複数性の狭間で、大衆のなかで
誰もが自分が生きるその時代からは逃れられない。そして誰もが、その目の前の瞬間に選択し続けなければならない。その自分に課せられた選択の連続は誰にも肩代わりしてもらうことはできない。自分のことは自分ですべて引き受け続けるしか、いやあるいはそのこと自体が人間として生きることなのだ。
資本主義・民主主義といわれる日本に生まれて、これまで生きながらえてきて、愛国心がほとほとないことに気がついた。愛国心は狭隘な心情にすぎないのかもしれない。しかし愛国心のない人間がそれ以上に大きい概念や心情を自分のなかで再現できるだろうか。もっといえば、自分の住む地域にも愛着がない、自分の踏んで歩く大地に愛情を感じない人間が、それ以上を感じることができるのか、とも思う。
不運にも、日本では多くの人間が、傍観者であっても生きて死んでゆける。
しかし傍観者として生きながらえることはしない。傍観者として生きるということは、与えられたものにただ満足しきって生きるということだ。
だれもが自由に、公正に、独立した個であるお互いを認め合いながら生きて死んでゆく世界。自分の望む世界、自分のやりたいことのために誰もが思うまま人生を使うことができる世界。その圧迫も搾取もない世界の実現のために自分は生きる。私に賛同する人間がいるかいないか、そんなことは私には意味がない。ただ自分の望む世界のために、自分の選択と行動を繰り返すだけだ。私が信じるのは、人間の意志の力。私はそれを、未来を志向する人間の本質そのものとみる。それゆえに誰もがもつもっとも強い人間の力と考えるし、それゆえに強く信じもする。
堕落し没落した大衆の世紀、あるいはそれゆえの暗黒の時代、いまの世界を未来からみれば、そのような言葉になるかもしれない。残念ながら、いま生きている人間の多くは自分のちからをすら信じていないように見える。それゆえ目の前にいる人間さえも無力な人間であると錯覚してしまう。
均質な、あるいは平等化された人間と、違いを明確にしようとする個との狭間で苦しむのが現代人の宿命であるという。それゆえ、目の前にいる人間と「私」とのあいだに明確な違いを認めることを拒絶するのかもしれない。しかしそれを踏み越える道のひとつが、自分も相手も自由な個であると認識することではないだろうか。さらにいえばいま「私」と認識している自分とほんとうの自分との差に気づくことではないか。すなわち、あれもこれも制約を抱えている「私」と自由であるほんとうの自分との差にである。そうして気づいたものを信じさえすれば、目の前にいる、目の前で生きている人間も信じることができるのではないか。そうすれば、人間同士の均質性という枷が、こんどは「私」を助けてくれるはずだ。
そうして相互に信じることができるようになってこそ人間は、自分の望む世界ややりたいことのために、より自在に生きられる。そして死んでゆける。
そうして世界に残したものを、あとで誰かが拾い上げるか踏んで歩くか、そんなことは運でしかない。「私」たちはただ望み、選び続けるだけだ。
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