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推しの子をみて

週末に推しの子を観にいった。元々作者が好きで推しの子を見ていったのが、とても心に刺さることが多かった。なぜなら推しの子では人に対する嫉妬に対する行動がとても心に刺さったからだ。
 特に最後のシーンは内容を知っていたのだが、とても心にきてしまった。なぜなら好きな人に対しての嫉妬や、思い込み対してのあの行動は人として最低であるのに理解していしまう自分がいたと言うことだ。
確かに自分が好きな人の幸せは応援することが道理なのだが、思い出が深ければ深いほど嫉妬とい魔物が強大になり牙を向いてしまうと思う。
 事実私はそのような魔物が表に出ていないのだが、その魔物が出て来ようとロックをしたり出てこようとすることがある。特に一番出て来ようとしたときはその人が他の人と幸せの道を手に入れたときだ。
 確かに私はその人と幸せの道を歩もうとはしていなかったし、その人も考えてはいなかったとはおもうが、いつも一緒に楽しい時間を共有していたのでその知らせを聞いたときに、「今までの時間はなんだったのか」「なぜ今まで苦楽を共有していたのになぜ」というのが出てきた。そしてその時私の中の魔物が、「思い出してやれ」「制裁を加えろ」とい言葉を大声で言ってきた。しかしその魔物はなんとか抑えることができたが、相手に対してから笑いをしてしまったと今でも思ってしまう。
 そう考えると推しの子の最後のシーンのあの行動は、魔物が表に出て牙をむけたしまった世界の私なのかもしれない。
 しかしこのことは、本当にあるのかと人は言うかもしれない。だが現実世界でも魔物が牙を向くことはあると思う。
 現実問題最近ではvtuberに彼氏がいたと知り、ファンが性的暴行を加えるという事件が起きた。その犯人に対して人は「やばい奴」だと思うのが一般的だが、その人のことを見るとそのvtuberと時間を共有したり、苦楽を共にしたと伺える。そのためその犯人も行動は非難されるべきだが、自分の中の魔物が強大になり制御できなくなってしまったのかという考えもできると思う。そうなるとやはりどんな人でも嫉妬という魔物は、人との思い出を栄誉として成長してしまう思う。
 このように見てくると私含めて人と言うのは嫉妬の魔物を自分の中に飼っているということが推しの子を見て感じた。

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