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紅茶好きな猫

窓から差し込む太陽を浴びて、フサフサの毛を芯まで暖かくさせる。大きなあくびを一つすれば、また微睡の中へゆったりと落ちていく。
フワリ、と微かな香りが鼻を掠めた。あの大好きな華やかな香り。主人がよく飲む、紅茶というやつ。
私と出会った時からずっと、彼は紅茶を毎朝かかさず飲むのだ。あれからもう10年も経つ。
そのおかげで私もすっかり、猫界の紅茶マスター。
‥飲んだことは無いけどね。

それより今日はなんの紅茶だろう。アッサムか、ディンブラか、アールグレイか。あぁ、今日はダージリンなのね。それもたぶんファーストフラッシュ。
身体を大きく伸ばすと、先程まで全く動く気がなかったはずなのに不思議な魔法がかかったかのように、紅茶の香りを道標に歩き出す。丸い一人用のテーブル、一つだけの椅子。家具からわかるように、主人は他者をこの家に招く気は一切無い。自分の殻に閉じこもる人。その椅子に主人が座っていた。
芳醇な紅茶の香りと、主人の果実のような爽やかな匂いが混ざり合う。この部屋は私の大好きなもので埋め尽くされていた。

主人はいつも休日は、こうやって紅茶を飲みながら本を読んで過ごす。今日読んでいる本は、シェイクスピアの『ハムレット』。主人公ハムレットは、父を殺し王の座を奪い、あろう事か母と婚姻した叔父を殺すことを誓う。一方で、最愛の恋人オフィーリアを裏切らなければならなくなり、その葛藤に苦しむのだ‥。主人が私に教えてくれたストーリー。

主人が何度もこの本を飲み返すのには、何か訳があるのだろう。いつも悲しそうな顔をして読んでいる。私はこの本が嫌いだ。主人にはずっと笑っていてほしい。
「にゃあ」
私は主人の膝の上に乗り丸くなる。そうすると主人はいつも笑って優しい目で私を見る。白く細い手が私のボサついた毛を綺麗に整えるように撫でてくれる。

─私は知っている。
主人が誰かにとってのオフィーリアであることを。
そして主人は哀れにもまだ、私の知らないハムレットを想っていることも。だから一人でずっとこの大きなお家に住んでいるのだ。ハムレットが戻ってくることを待ち続けている。それまでは誰とも深い関係になりたくないのだ。
原作のオフィーリアは恋人に裏切られ気が狂ってしまい、川に身を投げてしまうが。

主人には猫がいる。

私が主人を孤独から守るのだ。そしてハムレットに一発猫パンチをお見舞いするのだ。

「君は本当に紅茶が好きだね。」
「みゃあ」

そうだよ。

「僕も大好き。」

貴方が好きだから私も好き。

「でも奴は‥。紅茶が苦手なんだ。だから僕とは気が合わない。」

「奴は‥。」

黙ってしまった主人の頬を舐めると、お塩の味がした。

玄関のチャイムが鳴る。ドアの向こうから嗅いだことが無い匂いがした。

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