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地理Bな人々(17) 赤と緑③ 窒素・ハーバーボッシュ法 

次は僕の番だった。
「中島先生が『人間は宿命的に2つの〝お預け”を食っている』って言っていたのを覚えている?」
「ああ,あったわね。」とミドリは懐かしそうに,「うん,はっきり覚えてるよ。」と赤嶺君は噛みしめるように言った。 

 1つ目のお預けは水だ。
 地理で一番最初に習う数字が,陸と海の比3:7※1,というやつだ。これは面積比で,体積でいうと海水97.5%に対して淡水(陸水)はわずか2.5%しかない(これが最初の授業のテーマだった)。
 人間の身体も半分以上は水が占めている。水が無いと生きていけない。3日間水を飲まなかったら死のリスクがぐんと高まる。水分補給は生の基本である。ところが巨大な貯水池である海の水を我々は直接利用できない。

 モンゴルのような内陸国※2で一生を過ごし,海を一度も見たことのない人を除けば,多くの人が初めて海水を口に含んだ時の異常なまでの塩辛さを記憶している。海水を飲むと体内の浸透圧の影響で細胞から水分が出ていってしまい余計に水が欲しくなる。だから,海で遭難し救命ボートの上でどんなに喉が渇いたとしても絶対に海水を飲んではいけない。

 海水が蒸発して上空で雲となり,雨が陸地に降り,川や地下水となって流れてきたものを利用するしかないのだ。潤沢な資金のある中東諸国のように海水を真水に直接変換※3することもできるのだけれど,ふつうは大いなる迂回路を通った水を飲みながら我々は暮らしている。 

 もう1つは窒素(N)だ。
 窒素がないと,アミノ酸が生成されない。アミノ酸は集まってタンパク質になり,筋肉となって我々の肉体を支えている。窒素が無かったら我々は肉体というビルを建設できない。
 この窒素という不可欠の物質は,実は目の前にある。大気の8割は窒素※4で占められている。けれども,人間は窒素を直接体内に取り込むことができない。毎日数万回の呼吸によって肺の中に窒素は侵入してくるのに,それらは折り返し点のマラソンランナーのように再び遠ざかって行ってしまうのだ。目の前に血と肉の元となるご馳走があるのに,我々はそれを眺めることしかできない。
 
 窒素も,水と同じく大きな迂回路を経由して我々の身体にやってくる。いわゆる「窒素循環」というやつである。思い起こせば,中島先生の講義には循環というワードが何度も登場していた。 
「水も窒素もなければ我々は死んでしまう。人生とは水と窒素を体内に取り込み排出し続けるゲームである。死とは,水と窒素の循環の輪から意識だけが離れていくことを意味する。椅子取りゲームの敗者みたいにね。」
 中島先生は最近出版された『食糧と人間※5という本の名を挙げ,詳しく知りたい人は是非この本を読んでね,と前置きをしてから話し始めた。

 大気中の窒素はまずマメ科の植物によって取り込まれる。クローバー※6などの牧草や大豆などが代表例だ。マメ科の植物は体内に根粒菌という魔法のカードを持っている。根粒菌によって窒素は植物の体内に取り込まれる(これを窒素固定という)。そうした草を動物が食べる。その糞を畑に混ぜ微生物の働きで土壌に戻せば,農作物の中に窒素が取り込まれる。家畜や人の糞尿を集め畑に戻し,そこで生産されたものを食べるという循環の輪を作ることで,我々は窒素を体内に取り込めるのだ。中国では3000年以上も前から,こうした循環農法が行われていたようだ。日本でも,江戸に物資を運んだあと各地に戻る船の上には,当時世界最大の人口を誇った江戸住民の糞尿がたっぷりと積みこまれていたという。

 ところが,人口が増えてくるとこの循環に綻びが生まれるようになる。都市で発生する糞尿の全てをくみ取ることができなくなったのだ。回収されなくなった糞尿は排水溝や汚水溜めにあふれ街は悪臭でいっぱいになった。感染症も発生した。19世紀のロンドンでは何度もコレラ※7が大流行した。ヨーロッパで香水が盛んに作られるようになったのはこの悪臭をごまかすことが目的の一つだった。

 膨れ上がる都市人口を支えるためには,農作物を多く生産しなければならなかった。その結果,農村では補充されるよりも出ていく窒素の量が多くなっていき,土壌が痩せていくようになった。ロンドンでは1865年に下水道が整備され,人々の糞尿は農村に戻ることなくテムズ川に流された。窒素循環の輪が断ち切られてしまったのだ。

 農村で不足した窒素を最初に補ったのは人間ではなく鳥のフンだった。グアノと呼ばれる鳥のフンには窒素とリンがたっぷり含まれていた(リンは骨を形成するのに不可欠な物質で,窒素と同じくらい重要な元素である)。

 グアノは南アメリカ大陸の太平洋側で多く採れた。この海域にはアンチョビという名のカタクチイワシがたくさんいた。それをエサにする海鳥が集まり大量のフンをする。海上の岩には何千年にもわたる海鳥たちのフンが堆積し,数十メートルもの厚さに堆積している。フンなんて雨が降れば流されてしまうじゃないか,と思う人もいるだろう。ところがペルーからチリにかけての海岸部は世界で最も降水量の少ない地域※8の一つなのだ。

 ペルーのグアノはヨーロッパや北米に輸出され,肥料として珍重された。ペルーはがっちり儲けることができたが,ものの50年ほどでグアノは取り尽くされてしまった。その代わりを務めたのが,アタカマ砂漠(チュキカマタ銅山がある)で産出されるチリ硝石※9だった。硝石は肥料だけでなく,火薬と爆薬の材料にもなった。争奪戦が始まり戦争も起こった。1883年にチリが勝ち,ボリビア・ペルーが負けた。ボリビアは海岸部の土地を失い,内陸国となった。ペルーは硝石の採掘権を失い経済は疲弊した。  

 硝石だけでは,土壌の窒素不足は解消できなかったが,20世紀初頭,人類史に大きな転換をもたらす画期的な発見が起こった。ハーバーボッシュ法※10という技術だ。空気から直接窒素を取り出すことに成功したのだ。根粒菌にしかできなかった魔法を人類がついに手に入れた瞬間だった。ハーバーは1918年,ボッシュは1931年にノーベル化学賞を受賞している。この新しい技術によって工場の中で固定窒素が大量に製造できるようになった。

「これが一体何を意味するのか,分かるかね?」と中島先生は僕たちに問いかけた。
「化石燃料無しに農業ができなくなったってことだ。誤解を恐れずに言えば,農業に石炭・石油という麻薬が入り込んできたのさ。」

 工場内で窒素固定という魔法を行うためには,高温・高圧の状態を維持しなければならなかった。そのために大量の石炭が使用された。工場で新たに製造されるようになった化学肥料は,増え続ける人口を支えるために人類必須のアイテムとなったが,それは農業が化石燃料に依存するということを意味していた。 

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※1 陸と海の比率3:7
地球の表面積は5.1億㎢,陸地は1.47億㎢,海洋は3.63㎢。陸地の3分の2は北半球に偏って分布しているので,南半球の8割は海洋で占められている。

※2 内陸国 
世界194ヵ国(国連加盟国193+バチカン市国)のうち45ヵ国が海に面していない(カスピ海は湖と考える)。アジアにはモンゴルの他,東南アジアのラオスや中央アジア諸国など12ヵ国。アフリカは最古の独立国エチオピアや最も新しい独立国(2011年)の南スーダンなど16ヵ国。ヨーロッパには15ヵ国。南米大陸にはボリビア・パラグアイの2ヵ国。

※3 海水を真水に直接変換
近年技術革新の著しい分野の一つで,水道水よりも低コストで真水を精製できる技術も開発されているが,まだ広く普及しているとはいえず,オイルマネーで設備投資に余裕のあるサウジアラビアなど中東諸国でさかんに行われている。 

※4 大気の8割は窒素
大気の組成は,窒素(N2)78。1%,酸素(O2)20.9%,アルゴン(Ar)0.9%,二酸化炭素(CO2)0.04%。その他ネオン・ヘリウム・メタンなど。

※5『食糧と人類
著者ルース・ドフリース(コロンビア大学教授)。2014年発行(文庫版は2021年・日経ビジネス人文庫)。

※6 クローバー
ヨーロッパ原産のマメ科の多年草。亜熱帯から亜寒帯まで広く分布。日本では江戸時代にオランダからの輸入品の間の詰め物として入ってきたことからシロツメクサと呼ばれる。窒素固定ができるマメ科の植物は,窒素の少ない痩せた土地でも栽培できるので,地力の回復に役立ち,タンパク質が豊富で牧草としても優れている。 

※7 コレラ
コレラ菌という細菌による感染症。水や食物による経口感染で広がる。主な症状は下痢と嘔吐。激しい脱水症状で死に至ることもある。日本でも江戸時代から明治時代にかけて発生したことがある。 

※8 世界で最も降水量の少ない地域
ペルー沿岸部は寒流のペルー海流(フンボルト海流)が北流している(地P12)。雨は水蒸気を含んだ大気が上昇し雲を形成することによって生じるが,ペルー海流は世界最強クラスの寒流で,海面付近の大気は常に冷やされ上昇気流がほとんど生じないのである。これによりペルーからチリ北部にかけては数千㌔にわたって砂漠(海岸砂漠という)が形成されている。 

※9 チリ硝石
硝石は硝酸カリウム(KNO3)を主成分とする鉱物。日本では煙硝,焔硝等の呼称がある。アタカマ砂漠の硝石の生産量が圧倒的に多かったためチリ硝石と呼ばれるようになった。火薬の原料として需要が伸びたが,ハーバーボッシュ法の発見以降は衰退していった。  

※10 ハーバーボッシュ法 
高温・高圧の条件下で,鉄などの触媒の上で窒素と水素を直接反応させる方法。化学式はN2+3H2→2NH3。空気中の窒素をアンモニア(NH3)の形で固定することに成功。化学肥料の生産を可能にした技術として「水と空気と石炭からパンを作る技術」と呼ばれることがある。  

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