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中学卒業と同時に契約した初の携帯電話とその後の目標。

1999年の春、今から25年前に初めての携帯電話を契約した。
数社の携帯電話を扱っている携帯屋。

(ドコモは高いイメージがあるのでやめておこう。)
(IDOはなんとなくおっさんっぽい気がするなぁ。)
(J-フォンは先輩が使ってたけど、どうだろう。)
(ツーカーって電波悪そう•••。)
(IDO...。J-フォン...。)

なかなか決められない俺に親が痺れを切らした。

「どれでも一緒だから早く決めて!」

(やばい。早くしないと契約できなくなる。せっかくバイトもはじめたのに!)

色々な通信キャリアの端末が、たくさん並んでいた。
その時はまだ、3和音だのカラー液晶だの、ましてやカメラなどついているわけもなく、ちょっとしたショートメッセージと、60文字程度のニュースをメールで送ってくれるサービスくらいしかなかった。

だけど、現在のスマホに比べるとどの機種もとても個性的で好みにはなるけど、どれも一長一短ある。

そして、静岡県の数万人しか住んでいない田舎町に住んでいたので、エリア化が遅れていて、電波問題は死活問題だった。
ピッチってなに?というようなクソ田舎だったのだ。

そして、先輩からの前情報によれば、圧倒的にドコモが電波がよく、IDOも学校近くの山付近でも使えるけど、J-フォンは場所によっては電波が弱くて、ツーカーは学校近くの山付近で圏外になる場所が多いと言っていた。

今は新規参入の楽天モバイルを除けば、どこのキャリアを契約しても、極端に電波に違いはないと思う。

しかし、1999年はそうではなかったのだ。

そして散々迷って手にした携帯電話は「KENWOOD」製の
「J-K01」という機種だった。

知識のない自分には、その機種のアンテナ表裏がカッコよくて、宇宙人のキャラクターが出てくるところに惹かれ、結局J-フォンにした。

話しは逸れるが、今思い返せば、あのKENWOODが携帯電話を使っていたことすら驚きである。

1999年頃は、DENSO、Pioneer、aiwa、日立、三菱、国際電気、JRC(日本無線)など、もっと他のメーカーもあった。

スマホなんてものが登場し、普及をはじめるまでにはあと10年以上の時が必要な時代だ。

今思えば、スマホに参入する前に市場から退場し、携帯電話の製造競争に負け、携帯電話ブランドとしては消滅していった日本メーカーの携帯電話がたくさんあった。

という話しはまた後ほどとして、KENWOODの携帯電話を契約して家に帰り、早速先輩なんかの自宅に電話をして携帯電話番号の交換をした。

ゲームボーイやファミコンのような、工業製品でもオフラインでしか利用できないデバイスが当たり前だったのに、どこにいてもメッセージと電話ができる事に一気に世界が広がった気がした。

そして、いつの間にかいつか携帯電話会社で働くんだと特に将来のことを考えていなかった自分に目標もできた。

それから数年経って、実現できた時にはとてもうれしかった。
恐らく、周りからは躁状態にでもなって、空回りしてる不思議な人間だと思われたと思う。

ただ、寂しい気持ちになることもあった。
AndroidスマホとiPhoneの登場で事態は180度変わってしまった。

あれだけ人気があったNECの折りたたみケータイが、姿を消し、スマホでもうまくいかなかった為、携帯事業はパナソニックと合弁会社を作り再スタートした。

それ以外にも、カシオは日立と合弁会社をつくり、東芝と富士通も合弁会社を作った。そして最終的に東芝ブランドは富士通に飲み込まれた。
SANYOは京セラに事業売却され、気がつけば最終的にどんどん市場から姿を消していくこととなった。

代わりに、韓国SAMSUNGのGALAXYシリーズや、LG、iPhone、もう少し経つとOPPO、HUAWEI、Xiaomiなどの中華勢がどんどんシェアを広げた。
いつの間にか、初期に調子が良かったHTCやASUSの台湾勢も劣勢になった。

KENWOODの携帯電話を、契約していつの間にか携帯電話会社で働くことが目標になり、G-SHOCKケータイやNECの折りたたみ、スライド式やフリップタイプなどいろんな個性的な日本企業の個性的な携帯電話に興味を持って、目標ができたのに。

まさか、日本企業の通信産業の終わりを目にする羽目になるとは思わなかった。
そういう自分もiPhoneを今は使っているんだけど。

携帯電話がスマホに需要が入れ替わり一つの時代が終わるのをこの目で肌で感じる事ができたのはもしかしたら、貴重な経験でラッキーだったのかもしれない。

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