登山届をしっかり出す。ゴミは持ち帰る。

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