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【連載小説】黒い慟哭  第5話「誘惑」

 友香が家に着いたのが午前9時前だった。道中すれ違う者達からは怪訝そうに見られた。小学生の群れが友香に向かって指をさして笑っている、パジャマのはだけ方を見て可哀想にと悲観の顔を向ける者、見て見ぬふりをする者様々だが、それもそのはずで朝の時間にパジャマ姿の女性が出現すれば、それはただ事では済まされない。ましてや両手で大事そうになにかを包んで歩いてるなんて、ドラッグのやり過ぎで飛んでいるのか? はたまた夢遊病の類ではないかとすれ違う人々にそのような目で見られていた。。
 その時の友香はもはやそれどころではなかった。とてもではないが、周りを見る余裕などなかった。早く帰ってこの子達の安全を確保してあげないとその一心だった。帰路に着くと足の裏がしもやけでいくつもの傷口が口を開いてそこから、血が滲み出ている。
 血の付いた足跡をつけながら廊下を進み白いカーペットも気にせず踏み荒らし赤く染めた。
 蜘蛛達を透明のアクリルケースに入れた。
『ありがとう……』それ以後、蟲の声は聴こえなくなった。ふと、この死んでしまった一匹はどうするのだろう? そのようなことを考えた。
 ケースを這い回る足音がだけが、耳に残った。
その後、身体が異常に冷えていたため、パジャマを脱ぎ捨ててシャワーを浴びに浴室に入った。足の裏から流れる血を見て身体が弛緩していくのを感じた。
 浴室の扉を開け洗濯機に置いてあるバスタオルに手を伸ばした。室内の湯気に紛れて体を拭いた。
 浴室から出ると思ったより寒かった。
部屋の暖房を入れ忘れていた事に気が付きリモコンを操る。黒のジャージを身にまとい足の裏に絆創膏を貼る。
立ち上がった時、ベッドの上のスマホに気付く!
(あっ! 私ったら、スマホも忘れて外に行くなんて危ない危ない)内心そう、思い画面を見る。
悠介からラインが入っていた。
内容はこうだ!
 【おはよー、返事がなかったから、まだ夢の中かな? 今日の夜、会いたい】
朝の8時過ぎのメッセージだ。
既読だけつけてスマホをベッドに放った。
 友香は遅い朝食を食べようとキッチンに立った。今日は朝昼兼用になりそうだ。焼けたトーストにバターをたっぷりと塗り
フライパンから目玉焼きとその脇で転がしたウインナーを皿に盛りカット野菜を添えた。
 ポットから紅茶を入れテーブルに置いた。調理時間は10分だった。
トーストを齧る。サクッと良い歯ごたえにバターが溶けた香ばしいパンの味が口いっぱいに広がった。頬張りながら、紅茶を一口啜る。サラダに青じそドレッシングを少量かけた。
 いつもの朝食が終わり、シンクで洗い物を済ませ、お気に入りの映画を観ようと次はコーヒーを片手に持ってテレビの前で腰を落とした。

 悠介はスマホを気にしながら、落ち着きがなく部屋の掃除をしていた。
掃除機の騒音を気にすることなく勢いに任せて体を動かしている。その表情はどこか生気が抜けていた。友香からのラインの返事が未だにないのだ! 時刻は午後15時を回っていた。
 まだ、約束も成立していないにも関わらず悠介はクローゼットを開けて今日のコーディネートを考えていた。
「今日は大事な日だ! このスーツにカッターに腕時計は……」溜め息が零れた。
刻一刻と過ぎていく時間に焦燥感を感じて居ても立っても居られないのだ。
 掃除をしたのも気を紛らわせるためである。
しかし、今夜のプロポーズの後はこの部屋で一緒に過ごす予定なのだが、肝心の本人からの連絡が無いのでどうしょうもない。いっそうこちらから……いや! 焦ってはいけない! 婚約指輪のケースを握りしめて頭を横に振り冷静に待つことにした。

 映画を観終わりテレビの電源を切り、蜘蛛の様子を見に行った。
アクリルケースを見た時、友香はギョッとした。3匹と死んだ蜘蛛がいたのだが、そこには3匹だけしかいなかった。
共食い……お腹が空いていたのか?
友香は改めて考えた。
死んだ蜘蛛は他の3匹に吸収され身体の一部となったのだ。そのように考え直した。そのうちの1匹と目が合い頭を下げられたように感じた。
(蜘蛛から感謝されるなんて……)
ふと、涙が零れた。
(私もこの子たちのように1つにならなくては……)
 すぐさまスマホ画面を操作した。 
 (悠介……ちがうよね? 大丈夫よね?)
複雑な心境の中で悠介を信じて会うことにした。

 午後16時半、悠介のスマホにラインが入った。慌ててスマホを取り上げ画面を確認すると友香からのラインだった。
【返事遅くなってごめんなさい。何時に会う?】
すぐさまラインで返信をした。
【夜の20時にいつもの駅で待ち合わせで大丈夫?】早い返信が逆に不快に感じさせないだろうか? 
 ピロピロピロピロリ〜ンー♪
意外に友香からの返信が早く返ってきた!
【了解しました】その後に敬礼をしている顔文字が嬉しかった。
俺もそうだが、友香も絵文字やスタンプをあまり使わない。それに好感を持てた。
絵文字を使いすぎたラインは読みにくいしスタンプをポンと返されては逆に面倒くさがられているのか? 色々と考えてしまうが、最後に顔文字がさり気なく入っている方がより相手の感情がわかりやすいと悠介は思っている。
 敬礼の顔文字を見た瞬間、スマホを握りしめて1人でガッツポーズをした。
気持ちが昂ぶった。
〈男には人生で一度だけ度胸がいる〉
悠介はこの言葉を自負している。誰から言われるのではなく自らの言葉をこの一行に決めて生きてきた。
 告白ではなくもっと大事な事『プロポーズ』今夜それが試されるのだ。
時計に目をやる。午後17時だった。緊張が始まった。心臓の鼓動が聴こえる。
今から緊張していては先が思いやられると思いながらも緊張をごまかすために眼鏡を拭いた。

 帰りの電車でうつむいたまま揺られている1人の男……寝ているのか? いや、違う! 泣いているのだ! 
 今日までの苦労が水の泡になってしまった。早くも大会予選2回戦敗退を期してしまい振り出しに戻された賢治が泣いていた。オンラインで対戦するのとはわけが違った。オンラインなら多少の弱者がいるわけだが、格闘ゲームの大会で弱い人間など居るはずがなかった!ましてや1回戦を紙一重で勝利した賢治の腕前はうなるはずもなく2回戦はコテンパンにKOされてしまったのだ。
 行きは軽く感じたリュックも帰りは重く感じた。
(全てはあの女がいけないんだ!)
(あの女の顔がチラつくから集中できなかったんだ!)自分の失敗を人のせいにする、賢治の悪い癖だ。
(また、頑張ろう)
自分に言い聞かせるようにして目を閉じた。

「口に合うかな?」
「と、とても美味しいです」緊張気味の彼に対してニコリと笑ってみせた。
「佐藤君、そのスーツ似合ってるよ」亜美の言葉にどう答えたらいいのか返答に困ったがこの日のためにスーツを新調した事は秘密だ。
「男性のスーツ姿って好きよ♡ ところで佐藤君は明日は予定とかある?」ワインを一口飲んで頬を赤く染めて聞いた。
「いえ、特にないです」一方的に亜美が会話の主導権を握る。
「そう、それはよかったわ」テーブルの下で短いスカートを履いた脚を組み替えた。
「こういうオシャレな店は初めてだから……緊張して……」そう言う彼に彼女はカットしたチーズを口に含みワイングラスに口をつけて、こう云った。
「私と一緒だから、緊張するの?」試しに聞いてみた。
「はい」ひと言照れながら佐藤隆史は言った。
「嬉しい♡」と顔を赤くして両手を頬につけ佐藤隆史の目を見つめた。
「まさか、こうして亜美さんとお食事ができるなんて夢みたいです」お酒の酔いも手伝ってか、だんだん饒舌になる隆史に亜美は「佐藤君少し酔ってる?」と身を乗りだして顔の前で手を振る亜美の顔がすごくキュートに見えた。
「佐藤君って意外とキザな事も言うのね」脂が乗りきったお肉を箸で持ち上げた。口の前で止めて「お世辞でも嬉しいわ」と上目遣いで挑発した。
「いえ、お世辞ではなくて……」男のくせにか細い声で呟いた。
「ふふっ」亜美は隆史の顔を見て「佐藤君ってなんだか、かわいい」。
 お肉を口の中に入れると「柔らかくて美味しい」と微笑んだ。
しばらく世間話をして気付いたのだが、彼女はどうも、アクセサリー系が好きなのだろうか? 亜美が右手で髪を触った時だった、右手にはめられたブレスレットが袖の中へ消えていくのを見た。ハートのブレスレットだった。
 ネックレスもハートをあしらったデザインのものだった。
「亜美さんはティファニーがお好きなんですか?」思い切って聞いてみた。
「ふふっ」亜美が笑って身を乗り出して隆史の顔に近づいてピアスを見せた。
「可愛いでしょ? これもティファニーよ」小さなハートが振り子のように揺れていた。
 隆史は圧倒されながら、「女性らしくていいですね」と赤面しながら言った。
「でしょ、ありがとう」仕事を頑張った自分へのご褒美に購入するのばかりで一度も誕生日や記念日で貰った事がないとため息をついた。
よかったら、今度僕が買ってあげますよ。そう言うと亜美の顔がパァと明るくなった。
またもや身を乗り出して子供のみたいに嬉しそうな顔をした。
 周りの目を気にしたのか亜美が舌をペロリと出して笑った。
(なんだか、天使みたいな人だなぁ)
彼女から発するフルーティな香りがたまらなかった。酔った勢いで思わず聞いてしまった。
「亜美さんのつけている香水って……」
少し間を置いてから亜美が話した。
「イギリス発祥のランバンよ。モダンプリンセスっていう香水なんだけどピンクアップルの香りが好きでずっと愛用しているわ」
 以前はブルガリをつけていたらしい、が彼女曰くこちらを見つけてからは変わっていないと言う。
「佐藤君そろそろ出ない?」勘定に手を伸ばした亜美の手を静止するように自分の手を重ねた。
「あっ!」
「すいません、勘定は僕が」慌てて手を引っ込めた。
「じゃーよろしくね」と亜美が勘定を両手で差し出してきた。
勘定を受け取る時、亜美は手を離さずに隆史の目を見て「このあと、うちに来ない?」
 ヒールを履いているにもかかわらず、頭一つ分背の低い亜美が上目遣いで呟いた。
隆史は小さくうなずいて会計に向かった。
亜美は隆史の後ろ姿を目に映しながら、口角を曲げた。
 隆史は震える手で財布から小銭がうまく掴めずにいる。
嬉しいのだ! 今夜、真の男になる。
まるで子供みたいな事を考えていたが、男という生き物はそんなもんだ! と考えを否定せずに受け入れた。
 気の持ちようとは、よく言ったものだが、その言葉は自分のためにあるんじゃないかとさえ考えた。
 店から出ると亜美が腕を組んできた。
「外は寒いね、早く行こ♪」頬を赤くしてほろ酔い気分の亜美が軽いノリで言ってきた。
 彼女の胸がときおり肘に当たる。
コート越しでもわかる弾力をしばし堪能した。
俺は亜美の顔を見つめてクールに微笑んだ。

 フランス料理のフルコースも終盤を迎えた時、店内の一部で拍手が沸き起こった。
 悠介が地面に膝を付き友香の方へ腕を伸ばしている。手のひらには婚約指輪が照明に照らされてきらびやかに輝いていた。
プロポーズをしたのである。 
もちろん友香も2つ返事で了承した。
隣の席に座っていた1人の紳士が悠介の男らしさを讃えて拍手をしたのである。その男性の拍手が号令となり他の席でも拍手が沸き起こった。
悠介はやりきった。思いの外、恥ずかしさはなかった。
「見て見てあの人達よ」
「素敵よね」
「お似合いのお2人さんよね」などと話し声が耳に入る度に友香は顔を赤面させていた。左手の薬指にはダイヤが輝いていた。
ダイヤは小さいが十分だった。友香は嬉しさのあまり涙を流した。
〈自分は見捨てられていなかった!〉
自分をウサギと称していた邪悪な心は完全に払拭されていた。
悠介が眼鏡を上げ困惑していた。
どっちの涙なのかと、当然嬉し涙に決まっているが悠介には、それが分からなかったが、ハンカチは準備していた。
 自分でもわかっていた。
いくら気丈に構えていても根本的な部分は変わらない。ほんとうは気が弱いのだ。それが、かえって仇になるときもある。悠介を信じてよかった。
ちゃんと迎えに来てくれたのである。
 差し出されたハンカチで拭いながら、友香は過去の自分を振り返っていた。
周りのざわめきも落ち着き2人はシャンパングラスを鳴らして飲み干した。
 店から出ると雪が降っていた。
雪まで俺達を祝福してくれているようで嬉しかった。再来週はクリスマスだ。
 結婚式の段取りやご両親へのご挨拶もある。今年の師走は忙しくなりそうだ。

「さぁさぁ、入って入って〜♪」
押し込まれるように部屋に入った。
「寒いね、雪まで降ってるから」
彼女はコートを脱ぎながら、奥の部屋に消えていった。
 短い廊下の右手にトイレがあり、リビングに続くドアの右側には、洗濯機その隣に洗面台があった。その手前は浴室だろう。 
 すでにリビングは暖かい。俺がこの部屋に来ることを前提としてエアコンのタイマーをかけてくれていたのか? 隆史は納得したかのように首を縦に振った。
(相変わらずいい女だ!)それとは裏腹に隆史は動揺していた。人生で初めて女性の部屋に入ったのだ。部屋を舐め回すように見渡す。
 女性らしいピンクピンクとした部屋ではなくモノトーンに統一されたシックな部屋は意外だった。
(これが、大人の女性の部屋か)隆史はそう感じた。
正面に液晶テレビがどっしり腰を落としてこちらを睨んでいた。視線を右に移すと正方形の棚が階段状に置かれている。
 しかも、オシャレな事に白と黒を交互に置いている。そこに、観葉植物が申し訳無さそうに棚の一角を占領していた。
亜美が入っていった奥の部屋はおそらく寝室だろうか? 隆史は気になったが、視線を戻した。
1LDKのマンションに1人で住むには十分な広さだ。
 その時、奥の部屋から上下スウェット姿の亜美がタオルを持って出てきた。
「はい、これ」タオルを手渡された。
「ありがとう」雪で濡れていた髪をタオルで拭った。いい匂いがした。
 食事の時のグラマラスなボディラインがはっきりとしたタイトスーツ姿とは違って、今度はスウェット姿だ。ラフな格好も可愛かった。
 すると、廊下の方からバシャバシャと水が出る音が聞こえた。
ドアを少し開け顔だけ覗かせた亜美がこう言った。
「今、お風呂の準備してるから座って待ってて」とニコリと笑った顔がいちいち可愛かった。内心彼女はどういうつもりなのだろうか? いくら職場つながりとはいえ男を平気で家に上げるとは……考えた結果、俺に興味があるんだろうか? そう自分で解釈した。
 キッチンに移動した亜美がお盆を持ってテーブルに置いた。そこには、ビールとピーナッツが入った器が載っていた。
再びアルコールが入ることで程よい緊張と期待に胸を膨らませていた。

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