「日・韓現代演劇交流(抄)」(後編)

1980年代の日・韓演劇交流

日本演劇と韓国演劇とのあいだの演劇交流が本格化したのは1980年代だが、これは交流チャネルの多様化が大きく寄与したと考えている。これまでの個人あるいは劇団単位でのチャネルのみならず、国際演劇祭や国家的文化事業という公的チャネルが日・韓間の交流を促進した。また交流活性化の背景として間接的には鄭大均(1985)の言うように、韓国に対する日本社会の関心が政治的関心から文化的関心に変化したことも一因したと考えられる。韓半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の2つの国家が成立して以来、これまで日本演劇界は韓国を「文化不毛の地」や「軍部独裁」と看做してきた。とくに70年代の朴正煕政権に対するネガティブイメージは、1980年に起きた「光州事件」で再び強化された。しかし1982年の「歴史教科書問題」を契機に始まった中曽根政権と全斗煥政権による「日韓新時代」は日本と韓国のあいだの歴史的課題を脇に置いたままにしながらも、さまざまな面で日本社会の韓国に対する認識を大きく変化させたからである。

この項では1980年代の日・韓演劇交流の第一幕として日・韓演劇人が足繁く往来するようすを紹介し、第二幕として80年代の各種「演劇祭」の成果をご紹介する。また1988年6月に行われた日・韓演劇人の出会いという「幕間劇」も、この後の日・韓演劇交流を促進する契機になった。

日・韓演劇人の往来

方泰守の日本訪問
80年代の日・韓演劇交流は韓国演劇人の訪日で幕が開いた。先陣を切って日本を訪問したのは劇団「エヂョト」代表の方泰守(パン・テス、1945~)である。劇団「エヂョト」は韓国の元老劇作家柳致眞(ユ・チヂン、1905~1974)の創設した「ドラマセンター」演劇アカデミー第1期卒業生らによって創団された、韓国で最初のパントマイム専門劇団である。彼らは「既成が作り上げた固定観念を破る」(京郷新聞、1969/5/17)ことを標榜し、韓国に「無言劇を上陸させたかと思えば、街頭劇というものも初めて試みた」(東亜日報、1977/8/25)劇団でもあった。このような劇団の性格からだろうか、パン・テスは東京ではテント劇団である「曲馬館」や「黒テント」、実験的な舞台作りで有名な「転形劇場」など、いわゆる新劇ではない異色の劇団と接触した。そしてフィリピンや日本の劇団を招請しソウルで演劇セミナーの開催を計画しているという談話が帰国後に記事になったが(東亜日報、1980/10/13)、しかし実際にこれらの劇団と演劇交流が行われたのかはいまだに確認できないでいる。

呉泰錫の『草墳』日本公演
パン・テスに続いて1980年秋、作家兼演出家の呉泰錫(オ・テソク、1940~2022)が自作の『草墳(チョブン)』を演出するために日本を訪問した。『草墳』は去る1973年4月に韓国のドラマセンター付属劇団によって初演されて大好評を得た作品である。この作品は「強力な動きと呪術的な声が動員される舞台」であり(東亜、1973/3/14)、「既存観念に一撃」(東亜、1973/8/8)を加えたと激賞された。翌1974年2月には米ニューヨークで英語版『JILSA』が「ラ・ママ」の演技者らによって上演された。この舞台を日本演劇人の若林彰(1926~2013)が観劇して関心を持ち、英語台本から日本語翻訳台本を作成した。若林は演技者出身だが英語が堪能で、はやくから海外の演劇祭に視線を向けていた。また「国際青年演劇センター(KSEC)」を創設した人物でもある。

『草墳』日本上演は若林から作品を紹介された在日韓国人の李三郎(朴炳陽、1950~2017)を中心にした「韓国演劇上演会」が推進した。李三郎をはじめとする「上演会」の中核メンバー6名は公演に先立って1980年9月に韓国を訪問し、約10日間にわたってオ・テソクから薫陶を受けたという。池袋の文芸坐ル・ピリエ地下で行われた『草墳』日本公演は「連日満員で約千人の観客がつめかけた」という(統一日報、1980/11/21)。朝日新聞(1980/11/22)は「圧倒的なエネルギーで見る者の胸にせまってきた」舞台であるとし、読売新聞(1980/11/29)もまた「今年一番刺戟的な舞台だと言っても過言ではない」と高く評価した。韓国では朝鮮日報(1980/12/3)が日本で『草墳』が肯定的評価を受けたことや、オ・テソクの言葉を引用して「文化交流が拡大されてこそ、日・韓関係の改善に助け」になると見出しで強調した。オ・テソクの『草墳』日本公演は日・韓演劇人による最初の本格的な共同作業と言えるであろう。前述した若林と「発見の会」の瓜生良介(うりうりょうすけ、1935~2012)が入れ替わり立ち替わり練習に参与し助言を行ったからである(「韓国演劇」1981年1月号)。瓜生は李三郎から演出を打診されたが時間的に余裕のないことを理由に断ったというが、作業を見守っていたようだ(前掲の統一日報記事)。

「発見の会」のソウル公演
瓜生良介はオ・テソクとの出会いが韓国との縁結びになったのだろうか。「発見の会」は1983年4月に劇団「倉庫劇場(チャンゴグッチャン)」(代表:李源庚)の招請で韓国を訪問し、「日韓シェイクスピア祝祭」と銘打って『十二夜』を「三一路倉庫劇場」で上演した。ソウル市の明洞のはずれに位置する「三一路倉庫劇場」は民家を改造した劇場で、「エヂョト倉庫劇場」「三一路倉庫劇場」とオーナーが代わるたびに名を変えながら存続したが、この年に閉館を決めたという。では発見の会のソウル公演はどのように評されたのだろうか。瓜生の著作『小劇場運動史』(造形社、1983)には韓国の女優孫淑(ソン・スク、1944~)にそん色のないできだとほめられたとある(p279)。しかし韓国の新聞と雑誌は公演の前記事ばかりで、劇評に類する記事を見出すことはできなかった。韓国演劇協会の発行する月刊誌「韓国演劇」1983年5月号が発見の会ソウル公演で道化の娘を演じた田紀子へのインタビュー記事を掲載したが、その質問は「発見の会の演劇活動に満足しているのか」「十二夜の演出意図に不満はないのか」とか「戯画的な性表現は韓国演劇には無いがどう思うか」というものだった。このような質問から思うに、どうやら発見の会の舞台は韓国演劇界にとってかなりの衝撃だったようである。

「一人芝居で国際母もの大会」
いっぽうオ・テソクは木村光一(1931~)の主宰する演劇制作体「地人会」の企画公演「母たち」に、戯曲『オモニ(原題はオミ)』(演出は鈴木完一郎、主演は李礼仙)を提供した。朝日新聞(1982/3/5)が「一人芝居で国際母もの大会」という見出しの前記事を載せたこの企画は、6人の劇作家が書いた母に関する一幕物をそれぞれ6人の演出家と演技者が上演するというもので日・韓ともに話題となった。そこでオ・テソクは同年12月にソウルで自作の『オミ』を白星姫(ペク・ソンヒ)の出演で上演し、井上ひさし(1934~2010)が「母たち」に提供した作品である『化粧』を金錦枝(キム・クムヂ、1942~)の出演で上演した。演劇評論家の金芳玉(キム・バンオク)は井上作品を化粧を始めてから終わるまでの制限された時間設定、合間に挿入される演技の練習がまさに自身の生の来歴と一致するという話の伏線など、一人劇形式に適合するように緻密に計算された舞台だと好評した(京郷新聞、1982/12/4)。おそらくこれは井上作品の最初の韓国上演であろう。

秋松雄の日本公演
1984年2月には一人芝居『赤いピーターの告白』で名を上げた演技者の秋松雄(チュ・ソンウン、1941~85)が日本公演を行った。チュ・ソンウンは長く劇団「自由(チャユ)」の演技者として過ごしたが、1977年8月に「三一路倉庫劇場」での『赤いピーターの告白』初演をもって独立した。この作品はカフカの『あるアカデミーへの報告』を一人劇にした作品で、猿のピーターがどのようにして言葉を獲得し、人間として生きるようになったのかを語る一人称形式の作品である。おそらく「真正な自由を求めて動物園を拒否し、サーカスに入った猿のピーターを通じて人間の外形的自由の概念に批判を加えた作品」(京郷新聞、1977/8/20)であったことが初演当時の韓国で好評を得た理由ではないだろうか。この作品は「77年度の韓国演劇界に烈風を巻き起こし」(東亜日報、1978/1/14)、その後何度も再演を重ねた。

このように韓国では大きく評判になった作品であったことから日本公演の成果が注目されたが、新宿モーツアルトサロンでの上演も好評を得た。演劇評論家のみなもとごろうは「テアトロ」1984年5月号で「演技も照明も効果も小道具も、必要なものは確かにあり、不要なものは一切ないというところに、この芝居の質の高さがある。秋という俳優の肉体と声によって、猿と人間の枠がいつの間にか取り払われてしまう。寓意という理性を超えた演劇の力が、そこには確かにあった」と評した。帰国したチュもまた新聞紙面を通じて舞台が日本で好評を得たことや、日本演劇界にちょっとした旋風を巻き起こしたことを報告した(朝鮮日報、1984/3/10)。

日本公演の「常連」たち
日本の劇団「昴」との相互訪問公演で日・韓演劇交流に先鞭をつけた劇団「自由(チャユ)」の金正鈺(キム・ヂョンオク)も、1984年の「沖縄演劇祭」を皮切りに1985年と1986年に日本公演を行った。そして劇団「チャユ」と入れ替わるように、オ・テソクの率いる劇団「木花(モックァ)」が日本公演の「常連」入りをする。オ・テソクは80年代後半から90年代を通じて何度も日本公演を行ったが、そのために時には韓国劇界から「ウェセク(倭色)」のそしりを受けることもした。「倭」は日本を卑下した表現で、「倭色」は「日本かぶれ」と訳せるだろうか。キム・ヂョンオクもある作品が評論家から「倭色」だと指摘されたという。キム氏の言うには舞台が整然としている(作りが整っている)と「イルボンネムセ(日本臭)」がすると言われることがあるらしい(筆者との会話)。この例から思うに「倭色」はかなり恣意的に適用されるようだが、しかし韓国社会では「親日(チニル)」とともに無視できない言葉である。

前述した井上作品『化粧』の韓国公演で「日本の母」を演じて好評を得たキム・クムヂの夫は「日帝時代」に強要された「創氏改名」を親が拒否したために家が貧しくなり、学校を追い出されたという。義父は独立運動で捕まり7年間の獄苦を味わい、義祖父は日本憲兵に撃たれて死んだという(毎日経済、1982/8/3)。後述する「ソナンダン」を主宰した沈雨晟(シム・ウソン)は1934年生まれだが、幼い頃に日本人教師に耳がちぎれるほど引っ張られたという(筆者との会話)。このような体験談を聞くたびに「日帝時代」は決して過ぎ去った過去ではないと感じさせられる。1983年1月に中曽根政権と全斗煥政権が「日韓共同声明」を発表した際に、韓国メディアは「日本映画の輸入をこのまま反対できないだろうと選別輸入を主張する学者たちでさえも、日本に対する理解なしに日本大衆文化が押し寄せてくれば大きな混乱を引き起こす」と警鐘を鳴らした(京郷新聞、1983/1/21)。

活性化する演劇交流
韓国社会の日本文化に対する警戒心は高まりつつも、しかし演劇交流はますます活況を呈する。1985年にはつかこうへい(金峰雄、1948~2010)の1973年作品である『熱海殺人事件』が『トゥゴウンパダ(熱い海)』と名前を変えて、韓国人演技者によってソウルで上演されて大好評を得た。また安部公房の『友達』(1967)が劇団「民衆劇場」によって『チングドゥル(友人たち)』となってひと月のあいだ上演されるなど、日本作品の紹介も始まった。なかには「市民劇場」という劇団が如月小春の代表作『DOLL』(1983)を『人形』として上演するという新聞記事も出た。韓国劇団のアンテナの感度のよさに驚かされるが、実際に『DOLL』の翻訳公演を行ったのかは確認できないでいる。「日本の大衆文化を無分別に受け入れることへの憂慮は無いではないが、完全に門を閉じてすごす時期もいまや過ぎ去った。[…]日本との文化交流が新しい局面を迎えていることを見せるひとつの現象で、その望ましい方向が何なのかに対する模索を必要としている」。京郷新聞1985年6月10月付けの記事である。

80年代の日・韓交流に関するエピソードをひとつ。1987年秋、筆者は「鳳山仮面劇(ポンサンタルチュム)」日本公演チームのツアーに同行した。このときにメンバーの若い韓国人舞踊手から出国する際に「帰国誓約書」や共産主義者と接触しないなど5~6枚の書類を提出したと聞かされた。また、公演チームの中でピリ(横笛)を担当する男性楽師は「軍に所属する者」だと身分を明かし、日本側主催者に関する資料の提供を筆者に要求した。日本公演チームを編成する際に軍所属の人物を加えたのだろうか。この当時は韓国国民が海外渡航をする際には渡航先や渡航可能年齢などのさまざまな制限があり、個人が気楽に海外に出ることはできなかった時期であった。韓国で海外旅行が自由化されるのは1980年代末からである。前述したパン・テスやオ・テソクの海外渡航は、韓国文化芸術振興院が1978年に運営を始めた「芸術人海外研修制度」を利用して行われた。

各種演劇祭の「有効活用」

「第5次第三世界演劇祭」ソウル開催
80年代の日・韓演劇交流の第2幕は各種の「演劇祭」が舞台になる。先に紹介した『草墳』日本公演は1981年3月にソウルで開催された「第5次第三世界演劇祭」への日本劇団の参加につながった。総9か国10劇団が参加したこの演劇祭に日本からは伝統劇として観世能が、そして現代劇として『草墳』上演の主軸となった「国際青年演劇センター(KSEC)」が招請された。これらの日本作品は今回の演劇祭で共に高い評価を得たのである。

観世能に対しては、演出家であり国立劇場長もつとめた許圭(ホ・ギュ、1934~2000)が「能が帯びる神秘に近い劇的情緒や入神の境地にいたるような静中動の俳優術、格調の高い劇的構造、絢爛な衣装、精巧で精錬された仮面などで、文芸会館大劇場をぎっしりとうめた観客は圧倒され魅了されたのは当然だ」と絶賛した(朝鮮日報、1981/3/21)。大学教授であり演劇評論家の柳敏榮(ユ・ミニョン)は日本の劇団「昴」の韓国公演(1979)の際には日本語による上演を辛辣に批判した人物だが、能に対しては「洗練美の極致…日本貴族の心性みせる/幾何学的構図の上に人間の心霊世界を視覚化」したと称賛した(東亜日報、1981/3/19)。

しかし演劇祭関連の新聞記事を読むと、今回の演劇祭で最も視線を集めた作品はKSECの上演した『海峡』のようだ。『海峡』は演劇と舞踏とロック演奏の混成舞台であったことから、演劇祭参加作のなかでは「舞台でさまざまな技法をもっとも多く見せた」作品だと紹介された(京郷新聞、1981/3/20)。ところどころ韓国語の台詞を挿入したことから、「日本社会で在日僑胞が処している状況をリアルに部分的に描きつつ、マネキン演劇を連想させるきわめて前衛的で、陰惨な旋律が巻き起こす地獄と現実のあいだの幻想を演出した」(前掲の記事)と評された。しかし演劇評論家の韓相喆(ハン・サンチョル、1935~2009)は「現代日本の若者の意識と表現努力は称賛する」としながらも、「いろいろな演劇的要素を借用した折衷的公演」であり「美的統一性の欠如に起因してアルトーの理解を皮相的に表現しただけの舞台だった」(朝鮮日報、1981/3/21)と厳しい。『海峡』を構成したメンバーたちは初日のあとに「深夜2時まで集まって公演に関して討議した」が、しかし「各チームごとに主張がはっきりしており、[…]対立して結論が出なかった」という(「韓国演劇」同年4月号)。おそらくこのことで「美的統一性」は実現しなかったのだろう。演劇評論家の李泰柱(イ・テヂュ、1934~)もまた、『海峡』は「アルトー的な残酷性とグロトフスキーの裸の舞台の実現だったが、舞踊的要素と演劇的要素、そして音楽的要素のあいだの連結が不足してトーンの一致を感じられなかったが、衝撃と苦痛の美学を伝達する舞台だった」と評した(東亜日報、1981/3/23)。

「アジア大会」と「ソウル五輪」
1986年にソウルで開催された「アジア競技大会」の付帯事業である「アジア大会文化祭典」では、劇団「SCOT」が『トロイアの女』で韓国公演を行った。演劇評論家のハン・サンチョルは「もしも日本のスコットが見せた炸裂する演劇精神と強力な力、そして想像することが難しい演技力に接していなかったら、今回の演劇祭はまたひとつの退屈な演劇祭になっていただろう」と高く評価した(京郷新聞、1986/10/13)。

1988年の「ソウル五輪」にちなんだ「オリンピック文化祭典」では松竹歌舞伎が『仮名手本忠臣蔵』で韓国公演を行ない、この舞台もまた「日本伝統芸術の花、歌舞伎/連日客席〈満員〉」と盛況を見せた(毎日経済、1988/9/6)。しかし歌舞伎を観劇したある大学教授は「忠臣蔵が不当な圧制に対する抗拒、抑圧された恨みを晴らす、言うなれば理ある復讐を日本式に最大限に美化し称揚した作品であるならば、[…]日本人は彼らが圧制した者の抗拒や復讐をきちんと受容する体制を、世界大戦後の今日までどのように整えてきたのだろうか」という厳しい意見が寄せられた(京郷新聞、1988/9/7)。

盛んになる人形劇交流
80年代演劇交流のもうひとつのエポックは、人形劇の日・韓交流が活発になったことである。記録をたどると日本ウニマが主催した「アジア・太平洋国際人形劇祭」(1979)に韓国から「社団法人男寺堂(ナムサダン)」が人形劇『コクトガクシノルム』で参加したことが日・韓人形劇交流の嚆矢のようだ。このときにナムサダンを引率したのは民俗劇の研究者であり自身も舞台に立つ沈雨晟(シム・ウソン)である。このとき以降、シム・ウソンは日・韓演劇交流「民俗芸・人形劇」部門の橋渡しを務めることになる。1982年には「飯田人形劇カーニバル」に趙容秀(チョ・ヨンス)を代表とする「KBS人形劇会」が参加し、1984年には「韓国人形劇協会」(会長チョ・ヨンス、常任理事シム・ウソン)の主催で「第1回ソウル国際人形劇祭」が開催され、日本から「劇団すぎのこ」「人形劇場たけのこ」「人形劇団ひとみ座」「人形劇団どら」が参加した。1985年からの数年間はほぼ毎年、韓国で開催された人形劇祭に日本の人形劇団が参加した。

韓国の前景化
1984年はさまざまな分野で韓国にスポットライトが当たった年である。7月に「鳳山仮面劇」が東京・芝の増上寺で上演され、9月には日本文化財団などによる「韓国民俗芸能祭’84東京」が東京・日比谷公園などで開催されて韓国の民俗芸能が紹介された。同年11月には国際交流基金などが東アジアの放浪芸を紹介する『旅芸人の世界』を開催し、韓国から「ナムサダン」を再組織して招聘した。また池袋西武百貨店の「スタジオ200」では『現代韓国映画』展を開催した。これらのイベントはいずれも好評を得たし、韓国でも韓・日文化交流の活発化を示す現象として認知された。この年には『朝鮮・韓国を知る本』(JICC出版局)や『海峡を越えたホームラン』(関川夏央、双葉社)などが出版され、徐々に「韓国ブーム」が形成されつつあった。

しかしこのような韓国ブームの裏では大きな変化が起こっていた。1961年に創設されて朝鮮研究でこれまで大きな成果を上げてきた「日本朝鮮研究所」が1984年2月に「現代コリア研究所」に名称変更した。また同年4月に放送を開始した「NHKハングル講座」は番組名称を「朝鮮語」にするか「韓国語」にするかで喧々諤々、折衷案で「ハングル講座」になったという経緯がある。同年8月には1959年12月に最初の帰国船が新潟港を出航して以来これまで断続的に続いてきた「帰国事業」がついに終わり、そして同年9月に韓国の現職大統領が初めて公式に日本を訪問した。このように1984年は「朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)」が後景に退いて、代わりに「韓国(大韓民国)」が前景化した象徴的な年となった。

幕間劇「日・韓演劇人の出会い」
1988年6月、日・韓の演劇人が東京で交歓するという幕間劇があった。国際交流基金の招きで日本を訪問した「韓国演劇専門家グループ」と日本演劇人が交流を持った。このミーティングに「嫌々ながら」参席した劇団「青年劇場」の代表であり演出家の瓜生正美が残した回想を、青年劇場のウェブサイトから引用してご紹介する。

「劇団協議会を代表して誰か行かなくてはならない。当時の韓国は軍事政権で、僕は軍事政権が大嫌いだから、そんなところに行きたくなかったんですよ。でも行ける人がいないというので、仕方なく行きました。その時に、東亜日報の若い記者から〈韓国の現代演劇のルーツは、軍事独裁の李承晩(イスンマン)政権を倒した学生運動で、今でも日本のプロレタリア演劇運動と同じような弾圧のもとで活動している云々...〉と聞いたんです。僕は単純だから(笑)、それを聞いたとたん、韓国の演劇人たちがものすごく大好きになったんです」。

青年劇場のウェブサイト

瓜生が言うように1980年代はまだ「反韓意識」が根強く残っていた時期である。しかしこの幸福な出会いによって、瓜生と劇団青年劇場は韓国との交流に積極的に乗り出すことになる。この日、瓜生に韓国現代演劇を語った東亜日報の記者は「韓日交流、本格始動」(東亜日報、1988/6/27)で、「この間絶無だったとも言える韓日間の演劇交流が本格化する動きを見せている」と書いて日・韓演劇交流の発展を鼓舞した。

日・韓演劇人の意識のずれ
80年代は日・韓演劇交流が本格化した時期であったが、しかし演劇交流に対する考え方に日本と韓国では依然として隔たりがあった。演劇交流の舞台裏で行われた日・韓演劇人の会談を、朝鮮日報の記事「公演芸術の交流、隔意なき討論」(1989/12/22)でご紹介する。

劇団「地人会」が『釈迦内柩唄』で韓国公演を行った1989年12月に、ソウルの東崇アートセンターで日本演劇人と韓国演劇人の会合が持たれた。韓国側は金文煥(キム・ムナン、ソウル大)、金正鈺(キム・ヂョンオク、中央大)、梁惠淑(ヤン・ヘスク、梨花女子大)、韓相喆(ハン・サンチョル、翰林大)、コ・スンギル教授(中央大)、劇作家の朴祚烈(パク・チョヨル)と呉泰錫氏(オ・テソク)に演劇協会のユ・ヨンファン事務局長およびアン・チウン(中央大講師)などの9名と、日本側は出戸一幸(日大教授・英文学)、豊田順一(同大独文学)そして神永光規(同演劇科)など7名だった。

当該の朝鮮日報記事によると、3時間にわたるこの日の討論で韓国演劇人らは「過去の日帝侵略のしこりが完全に解消されないままにある今日の状況の中で、韓国観客らが抵抗感なしに受け入れられる日本演劇はどんなものだろうか」などの話題に主な関心を示した。地人会の作品が韓国の観客に良い印象を与えたのは、「過去軍国主義の非人間性に対する日本の反省を垣間見ることができたからだ」とし、「これからも韓日演劇交流が進行する際に、韓国に紹介される日本演劇がどんなイデオロギーを土台にしているのかが重要だろうと思える」(前掲の記事)という理由からの質問だった。しかし日本側参席者らは「現代日本演劇の流れなどを長々と説明しながら、演劇の様式面から二国間の伝統の交換を強調する脱政治的発言に重きを置いた」という。けっきょく日本側は「政治的見解を演劇に盛り込むことは日本演劇の主な関心事ではないと強調した」(前掲の記事)。この政治と演劇という課題はこの後の日・韓演劇交流でも反復して提起されることになる。

1990年代の日・韓演劇交流

拡大する交流
筆者は日本あるいは韓国の劇団がそれぞれ相手国を訪問して公演を行うことを「舞台交換」と名付け、これを量的分析の単位としている。成人劇カテゴリーにおける「舞台交換」は1960年代は皆無だった。「前編」で言及したように、60年代は韓国の児童劇団「セドゥル」による日本訪問公演が行われただけである。1970年代も日・韓あわせてわずか4公演に過ぎなかった。この4公演の内訳は日本の劇団「状況劇場」と劇団「昴」による韓国公演と、韓国の劇団「架橋(カギョ)」と劇団「自由劇場(チャユグッチャン)」による日本公演である。しかし80年代に入ると大きく様変わりする。前述したように交流チャネルの多様化や日本演劇人の韓国演劇に対する関心の高潮、あるいは韓国に対する日本社会の態度変化などによって「舞台交換」の数は日・韓あわせて29公演(日本側13公演/韓国側16公演)に急増した。

90年代に入ってからもこの傾向は継続した。「韓国文化通信使」(1992)や「日本文化通信使」(1994)などの政府間文化交流に加え、1998年10月に締結された「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」を期に金大中政権による日本文化の段階的開放が始まった。このことは日・韓間の人的・経済的交流の拡大をもたらしたし、演劇交流にも薫風となった。また、1994年11月に中・韓・日が持ち回りで開催する「BeSeTo演劇祭」が始まり、最初のソウル開催時には日本から「SCOT」が参加した。「BeSeTo演劇祭」は翌1995年には東京で開催されて、韓国から「芸術の殿堂」の制作による『徳恵翁主(トッケオンヂュ)』が参加した。さらに1997年に「ITI(国際演劇協会)」の総会が韓国で開催されたが、これには日本から「新宿梁山泊」と「地人会」そして「解体社」の3劇団が参加した。このような政府間文化交流や韓国で大きな演劇祭が開催された結果、90年代の舞台交換は日本と韓国を合わせて91公演(日42公演/韓49公演)を数えた。

演劇交流の拡大は21世紀にも継続した。2002年にサッカーW杯日・韓共催を主軸とした「日韓国民交流年」が開催されたが、これと併せて「日韓舞台芸術コラボレーションフェスティバル2002(PAC2002)」が進行されて演劇交流を刺戟した。また日韓国交正常化40周年を記念する2005年「日韓友情年」にも演劇を含んで多様な文化交流事業が編成された。この結果、21世紀の最初の10年間の舞台交換は総198公演(日107公演/韓91公演)に達し、特に2005年は一年で日本側20公演と韓国側7公演を記録してピークを成した。

この期間に交流が大きく拡大した背景として、韓国で地域文化祭や演劇祭がさかんに開催されたことも交流を後押ししたと考えられる。朝鮮日報(1999/9/29)によると、韓国では1995年6月に地方自治体制度がはじまってから全国的に400を超える地域文化祭が催行されたと言う。日本の劇団になじみの深い「水原城国際演劇祭」や「居昌国際演劇祭」「馬山国際演劇祭」「春川国際演劇祭」などの「国際」演劇祭が創設(あるいは改称)されたのは1996年頃からだ。もちろん後述する韓国劇界の日本演劇に対する関心の高潮もまた、このような活発な交流の下地になっているわけだが。

ところで、この時期の韓国に対する関心の高潮はひとり演劇のみならず、近接ジャンルであるパフォーマンスやダンスでも見られた現象だった。1989年10月に「韓国行為芸術協会」の主催で最初の「韓・日パフォーマンスフェスティバル」がソウルで開催され、日本側はこの答礼として1990年11月に「第2回日韓行為芸術祭〈交隣〉」を浅草で開催した。この行事は翌1991年には韓国に戻って「国際行為芸術祭」と銘打たれ、日・韓以外にも参加の門を広げた。パフォーマンスやマイムなどのジャンルはこの後「独立芸術祭(後の「ソウルフリンジフェスティバル」)」や「春川マイム祝祭」などに拡散した。

あるいはまた1993年1月に「第5回大世紀末演劇展」(於:こまばアゴラ劇場)の一環として「第1回日韓ダンスフェスティバル」が開催され、同年6月にはソウルで「第2回日韓ダンスフェスティバル」が開催された。このダンス交流もまたしばらくのあいだ日本と韓国で交互に開催された。90年代の韓国は「日本文化開放」に対して喧々諤々の論争が行われた時期だったが、日本社会の韓国に対する態度が変化したとともに、韓国の日本に対する態度にも変化が現れたのである。先述した「行為芸術祭」は韓国側から手を差し伸べてきたケースだった。このように1990年からの20年間は日・韓双方で多種多様な演劇祭・文化祭が雨あられと開催された時期となり、日・韓の芸術人はさながら定期便のように往来した。

「アリスフェスティバル」の貢献
90年代は韓国演劇の紹介がさかんに行われた。このことから日本側の42公演に対して韓国側は49公演を数え、韓国演劇の「入超」となった。この韓国の劇団による49の日本公演のうちの10公演は、新宿の小劇場「タイニイアリス」の主催する「アリスフェスティバル」が招請した。90年代の日・韓劇交流を語るところに「アリス・フェスティバル」を欠かすことはできない。

「タイニイアリス」を主宰する丹羽文夫は劇団「民藝」の演出部に籍を置いていた演出家であった。丹羽はすでに70年代から韓国演劇に接していたという。『小劇場タイニイアリス』(芸術新聞社、2015)によると、丹羽は「当時渡米、帰国する際、大韓航空機が格安で、これを利用すると東京に帰着する前に必ずソウルに立ち寄ることになっていた。特に韓国演劇に関心があったわけではないが、毎回2~3日滞在できるトランジットビザでソウルに降り、駆け足で韓国演劇を観てまわっていた」らしい。そして1980年代の終わり頃、丹羽は釜山の「カマゴル小劇場」で観劇した李鉉和(イ・ヒョナ)作/李潤澤(イ・ユンテク)演出の『サンシッキム』に衝撃を受ける。

丹羽が衝撃を受けた『サンシッキム』は1981年に「ドラマセンター」専属劇団である「東朗レパートリー」で初演され、当時の劇界で前衛的・実験的と喧伝された作品である。本来は亡者の恨(ハン)を晴らして彼岸に送るシッキム(祭祀)を、舞台では「タイヤがパンクしたので山の中の一軒家に電話を借りに来た若い女性」に対して行う。この舞台を通じて「観客ひとりひとりが我々は誰であり、どこから来たのか、何処にいるのか、何処へ向かっていこうとしているのかという質問を肉体と霊魂を通して経験させようと言う意図」の作品で(朝鮮日報、1989/11/4)、演出者を変えながら何度も再公演を重ねた。丹羽は「一見、近代化されたかに見える韓国人の心の在りようを、一人の若い女性を通してえぐり出した韓国的な作品で、内容・形式共独特であるだけに国際的にも高く評価でき、日本の現代劇を追求する上で素晴らしい教訓でもあった」(前掲書p13)とし、さっそく1990年の「アリスフェスティバル」に演戯団コリペの『サンシッキム』を含む3劇団3作品を招請した。

この後も丹羽は呉泰錫(オ・テソク)や李潤澤(イ・ユンテク)など現代韓国を代表する劇作家の作品を中心に、90年代に韓国の7劇団9作品をアリス・フェスティバルを通じて日本に紹介した。

日本の地域劇団の活躍
韓国演劇の「入超」に終わった90年代の演劇交流で、日本演劇の韓国「輸出」を支えたのは韓国の地域演劇祭に積極参加した日本の地域劇団だった。

1991年に三重県桑名市に所在する劇団「すがお」と同県伊賀市の「上野市民劇場」そして「劇団FREE」の3つの地域劇団が春川と馬山で公演をおこない、90年代の地劇団交流の皮切りとなった(『演劇会議』80号p21)。地域劇団の訪韓公演は90年代を通じて総15公演を数えており、これは日本側が行った42公演のうちの約35%に相当する。日本からは富山市の「文芸座」と山口県下関市の「はぐるま座」、「自立の会」や「たけぶえ」そして宮城県仙台市の「仙台小劇場」などの劇団が韓国を訪問した。21世紀に入ってからは「SAKURA前戦」や「たんぽぽ」「はぐるま」などの地域劇団が交流に加わった。韓国からは春川の劇団「混声(ホンソン)」、馬山の劇団「馬山(マサン)」、釜山の劇団「セビョク」と「脈(メク)」、水原の劇団「城(ソン)」、光州の劇団「ノリペ神明(シンミョン)」などが日本を訪問した。特に江原道春川市と慶尚南道馬山市で開催される演劇祭は、日本の地域劇団のタンゴル(馴染み)演劇祭となった感がある。

いっぽうソウルから鉄道で一時間たらずの京畿道水原市で開催される「水原城(スウォンソン)国際演劇祭」や、馬山市よりもずっと辺鄙な慶尚南道居昌郡で開催される「居昌(コチャン)国際演劇祭」にも日本の劇団が入れ替わり立ち替わり訪問した。ところでこれら2つの演劇祭には「新宿梁山泊」や「青い鳥」「パパ・タラフマラ」「ク・ナウカ」など首都を活動の拠点とする、韓国式に言うところの「中央劇団」がおもに招請された。水原や居昌も春川や馬山のような地域演劇祭でありながら、しかし「避暑しながら公演も観て」(慶南新聞、2000/7/24)というように夏の観光客誘致も兼ねていた。このことから演劇祭に招請する日本劇団は、すでにソウルで公演を行ったことのある団体を好んだようだ。

ここでセクタルン(異色の)演劇祭として、1995年に釜山とソウルの2ヶ所で開催された「アジア演劇人フェスティバル」をご紹介する。この演劇祭は「二次大戦終戦50年、解放50年、そしていま」を主題にした行事で、「東北アジア3カ国の地域共同体的紐帯の可能性と和解を強調したベセト演劇祭とは政治的・文化的性格が異なる」と紹介された(ハンギョレ新聞、1995/1/14)。演劇祭を主導したのは釜山に本拠地を置く劇団「セビョク」の李性旻(イ・ソンミン)常任演出家で、彼は「日本の大陸政策の被害を被ったり、西欧列強文化圏に強制編入される文化的状況を経験した国の演劇が招請される」とし、「この演劇祭を通じて日本を除外したアジア地域の第三世界的な状況が読み取られるだろうことを期待する」と語った(前掲の記事)。

この演劇祭に日本からは山口県を拠点に活動を展開する劇団「はぐるま座」が朗読劇『その日はいつか』で参加し、「日本とフィリピンなどの作品は反資本と反帝国主義の強い左派認識を見せて異彩を放った」と評された(ハンギョレ新聞、1995/12/28)。また、はぐるま座の藤川夏子(ふじかわなつこ、1910~2004)は韓国側が企画した合同作品『オモニ(母)』にも日本婦人の役で参加し、「深い呼吸で韓国のオモニと連帯する過程を密度高く展開した」と評価された(前掲の記事)。翌1996年8月に開催された「第2回アジア演劇人フェスティバル」は実行委員が変わっており、新聞記事で見る限りは競演形式の一般的な演劇祭に変貌していた。この「第2回アジア演劇人フェスティバル」には日本から劇団「自立の会」が『おこんじょうるり』で参加した。

「ジーザス・クライスト」の受難
筆者は地域劇団どうしの交流で日本劇団が日・韓のあいだに横たわる歴史的非対称性に起因する非難中傷を受けたという話はまだ耳にしていない。韓国メディアも地域劇団の日・韓交流に関しては言祝ぐ記事ばかりだ。しかし日・韓の政府間文化交流事業の一環として行われ、しかも首都ソウル市を一望する南山(ナムサン)に建てられた「中央国立劇場」で上演される日本作品となると話は変わってくるのだろうか…。1994年9月、中央国立劇場でおこなわれた劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』公演は、「警察官や私設警護員の殺伐たる警備のなかで行われた」という(京郷新聞、1994/9/24)。

劇団四季の韓国公演の雰囲気を理解するには少し時間を遡る必要がありそうだ。1991年8月、もと「日本軍慰安婦」だった韓国人女性が名乗り出たことで「日本軍慰安婦問題」が日・韓を緊張させた。1993年夏に日本政府が「慰安婦」に対する日本軍の関与を認めたものの、すぐさま自民党右派議員らが「歴史・検討委員会」を設置して反論を始める。さらに1994年5月には永野茂門(ながのしげと、1922~2010)法務大臣による「南京事件でっちあげ」発言もあった。この1994年は日本の現代文化を韓国に紹介するという趣旨の「94日本文化通信使」が開催された年であり、同年9月にこの行事の一環として劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』の上演が国立劇場で行われた。しかし東亜日報はこれに先立ち同年2月に社説で「日本文化の受容は慎重に」と警鐘を鳴らしていた。さらには四季のソウル公演の直前に「太平洋戦争犠牲者遺族会」に所属する会員約50名あまりが「戦後処理のない日本文化の流入」に反対すると主張して、国立現代美術館での日本作品の展示を拒否する実力行使を行った。このような経緯から四季の公演は前述したように殺伐たる雰囲気の中で行われることになったのである。

しかし四季の舞台は成功裏に終わり、しかもおおむね好評だった。とは言うものの、やはり国立劇場での上演を問題視する韓国演劇人の寄稿もあった。後に「芸術の殿堂」の理事長を務めることになる女優の孫淑(ソン・スク、1944~)は、日本文化の流入を嫌うのはいまだに未解決の問題が残っているからだとし、「日本が旗を振りながらわが国の国立劇場に入ってきたが、われわれは何をもって彼らの国立劇場の舞台に立つかを考えるべき」だと結んだ(京郷新聞、1994/10/8)。韓国演劇人の国立劇場に対する思い入れや、日・韓間の公式交流に対するこだわりを感じさせる。

さて、同年11月の「第1回ベセト演劇祭」では劇団SCOTの『リア王』が招請された。演劇評論家の李泰柱(イ・テヂュ)はこの作品を「日本の自慢する国際的な戦略作品」で、演出家によるテクスト解体、日本伝統劇の演技法と舞台展開方法、圧縮と縮小の美学で思い切り料理したものだとした(朝鮮日報、1994/11/28)。演劇評論家の金雨玉(キム・ウオク、1934~)もまた「英国の材料をもって完璧な日本料理を作り出した演出家の腕は高く評価されるべき」とし、「実験演劇が何をするものなのかを克明に見せてくれる教科書のようだ」と評した(ハンギョレ新聞、1994/11/26)。これらの劇評はSCOTの舞台を無条件にほめているようには思えないが、SCOTは四季のようなトラブルを経験することは無かった。作品上演の舞台となった「芸術の殿堂」はソウル市の南のはずれに位置する総合文化施設で、全斗煥政権によって1985年から構築されたものである。そしてSCOTが作品を上演した「土月(トウォル)劇場」は、植民地期の朝鮮で新劇運動を展開した劇団「土月会(トウォレ)」の名前を冠した中規模の劇場である。

ところで同年9月、たった3人の男性演技者が舞台上で不条理な「胴馬遊び」を繰り広げる、高堂要(たかどうかなめ、1932~2001)の『どんま』が四季やSCOTに先駆けて、芸術の殿堂「自由小劇場」で上演された。韓国ではそれほど知名度のない劇団による舞台だったが、ハンギョレ新聞(1994/9/10)は「胴馬遊びを行う3人の男たちの葛藤が中心軸。詩的言語で構成された台詞が美しい演劇だ。抑圧される者の抵抗する動きを通じて人間の利己心を告発している」と高評した。この『どんま』韓国公演は高堂と韓国人劇作家の李盤(イ・バン、1940~2018)の共同作業によって実現した。作者の高堂(本名は高戸要)は日本基督教団出版局長などを務めたキリスト者で、イ・バン(本名イ・ミョンス)もまた韓国のキリスト教演劇を開拓したキリスト者であった。高堂とイ・バンの二人は互いの作品を日本と韓国で交互に上演するなど、長いあいだ息の合った作業を継続してきた。

このような20世紀末の演劇交流の盛況ぶりを、韓国芸術総合学校演劇院のキム・ミヒ教授は『文芸年鑑』(2001)誌面で言祝いだ。太田省吾の『更地』ソウル公演(文藝會館小劇場、2000)は「ちょっとした日常を通じて人生の大事な真理を伝える作品のメッセージと、演技者たちの自然な演技が好評を博した」とし、神戸の劇団「道化座」が文藝會館小劇場で上演して盛況だった『幸福』(2000)は「巨大な人生の旅程でなく、平凡な日常のちょっとしたことから素材をさがし出して劇化する日本演劇から学ぶ点は多い」と言及した。

日本演出者協会と日韓演劇交流センターの貢献
筆者は日・韓の劇団がそれぞれ相手国の作品を翻訳・上演することを「戯曲交換」と名付け、舞台交換と同様に分析の単位としている。60年代の戯曲交換は韓国側が福田恒存の『解ってたまるか!』を翻訳上演したに過ぎなかったが、70年代にはとつぜん19作品(日本側18作品/韓国側1作品)に増えた。これは日本の劇団が金芝河作品16本を翻訳上演した結果で、1980年代(日7/韓3)も日本で上演された韓国作品7作品のうち金芝河作品は5作品を占めた。1990年代は15作品(日3/韓12)で韓国側が多く、日・韓が逆転した、この時期に韓国で上演された12作品の半数は柳美里(ユ・ミリ、1968~)と金峰雄(つかこういへい)の作品だった。

しかし1990年には東京に本拠地を置いた劇団「ふるさときゃらばん」の『サラリーマンの金メダル』(1993)が韓国の劇団によって上演されて大好評を得たし、漫画家の美内すずえ(1951~)の作品『ガラスの仮面』(1999)は1999年6月に舞台化され、20世紀から21世紀へとまさに世紀をまたぐ超えるロングランになった。いままで韓国で上演された日本作品と言えば『羅生門』(1976、1988)や安部公房の『友達』(1985、1999)、井上ひさし『化粧』(1982)などであったが、90年代から日本作品に対する視線が変化したような印象を受ける。そして21世紀を迎えて「戯曲交換」は一気に89作品(日20/韓69)を数える。別役実(3作品)や井上ひさし、太田省吾(2作品)、北村想(2作品)、坂手洋二(3作品)、平田オリザ(5作品)などにまじって、三谷幸喜『笑いの大学』や中谷まゆみ『ビューティフルサンデー』、奥田英朗『ドクター伊良部』などが人気を呼んで再演を重ねた。韓国に紹介される日本作品の幅が大きく広がったのがこの時期の特徴である。

このように日本作品の韓国上演が活況を呈することになった背景には、日本演出者協会と日韓演劇交流センターの作業も影響を及ぼしたのではないかと考えている。日本演出者協会は1992年6月に開催した「日韓演出家会議」を皮切りに「日韓演劇人会議」(1996)や「国際演劇交流セミナー」(2002)で韓国を特集し、「日韓演劇フェスティバル」(2009)を開催するなど、日・韓間で息の長い交流活動を行ってきた。韓国側もこれに呼応して、韓国で「韓・日演劇人シンポジウム」(1995)を開催した。また2002年には日本の7つの演劇関係団体の参加で「日韓演劇交流センター」が発足し、韓国現代戯曲の翻訳とリーディング、そして戯曲の出版を行いはじめる。そして韓国側にも「韓日演劇交流協議会」(02)というカウンターパートナーが発足し、さっそく同年に「韓日演劇交流セミナー」を開催した。そして交流協議会による日本現代戯曲の韓国語の翻訳紹介も始まった。おそらくこのような日・韓演劇人の努力が韓国劇界の日本作品に対する関心を喚起するところに一助となったのではないだろうか。

終わりに
「日・韓現代演劇交流(抄)」はいったんここで終わることにする。日本と韓国の現代演劇交流を一冊の本としてまとめてみたいが、いまのところまったく目途はたっていない。そこで、とりあえず敗戦後の日本と韓国のあいだで行われてきた演劇交流のアウトラインを紹介してみたという次第である。演劇交流のデータや劇評などは筆者のウェブサイト「おかやんの演劇講座」に掲載している。そちらも参考にしていただければ幸甚である。

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