お知らせ
進行の状況
6/15「日・韓現代演劇交流(抄)」前編を公開
「日・韓現代演劇交流(抄)」の前編を公開しました。日本リアリズム演劇会議事務局の発行する雑誌『演劇会議』(171号~173号)に連載した記事を、演劇会議編集部の了承を得て転載しました。転載にあたっては演劇関係者以外の読者を想定して加筆しました。
5/16 「犠牲者としての朝鮮人」に『つばめ』を追加
作品リストにジェームス三木『つばめ』を追加ました。2002年8月に秋田県仙北市に本拠を置く「わらび座によって初演された、「朝鮮通信使」を素材にした作品です。
5/13 「犠牲者としての朝鮮人」に記事を追加
作品リストに坂手洋二の「ピカドン・キジムナー」を加えました。2001年2月に栗山民也の演出で初演された作品です。
今後の計画について 5/11
ここに掲載しているドキュメントは私の博士学位請求論文『戦後日本演劇おける朝鮮人・韓国人表象の通時的変化』を土台にして作成しています。分析対象期間が1945年8月から2005年までとなっているのはこのためです。私はこの論文を西江大学大学院新聞放送学科に提出するつもりでしたが、手を付けてから10数年が過ぎてなお完成させることができず…大学院は昨年の春に単位取得満期退学となりました。しかし朝鮮人・韓国人の登場する戦後日本演劇作品のリストを持っているのはたぶん私だけだろうと思うので、noteでの公開という形で再活用することにしました。
先に公開した3つのドキュメント、『協力者としての朝鮮人』と『対立者としての朝鮮人』および『犠牲者としての朝鮮人』は、戦後日本演劇の中からサンプリングした「日本人劇作家の執筆した作品で、朝鮮人あるいは韓国人の登場する作品」のリストです。3つに分けた理由は、サンプリング作品に描かれた朝鮮人の人物形象化が1965年と1990年で大きく変化するからです。このような演劇作品における人物形象化の変化は成田龍一(2010)や吉田裕(2005)、道場親信(2005)、石田雄(2004)、そして吉澤文寿(2009)などの研究が示す戦後日本社会の戦争観・戦争責任観の変化する時期と一致します。おそらく戦争責任や歴史責任に敏感な劇作家が作品の強度を高めるために朝鮮人・韓国人を登場させたのだろうと考えています。これら3つの作品リストをご覧いただいて、敗戦から約60年間にわたるおおまかな朝鮮人表象の変化を把握していただけたらと思います。
今後は個別作品の分析結果を掲載する予定です。
一例をあげると、劇団民芸が1954年6月に上演した『常磐炭田』は1946年1月に脱稿した作品で、労働運動に対する関心喚起を目的にしています。炭鉱で働く日本人炭鉱労働者たちがひとりの日本人労働運動家を中心に団結し、雇用者側からのさまざまな妨害を乗り越えて組合結成に成功する姿が描かれます。この作品に登場する若い朝鮮人炭鉱夫〈朴世哲〉は日本人労働者を「日本の仲間」と呼んで「軍閥官僚や支配階級」(戯曲から引用)と区別し、日本人労働者層の戦争責任や朝鮮人に対する加害責任を免責します。そして朝鮮人労働者と日本人労働者が階級闘争で共闘することを呼び掛けて、意気揚揚と帰国の途に就きます…。しかしこの作品の舞台となった常磐炭鉱の労働現場では「労務監督」や「労務係」などと呼ばれる日本人労働者が朝鮮人労働者に対して搾取と虐待を行っていました(朴慶植、1965)。『常磐炭田』は結果的に日本人労働者の朝鮮人に対する虐待や搾取は不可視のままにしました。この作品に対する分析を通じて、敗戦直後の日本社会の朝鮮人観における問題点を検討します。
また、この作品は日本共産党と深い関係を持っています。『常磐炭田』は1945年10月に常盤炭鉱で起きた朝鮮人労働者による争議に取材した作品です。この争議は1945年10月に活動を再開した日本共産党と、同年10月に全国組織となった在日本朝鮮人聯盟が合同で指導しました。作者の伊藤貞助(1901~47)は戦前から活躍したプロレタリア劇作家で、『常磐炭田』執筆当時は日本共産党の党員作家として活動中でした。伊藤貞助は党からの要請で争議の現場へ赴き作品を執筆しました。つまり『常磐炭田』は日本共産党の要請で執筆された作品と言えるわけです。このことから『常磐炭田』の分析を通じて敗戦直後の日本共産党の朝鮮人観はどのようなものであったのかを検討することも可能だろうと考えます。
もう一例。1949年夏に初演された『アジヤの悲劇』は日本軍部に対する批判を目的にした作品です。「満州国」興安に設置されたペスト防疫所を舞台にして、ソ連軍の侵攻と日本軍の潰走、抑圧されていた中国人(戯曲では「満人」)の蜂起、さらにはペストの流行など、戦争末期の混乱に翻弄される日本人の姿を描いて大きく好評を得ました。とくに1950年に勃発した韓国戦争に対する危機感も作用したのか、この作品は「反戦のメッセージ」として大きく取り上げられ、1951年の末頃まで日本全国の地域劇団や学生劇団がこぞって上演しました。しかし朝鮮人登場人物は日本軍部を批判することにとどまり、軍部・軍人以外の日本人一般もまた軍部の引き起こした戦争に翻弄される「被害者」として描かれています。このことから日本人一般の戦争加害責任を不可視にしました。
このように朝鮮人・韓国人の描かれた演劇作品に対する分析を通じて戦後日本社会の戦争観・戦争責任観がもたらす問題やそのような問題意識の変化を確認することができます。しかし本稿はとくに戦後日本社会が朝鮮人・韓国人をどのように理解していたのか、それはどのように変化したのかを明らかにすることを分析の目的にします。朝鮮人・韓国人を問わず、「在日」を生み出した日本の歴史的責任と向き合うためです。
なお、「日・韓現代演劇交流」に関する資料と情報の提供は、私の運営するウェブ「おかやんの演劇講座」(http://pops.midi.co.jp/~mokmt/)で行っております。こちらもご高覧ください。
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