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地理Bな人々(27) マリア② 世界遺産・ナンパ

 咄嗟に返事はしたものの,ナミビアまでの旅費を貯めるにはかなりの時間が必要だった。
 恭子さんの指令通り,中島ノート整理以外の作業で資金を貯めるとなると,オッキアーリのバイトだけでは足りなかった。
 僕は他のアルバイトを探すことにし,とりあえず半年後くらいをめどに計画を立てよう,とぼんやり考え,まずは,図書館でナミビアについて調べた。ナミブ砂漠も世界自然遺産※1に登録されているのだ。
 
 資料のコピーを取って学食に行くと,マリアが見知らぬ男子と話をしているのが目に入った。
 彼女は険しい顔をして男の手を振り払うような動作をし舌打ちをした。
 男はバツが悪そうな顔をして去って行った。
 僕が日替わりランチを持って彼女の前に座り「どうしたの?ケンカ?」と聞くと,窓の外を見たまま呆れたように「ナ・ン・パ」と言った。

「全く何考えてんのかしらね。学食で声を掛けてきた男の誘いにホイホイと乗ってくるとでも思ってるのかしら。ていうか私がそう思われているっていうのが悔しいわ。」
 彼女は手に持ったペットボトルを握り潰さんばかりの勢いで言った。
 タイミングが悪かった。
 不機嫌なマリアの相手をするのはかなりエネルギーが必要だなあ,と考えていたら,
「何,その本?」とマリアが言う。                     
「ああ。世界遺産検定のテキストだよ。」                     
「へえ。そんな検定があるの。」                          
「うん。高校時代に2級を取ったから,また挑戦しようかなと思ってね,さっき図書館で借りてきたんだ。」             
 彼女は1級の公式テキストをパラパラとめくりながら言った。
「こんな辞書みたいな本を覚えなくちゃいけないの?」
 僕はリュックから下巻を取り出して「もう1冊あるよ。」と見せた。
1級は全ての世界遺産が出題範囲になっている※2からね。」

「世界遺産て,いくつあるの?」
「1100くらい。」
「そんなに? 100とかじゃないんだ。何だか有難みがなくなる感じじゃない?そんなにあったら正直ショボい世界遺産だっていっぱいあるんでしょ?こんなナントカ修道院なんて聞いたことないわ。」
 そう言って,彼女は適当に開いたページを指さして言った。
 僕は苦笑した。
「確かにそうともいえる。数をあまり増やさないようにしようという動きもあるからね。でも,マリアは『ユネスコ憲章』の前文※3て知ってる?」 
「That since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed.てやつ?」
「すごい。英語で言う人を初めて見た。有名な一節なんだけど,結局,他民族の文化を理解しないことがそもそも戦争の始まりなんだから,まず他の人たちが大切にしている宝物を評価して認め合おうよってことで世界遺産は始まったんだよね。」

「世界遺産ていうのもユネスコなの?」
「うん。その中に世界遺産委員会※4,ていうのがあるんだ。」
「でもね,宝物を大切にしましょう,っていうのは確かに聞こえがいいけれど,例えば3歳の女の子がいつも肌身離さず持っているボロボロにほつれたクマのぬいぐるみはいくら宝物でも世界遺産にはならないわよね。」
「世界遺産に登録されるための条件は,普遍的価値(OUV)※5があるかどうかってことで判断されるんだ。」
「何それ。」
「国家や宗教とかの枠組みを超えた,人類全体にとっての将来にわたる共通した重要性を持つような傑出した価値,っていうように説明されているね。」僕はテキストの該当ページをかいつまんで説明した。
「何だか役人の文章みたい。」
「分かりやすくいえば,各国の代表が, 我が国にはこんなスゴイものがあるんです,ってアピールして,それを他国の人がそうだね,って言ってくれれば世界遺産に登録される,っていうことだよ。」
「じゃあ結局,どんなに“価値がある”って主張しても,大多数の人がふーんってスルーしちゃうものは世界遺産にならないのね。」 
「まあそうだね。」   
「じゃあ結局多数決ってことじゃない。」
「確かに世界遺産委員会では多数決で登録か不登録が決まっている。そして,数が増えすぎだ,という批判も確かにある。それに,その遺跡の価値を大切にしようというより,世界遺産に登録されれば観光客が増えて儲かるぜ,という動機で登録を目指そうとしている場所も多いような気がする。」「私はクマのぬいぐるみを大切にするタイプだな。命がけで修道院を作った人達には悪いけど,私は〝私遺産”さえあれば良いわ。たとえ世界中からショボいって言われてもね。」
「カッコいいね。マリアらしい。」

「で,その1級に合格したらどうなるの? 水野ッチに何かメリットはあるの?」
「あるのかなあ。分からない。ただ興味があるからやってきただけで。」
彼女はテキストをパラパラとめくり,あ,あたしココ行ったことある,と彼女が指さしたのはUNAM※6だった。
「ママがここのキャンパスに時々出入りしてたの。確かに大きな壁画がいっぱいあったわ。ビル全体にタトゥーを入れたみたいなの。あそこ世界遺産だったんだ。知らなかった。」と覗き込む目がキラキラしていた。
 とりあえずナンパされたイライラはどこかへ吹き飛んでいたようで僕は安心し,鶏の照り焼きランチを美味しく食べた。
 
「水野ッチおススメ世界遺産はどこなの?」  
「お勧めって言われても外国へ行ったことがないからなあ。」
「それでも良いわよ頭でっかちくん。それだけ勉強してたら,あぁここスゲーっていうのがあったでしょ。そこを教えて。ハイ,今から1分以内に5つ言って。」
 彼女は腕時計をストップウォッチモードに換えた。
 僕はあわてて,
「あ,えーと,まず『シュトルーヴェの測地弧』かな。あとは…『バッファロー狩りの断崖』。それから『ホージャアフマドヤサヴィー廟』。あとは,うーん…『マサダ国立公園』と『ステウンスの崖壁』以上※7。何秒?」
 彼女はアップルWatchを見て「27秒」と言ってから大声を出して笑った。 
彼女が爆笑するのを初めて見た。

「あなたってホントに面白い人ね。何なのそれ。私はいま宇宙人と話しているの?シュトなんとかってなあに,どこかの街?」
「シュトルーベ。人の名前だよ。19世紀に東ヨーロッパを経線に沿って歩いて三角測量をした人。まあ, ヨーロッパの伊能忠敬っていう感じかな。」
「へえ。初めて聞いた。でも,水野ッチって,つくづく指向が地味よねえ。普通はそういう時『モンサンミシェル』とか『オペラハウス』とか『ヨセミテ』※8とか言うもんじゃないの?ヨセミテは行ったことあるけどいいとこよ。人がいすぎてうんざりだけど。」
「昔からメジャーなものにはあまり興味が湧かないんだ。どうしてだか分からないんだけど。」
「まあ,そこが水野ッチらしいのかもしれないけどね。」
「そう言われると思ったよ。」 
 
 彼女は席を立ちながら,
「でもね,今と同じ質問を外国人にされたら,一つくらい日本の世界遺産※9の名前を入れておいた方が良いわよ。」と言った。
「どうして?」 
「それが普通だからよ。君は日本人なのに日本の世界遺産を勧めないのかいっ,て聞かれるわ。」
「そうなんだ。」
「あと,もう一つ。水野君はナンパしたことある?」
「僕? ないよ。考えたこともない。」
「ふうん,オッケー。でも,キミは一度くらいナンパしてみた方がいいと思うよ。」
「どうして?」
「何か一皮むけていい男になるような気がするな。」
「どういうこと?」
「そのままの意味よ。今より良い男になれるような気がする。」
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※1 ナミブ砂漠も世界自然遺産   
ナミブ砂漠が登録されたのは2013年。ナミビアには世界遺産は2つあり,もう一つは北西部のテゥウェイフルフォンテーン。先史時代の狩猟民族の信仰や生活が岩絵として残る文化遺産である。この地域はアフリカ大陸で最も多くの岩石芸術が見られる場所として知られている。 
 
※2 1級は全ての世界遺産が出題範囲になっている
世界遺産検定では4級~1級とマイスター,があり,4級は30遺産,3級は100遺産,2級は約300,1級は全て(1154遺産/2023年)が試験範囲となる。2級から1級になると極端に合格率が下がることが影響したのか,2024年度からは準1級が新設された(約700遺産が試験範囲)。
 
※3 ユネスコ憲章前文 That since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed.
――戦争はひとの心に中に生まれるものであるから,ひとの心の中に平和のとりでを築かなければならない。
この後に以下の文が続く。
「相互の風習と生活を知らないことは,人類の歴史を通じて世界中の人々に疑惑と不信を引き起こした共通の原因であり,この疑惑と不信のために,世界中の人々の差異があまりにも多くの戦争を引き起こした。」
 
※4 世界遺産委員会
1976年設立。21ヵ国で構成される。通常1年に1度開催され,各国から推薦された遺産に対して登録か否かを決定する。
 
※5 普遍的価値(OUV)
Outstanding Universal Value
 
※6 UNMA
メキシコ国立自治大学(UNAM)の中央大学都市キャンパス。1949~1952年に建設。2007年登録。先住民の文化と芸術をモダニズム建築工学と融合させた建造物群による先駆的な大学都市。
 
※7 世界遺産5つ
「シュトルーヴェの測地弧」は北欧から南へ10ヵ国にまたがる文化遺産(2005年登録)。「バッファロー狩りの断崖」はカナダの文化遺産(1981年登録)。「ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟」はカザフスタンの文化遺産(2003年登録)。「マサダ国立公園」はイスラエルの文化遺産(2001年登録)。「ステウンスの崖壁」はデンマークの自然遺産(2014年登録)。
 
※8 モンサンミシェル オペラハウス ヨセミテ
いずれも世界遺産人気ランキングのアンケートで毎回上位にランクインする有名な観光地でもある。「モンサンミシェルとその湾」はフランスの文化遺産(1979年登録)。「シドニーのオペラハウス」はオーストラリアの文化遺産(2007年登録)。「ヨセミテ国立公園」はアメリカ合衆国カリフォルニア州の自然遺産(1984年登録)。
 
※9 日本の世界遺産
2024年現在,自然遺産は屋久島など5件,文化遺産は法隆寺など20件,計25件が登録されている。国別の登録件数では世界11位である(最多はイタリアの59件)。 

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