「日・韓現代演劇交流(抄)」(前編)

はじめに

本稿は日本リアリズム演劇会議事務局の発行する雑誌『演劇会議』(171号・172号・173号)に連載した『日・韓現代演劇交流抄』を演劇会議事務局の了承を得てnoteで公開するものである。再掲にあたっては演劇関係者以外の読者のために既出原稿に加筆した。

本稿は1945年以後の日本と韓国の間で実践された多様な演劇交流の足跡を簡略に紹介することを目的とする。本稿が扱うのは日・韓のあいだで戦後演劇交流の兆しが見え始めた1960年代から、日・韓両政府による交流イベント「日韓友情年」が開催された2005年までである。もちろん「日韓友情年」の後も現在に至るまで日・韓間の演劇交流は継続されている。しかし資料収集と分析が不充分であることから、本稿での言及範囲は2005年までとした。

日・韓の現代演劇交流が本格化する直前の1958年10月、韓国の国立劇場専属劇団による『春香傳(チュニャンヂョン)』日本公演が行われた。芸術団の団長を務めた人物は、かつてソウルの忠正路(チョンヂョンノ)に存在した「東洋劇場(トンヤングッチャン)」の支配人を務めた“獨鵑”崔象徳(“ドキョン”チェ・サンドク、1901~70)であった。芸術団はパンソリの名唱・林芳蔚(イム・バンウル)やコムンゴ奏者の“琴軒”申快童(“クモン”シン・ケドン)に朴貴姫(パク・キヒ/本名・呉桂花、1921~1993)や“春鶯”林終禮(“チュネン”イム・ヂョンネ、1923~75)などの錚々たるメンバーで構成されて、新宿松竹座(9/25~30)をはじめとして名古屋・大阪・神戸・京都・福岡などで上演した。この『春香傳』は演劇評論家のほんち・えいき(1925~89)が「戦後の来日公演ベストテン」(「テアトロ」1975年12月号)のひとつに選んだほどであった。日・韓演劇交流が本格化する前のエピソードとしてここに記しておく。

1960年代の演劇交流

日・韓演劇人の交流
1960年代の日・韓間は個人が自由に往来できる時期ではなかった。日・韓間の演劇交流もまた伝統芸術や民俗芸術分野、あるいは戦前から名前の知られた著名芸術家による交流に限られる傾向があった。たとえば1962年3月に韓国日報の招待で韓国を訪問した日本文化人団体は、1932年に創団した「藤原歌劇団」の団長である藤原義江(ふじはらよしえ、1898~1976)が代表を務めた。声楽家であった藤原は1931年2月6日付けの「朝鮮日報」紙面で「われらのテナー」という愛称で言及されるなど、植民地期の朝鮮でもその名前が知られていた。藤原のひきいる日本人文化人一行は韓国文化人らと交歓し、開館したばかりの「ドラマセンター」を見学したりもした。また同年5月にソウルで開催された「アジア映画祭」の際にも日本映画人が訪韓したが、なかでも池内淳子(1933~2010)と柳川慶子(1936~)の二人の女優がドラマセンターを訪問して現地メディアの関心を喚起した(京郷新聞、1962/5/16)。訪韓日本人らの興味をそそったドラマセンターは、韓国では戦前からの劇作家として名の高い柳致眞(ユ・チヂン、1905~74)が米ロックフェラー財団などから援助を得てソウルの南山のふもとに建設した400席あまりの小劇場である。またドラマセンターは演劇教育のための「ソウル芸術専門学校」を併設した。

いっぽう日本では1963年11月にユネスコ日本本部の主催によって「東西演劇シンポジウム」が東京で開催されたが、これに韓国から前述のユ・チヂンと李海浪(イ・ヘラン、1916~89)が参加した。イ・ヘランもまたユ・チヂンとともに戦前と戦後をまたいで活躍した元老演劇人であった。また東京オリンピック直後の1964年11月に東京文化会館で日・韓合同制作のグランドバレエ『自鳴鼓(チャミョンゴ)』(柳致眞作)が上演された。この作品は敵が来襲するとひとりでに鳴って急を知らせるという伝説の鼓「自鳴鼓」をモチーフにユチヂンが書いた作品で、韓国では劇団「劇芸術協会」が1947年に初演した。『自鳴鼓』日本公演の演出は戦前から名の知られた演出家である青山圭男(1903~76)が担い、音楽もまた戦前から活躍する作曲家の夏田鐘甲(禹鐘甲:ウ・ヂョンガプ、1916~?)が担当した。舞台は当時来日していた韓国人舞踊家の金順星(キム・スンソン)を主演にして、三橋蓮子や北井一郎など日・韓の舞踊家・俳優が大挙出演した。三橋蓮子もまた1940年5月に日劇ダンシングチームの一員として「京城」を訪問した経験を持つ舞踊家であった。

戦後の日韓関係に大きく影響を及ぼすことになる「日韓基本条約」の交渉が大詰めを迎えた1965年5月、「日本児童演劇協会」の栗原一登(1911~94)と北島春信(1927~)の二人が韓国を訪問した。これは後述する韓国の児童劇団「セドゥル(小鳥たち)」との交流によって実現した、日本演劇人による最初の韓国児童演劇の視察であった。この後、1967年には歌舞伎研究家の郡司正勝(ぐんじまさかつ、1913~98)が韓国を訪問し、日本の劇界のようすを韓国に紹介した。韓国では1969年4月に劇団「山河(サナ)」が福田恆存(ふくだつねあり、1912~94)の風刺喜劇『解ってたまるか!』を車凡錫(チャ・ボンソク、1924~2006)の翻訳で『孤独な英雄』(演出は表在淳:ピョ・ヂェスン)として上演した。この作品は「解放後初めて韓国内で上演された日本作品」(東亜日報、1969/4/11)とされた。福田恆存は評論家・劇作家であると同時にシェイクスピア戯曲の翻訳家としても知られた人物で、『解ってたまるか!』は在日韓国人の金喜老が引き起こした「金喜老事件」(1968年2月)を素材にした風刺喜劇である。翻訳したチャ・ボンソクは木浦出身の演劇人で解放後(日本の敗戦後)に演劇活動を開始した人物だが、しっかりした写実主義的な劇作術でユ・チヂンを引き継ぐ戦後の代表的写実主義作家とされた。1924年生まれのチャ・ボンソクは日本語が堪能であったことから、日・韓現代演劇交流における韓国側の推進軸となった。また同氏は韓国演劇協会の理事長や韓国芸術院院長を歴任した文化人でもあった。代表作に『サンブル(山火事)』(1962)がある。

児童劇団「セドゥル」の訪日公演

1960年代の特記すべき演劇交流として、韓国の児童劇団「セドゥル(小鳥たち)」による日本公演を紹介する。韓半島南部の港湾都市「統營(トンヨン)」出身の児童文学者・朱萍(チュ・ピョン、1929~?)を代表として1962年に創団された韓国の児童劇団「セドゥル」は、1963年から1965年にかけて3回にわたる日本公演を行った。最初の日本公演は「日本亜細亜友の会」(現・公益財団法人国際人財開発機構)の招請で、居留民団と東京韓国学園などが後援となって実施された。上演作品はチュ・ピョンの作である『森の花の精』や『うさぎ伝』などで、公演は北九州地方から始まり、関西・関東を経て東北地方までを巡回した。日本公演を終えたチュ・ピョンは東亜日報(1963/10/19)紙面で日本の児童演劇の現況を紹介するとともに、セドゥルの舞台が日本で好評を得たこと、特に成人の演技者ではなく児童が舞台に立って演じるというセドゥルのスタイルが珍しがられたとした。

翌1964年、セドゥルは「日本児童演劇協会」の招請で日本公演を行った。当時の日本児童演劇協会会長であった栗原一登が主導して招聘し、同協会の北島春信の引率によって演劇教育で有名な成城学園で児童たちに見せたという(日本児童演劇協会、2011/4/6)。上演作品は前回と同じく『森の花の精』や『うさぎ伝』などで、これらの作品とともに韓国の歌や舞踊が演じられた。しかし1965年に実施された第3回めの日本公演では「(注:第2回公演で)物議をかもした日本の歌はうたわない」(京郷新聞、1965/11/3)ことにしたという。当時の韓国社会ではたとえ児童劇団であっても日本の歌をうたうことはタブーであったのだろう。セドゥルの日本公演は1965年以後は行われなかったようで、60年代における日・韓の児童演劇交流はこれ以上は活性化しなかった。しかしセドゥルとの交流は日・韓間の往来が容易ではなかった時代に、日本演劇人が韓国演劇に接する機会をもたらした。

日本演劇人の韓国訪問
日韓基本条約の締結直前の1965年5月に日本児童劇協会の栗原一登と北島春信が韓国演劇協会から招請状を得て韓国を訪問した。栗原と北島は約二週間のあいだ、チュ・ピョンの案内で釜山・慶州・ソウルなどで児童劇を見物した。この韓国訪問期間に栗原は日本の児童劇を、北島は日本の学校演劇について講演したという。栗原はこの韓国訪問で得た印象を朝日新聞(1965/6/23、6/24)に「韓国の演劇をみて~上・下」という見出しの記事で掲載し、韓国の児童劇や大学演劇の事情、1962年に開館したドラマセンターなどを日本に紹介した。ところでこの栗原と北島の韓国訪問は、当時の日本児童演劇協会の機関紙には掲載されなかった。日本児童演劇協会ではチュ・ピョンを熱狂的な親日派人士と受け止めていたため、当時の韓国の状況から彼に迷惑が及ばないようにと配慮して機関紙への記載をやめたという(日本児童演劇協会、2011/4/25)。栗原と北島が訪韓した時期はまさに日韓協定の調印直前であり、日・韓双方で調印反対の動きが起こっていたときであった。

70年代の日・韓演劇交流

1970年代に入ると1965年の日韓基本条約の締結による国交正常化と経済交流の活発化によって、韓・日双方で相手国に対する関心が高潮した。韓国側は経済交流に伴って日本の大衆文化が流入することに対する懸念、日本との文化交流で発生するであろう不均衡(文化の入超)にきわめて敏感に反応しつつも、「『徳川家康』の韓国語版が空前の大ベストセラーを記録して日本語ブームを引き起こし」(鄭大均、1995、p15)ていたし、1973年には韓国の高等学校に日本語課程が設置された。日本ではかつて「京城」に暮らした日本人による「同窓会旅行」が1960年代後半に大流行し、その後まもなく「ノーキョー」等による観光旅行ラッシュが起こった。また1974年に韓国から民謡歌手・金セレナが来日して日本の歌謡ファンの関心を集め、1977年には李成愛の『カスマプゲ』が大ヒットした。当時日本では「テレビではアンコールを受けた韓国歌謡をしじゅう放送しており、街のあちこちでは電話講座で韓国語を学ぶことがブームになっていた」(朝鮮日報、1978/7/25)。このように1970年代には既に「韓国ブーム」とも言うべき現象が起きていたのである。

韓国政治状況に対する関心の高潮
しかしこの当時は日本の進歩的知識人のあいだで韓国の政治状況に対する関心が高潮した時期でもあった。まず1970年6月に詩人・金芝河(キム・ヂハ、1941~2022)が反共法違反で拘束されて後に死刑を宣告されることになる「五賊筆禍事件」が起こり、翌1971年3月には大規模間諜団が学園浸透・国家転覆を企図したという理由で韓国に留学していた在日韓国人学生が拘束された事件が起きた。そして1973年8月には野党政治家の金大中(キム・デヂュン、1925~2009)が日本滞在中に宿泊していたホテルグランドパレスから拉致された「金大中拉致事件」が起こり、翌1974年には在日韓国人の文世光(ムン・セグァン、1951~74)がソウルの中央国立劇場で朴正煕大統領を狙撃した「文世光事件」などの政治的イシューが連続したからである。特に金芝河の拘束と死刑宣告は劇団「民藝」と多くの地域劇団による金芝河作品の集中公演という、いうなれば「日本の中の日・韓交流」とでもたとえるべき状況を生み出した。劇作家であり演出家のふじたあさや(藤田朝也、1934~)はこのような演劇状況を「獄中の金芝河とどう連帯するべきかという、本来新劇が担うべき主題を、新劇がさっぱりやらないで、このような劇団(筆者注:京浜協同劇団のこと)がかたくなに守ってやったところにある種の感動がありました」(「悲劇喜劇」1979年9月号)と評価した。また演劇公演ではないが、西鶴研究のために日本に滞在していた米国人クリス・ドレイクが韓国で撮影した演劇作品『静かな部屋』の16ミリ・フィルム上映も、日・韓関係に関心を持つ当時の日本の若者たちを刺激した(毎日新聞「観客うつ“心の叫び”」1978/7/6)。宿を求めた若い男女と宿屋の主人の3人が登場する『静かな部屋』は、「二人は深く愛し合っているのに、宿屋の主人は様々な規則をもしだし無理じいし、二人を心身ともに傷つけたすえ、二人の仲を引き裂いてしまう」という作品で、日本の若者たちは南北分断状況や米国や日本による干渉などという文脈で理解したという(前掲の記事)。

70年代の日・韓演劇交流の幕を開けたのは劇団「状況劇場」による『二都物語』(唐十郎作・演出)のソウル公演(西江大学キャンパス、1972年3月)であった。韓国の「劇会常設舞台」との合同公演という形で行われたこの公演は500人ほどの観衆を集めたし、状況劇場の舞台は「6名の俳優らはよしんば言い淀むことはあっても台詞を韓国語で語って喝采をあつめた」と報道された(東亜日報、1972/3/25)。いっぽう日本では1976年5月に韓国の劇団「架橋(カギョ)」(代表李昇珪:イ・スンギュ、1939~)が東京の恵泉女学園と国際基督教大学などで『平和の王子』を上演した。当時の学園長であった秋田稔(1920~2017)が中心になって実現したもので、恵泉女学園の資料では「キリストの生涯を描いた影絵芝居『平和の王子』を上演し、見るものと演じるものが一体になった感動的な舞台であった」と記録されている(筆者による電話インタビュー、2011)。イ・スンギュは「韓国の文化、特に現代文化についてあまりにも知らないでおり、したがってわれわれの演劇に対しても意外であるという表情だった」(「韓国演劇」1976年6月号)と日本公演の印象を語った。架橋の日本公演は香港・マカオおよび台湾公演の帰途日本に立ち寄ったものであり、公演はキリスト教関係に限られたことから韓国現代劇を広範に日本へ紹介するにはいたらなかった。『平和の王子』を演出した毛眞珠(モ・ヂンヂュ、1919~?)は本名をマーガレット・ムーアという満洲北間島・龍井生まれの米国人宣教師で、その生涯のほとんどを韓国で暮らした人物である。

1978年5月には演劇評論家の藤田洋(1933~2018)が韓国を訪問し、「上昇期迎えた韓国演劇/すばらしい新劇俳優の素質」(朝日新聞、1978/5/10)という見出しの記事で、「美術や照明には幼い部分があるが、俳優の素質はすばらしくて、いま上昇期にさしかかった活力が実感された」と当時の韓国演劇を紹介した。またこの時期には韓国の劇団「現代劇場」の金義卿(キム・ウィギョン、1936~2016)が『風と共に去りぬ』(1978)の韓国上演に関連して日本を訪問したり(注:この韓国公演には日本人技術者が参与した)、また日本ウニマによる「アジア太平洋人形劇祭」(1979年夏)に「ナムサダン」(引率は沈雨晟:シム・ウソン)が『コクトガクシノルム』で参加して評判になったりした。1979年春の劇団「フジ」による『鳳仙花の咲く丘』(直居欽哉・作)の上演は、戦後初めて韓国人演技者が日本作品の舞台に出演したことで話題になった。そして1979年秋には韓国側の提案によって日本の劇団「昴」と韓国の劇団「自由劇場」による相互訪問交流が実践された。このように1970年代の日本演劇と韓国演劇は、じつはそれほど遠い間柄ではなかったのである。それではこの時期にあって意義深い3つの交流実践を詳細に紹介しよう。

劇団フジ『鳳仙花の咲く丘』公演

1979年3月末、日本の劇団「フジ」が東京の砂防会館で『鳳仙花の咲く丘』(直居欽哉・作、田村丸・演出、香山新二郎・制作)を上演した。この作品は韓国の木浦(もっぽ)市に所在する孤児院「木浦共生園」の運営を支えて韓国政府から表彰された尹鶴子(ユン・ハクチャ:田内千鶴子、1912~68)に関する実話をもとに、シナリオ作家の直居欽哉が書き下ろした戯曲である。この舞台に白星姫(ペク・ソンヒ、1925~2016)と鄭旭(チョン・ウク、1938~)の二人の韓国人演技者が出演して話題になった。

シナリオ作家の直居欽哉(1922~?)が韓国に生きた日本女性を描くことになった経緯を紹介しよう。『鳳仙花の咲く丘』が上演される一年前の1978年4月、映画監督の稲垣浩(1905~80)を団長にして菊島隆三(1914~89)など10人の日本映画・テレビ人が韓国映画界の視察のため韓国を訪問した。このときに東京宝映テレビの社長であり『鳳仙花の咲く丘』を制作した香山新二郎と、映画シナリオ作家の直居欽哉も参加した。菊島隆三はこの訪韓時に「韓国演劇協会イ・ヂンスン理事長を表敬訪問し、歓談した」(韓国演劇、1977年5月号)が、これに香山と直居も同行した。直居はこのときに韓国演劇協会副理事長の席にあったチャ・ボンソクから木浦の孤児院「共生園」と尹鶴子に関することを聞かされたのではないだろうか。直居は「軍人でもない一般日本人の中でもアジアの国々のためにその生涯を捧げた者がいたことを知って感動し、このような人物を紹介することが戦争で生き残った自分の使命だ」(韓国演劇、1979年5月号)と考えたという。

ではこの舞台はどのように評価されたのだろうか。韓国側は『鳳仙花の咲く丘』に対して「作家が日本人であるにも拘らず日本批判的で、在日僑胞および日本人の若者に深い感動を与えた」(韓国演劇、1979年4月号)と評価した。また、当時東京韓国研究院の崔書勉(チェ・ソミョン、1928~2020)は「日本人が彼ら自身の演出で過ぎた日の過誤を告発したことや、右翼と左翼の思想の中で一方に偏ることの無い日本人の生理から6・25を率直に扱った」(前掲の雑誌記事)ことを評価した。また、劇団フジの香山代表は「韓国人と日本人の観客が流れる鳳仙花のメロディに涙を流した光景を見て、これこそが韓・日文化交流のほんとうの姿ではないか」とし、公演は大成功だったと語った(前掲の記事)。しかし韓国側の作品に対する視線には、日本側とかなり異なる面もあった。

韓国メディアは韓国人演技者が舞台で韓国語を使用したことや、植民地期に歌うことを禁じられた「鳳仙花」を「ウリマル(韓国語)」で、しかも「東京のどまんなか」(前掲の雑誌記事)で歌ったことを強調した。韓国人演技者が舞台で韓国語を使用したことを韓国メディアが強調する背景には、かつて「日帝時代」に朝鮮人は朝鮮語の使用を禁じられ、当時の朝鮮演劇もまた「親日劇」を強要された経験を持つからである。また『鳳仙花』という歌は韓国人にとって特別の意味を持つ。『鳳仙花の咲く丘』に出演した白星姫が舞台で歌った『鳳仙花』は洪蘭披(ホン・ナンパ、1898~1941)が1920年に作曲した楽曲に金亨俊(キム・ヒョンヂュン、1885~?)が歌詞を付けた歌である。朝鮮近代歌謡を研究した高仁淑(コ・インスク、2001)によれば、「民族の時代精神を隠喩的に表現した鳳仙花の情緒的反応は、絶え間なく、言葉では表せない(歌の)旋律の力にのせたメッセージとなって人々の心に鳴り響いた」という。このように民族感情を刺激するという理由からであろう、『鳳仙花』は「日帝時期、韓国人にも歌うことを禁止した歌」(東亜日報、1979/4/13)となった。そしてペク・ソンヒが「東京のどまんなか」で歌ったことを強調する理由は、かつてこの歌が1942年に東京・日比谷野公園で韓国人声楽家の金天愛(キム・チョネ、1919~95)によってはじめて歌われたことと歴史を重ねているのだろう。このようなことから、香山の言うように「鳳仙花」のメロディを聞きながら日本人と韓国人はともに涙を流したが、しかしその涙の源泉は同じではなかったかもしれない。

劇団「昴」と劇団「自由劇場」の相互訪問公演

1979年秋から冬にかけて韓国の劇団「自由劇場」と日本の劇団「昴」との間で相互訪問公演が実践された。筆者はこの昴と自由劇場による相互訪問公演が日・韓現代演劇交流の本格的な始まりと看做している。

昴と自由劇場の演劇交流は韓国側からの働きかけで始まった。1978年夏、南米ベネズエラの首都カラカスで開催された演劇祭に自由劇場の演出家である金正鈺(キム・ヂョンオク、1932~)が参席し、韓国への帰途に東京に立ち寄った。そして東京のホテルで福田恆存を会って演劇交流を打診して、同氏から演劇交流に対する同意を得たことで始まった(筆者による金正鈺氏へのインタビュー)。同年10月に福田が韓国を訪問して韓国演劇協会の李眞淳(イ・ヂンスン)会長と面会し、二人は演劇交流に関する韓国高位層の協力を得るために政府関係者を表敬訪問したという(韓国演劇、1978年10月号)。このような経緯で交流が始まった。

ところでキム・ヂョンオクが福田恆存を演劇交流の相手として選択した理由は何だったのだろうか。筆者の問いにキム・ヂョンオクは日本の優れた文化を韓国に紹介したかったからだと言う(筆者によるインタビューで)。前述したように1970年代当時の日本では韓国旅行がブームとなったが、日本人男性による「買春ツアー」などが大きく問題視されていたからである。しかし日本語が堪能で日本文化にも理解のあるキム・ヂョンオクは、日本には優れた文化もあることを示したかった。また、福田は演劇人であるが、韓国では既に著名な日本文化人でもあった。福田は韓国芸術院が主催した「アジア芸術シンポジウム」(1973)に当時は京都産業大学の教授職にあった仏文学者の村松剛(1929~94)とともに参加したし、1975年10月開催の「アジア芸術人シンポジウム」には演劇部門で参加して発表を行った。このシンポジウムでの質疑には前述のイ・ヂンスンやイ・ヘランそしてチャ・ボンソクなど、錚々たる韓国演劇人があたったのである(韓国文芸振興院発行の雑誌「文芸振興」1975年11月号から引用)。

韓国に招かれた劇団昴は世宗文化会館小講堂(現在の世宗文化会館Mシアター)で英国作家テレンス・ラティガンの『海は青く深く』(福田恆存・樋口昌弘共同演出)を上演した。この舞台は解放後の韓国ではじめて実現した、日本の劇団による日本語上演であった。一方、韓国の劇団「自由劇場」は東京と大阪などで『何になるというのか』(作朴雨春、演出キム・ヂョンオク)を韓国語で上演した。これは「韓国の新劇が、はじめて日本に登場した」(読売新聞、1979/12/1)公演になった。劇団「昴」による日本語上演は韓国社会に賛否両論を巻き起こしたが、緻密な舞台作りと韓国との演劇交流に対する昴の誠実で真摯な態度が高く評価された。一方、劇団「自由劇場」による韓国作品の上演は言葉の障壁を越えて舞台と客席が渾然一体になったと評された(前掲の新聞記事)。ではこの演劇交流に関する論争と評価をもう少し詳細にご紹介しよう。

劇団昴の韓国公演
昴の韓国公演に対する韓国社会・劇界の反応は多様だった。京郷新聞は公演の半年も前に「韓国劇団の渡日公演と日本劇団の来韓公演はその比重は決して同じにはならない」(1979/5/21)という劇界関係者の意見を紹介した。日本語による上演は「日帝の教育を受けた壮年層が非正常な反応を見せる憂慮もあり、韓国文化に浸透した日本の影響力を見ても、このような日本文化の直接的な流入は特別の文化的関税が必要ではないか」(前掲の記事)という主張である。このような反対意見は公演後にも反復して提示された。たとえば東亜日報は公演直後に「観客、大部分40~50代/日本語、台詞、食い違う評価」(同年10/31)という記事を掲載した。この記事は観客層がふだんとは異なり壮年層が多かったことを見出しで表現し、日本語劇を懐かしがる層が韓国内に存在することを暗示した。公演倫理審査委員の李●●(判読不明)は「会場で日本語で冗談をやり取りしている50代の観客を見て、まだ時期尚早だという考えを堅くした」(前掲の記事)と語った。漢陽大学の柳敏榮(ユ・ミニョン)教授は日本との直接的な文化交流に反対する立場から、韓国演劇は日本が歪曲した形態の西欧演劇を受け入れたものであり、新派劇や商業演劇の被害がいまだに残っていることからあと20年くらいは開放しないほうが良いと語った(前掲の記事)。

これらの反対意見に対し、延世大学新聞放送学科の李相回(イ・サンフェ)教授は「文化閉鎖主義は好ましくない」と語り、また歳の若い観客たちは「まず日本演劇を見ること自体が興味深く、俳優の動作や舞台装置が緻密に作られていて立派だった」と好意的だった。韓国日報の「韓・日演劇交流、好ましいか?」(1979/11/2)という長文の解説記事でも同様の賛・反主張が反復されたが、同紙には演劇評論家の鄭鎭守(チョン・ヂンス)が「無条件開放ではなく、芸術性の優れた作品は相互発展のために互いに交流してみるのがよい」という意見を載せた。また文化界の意見として「日本文化をいつ、どの線から受容するのか公開的に評価するのが良い」という声を掲載した。

韓国演劇協会のイ・ヂンスン会長の考えは、日本との演劇交流によって韓国演劇に不足しているものは何かを知ることができ、また韓国演劇を外国に紹介する機会になるだろうというものだった(朝鮮日報、1979/11/4)。同氏は昴の舞台をそれほど高く評価しなかったが、日本との演劇交流は韓国演劇に与える「日本モノ」の浸透を恐れるのではなく、劣等意識を拭って自信を持ち、日本演劇がどこまで来たのか、どんな点がわれわれのものより良いのかを比較・評価するうえで良い機会であるとした(前掲の記事)。当時の韓国文化広報部は自由劇場と昴の演劇交流を許可したが、「韓・日文化交流に対する方針を立てたことは無く、開放する考えもまだ無い」(韓国日報、1979/11/2)という態度だった。このたびの韓・日演劇交流はあくまでも劇団相互の交渉によって交流が行われたというものが文化広報部の立場だった。

では昴の韓国公演に対する日本側の反応はどうだったのだろう?読売新聞(1979/11/7)は大見出しで「戒厳令の夜「昴」上演」「司令部が許可」とし、「集会・外出禁止の中で」「ただ一ヶ所の上演」であり、「緊張の下、感動広がる」と小見出しをつないだ。つまり朴大統領の死亡によって戒厳令が宣布されたが、韓国側の努力によって公演許可を得て実施し韓国の観客に感動を与えたという、公演前後の経緯が記事の主な内容である。作品に関しては、日本語のわかる40代の観客は「照明、美術を含めてデリケートな舞台作りで、心が洗われた」と語ったとし、日本語の判らない若い世代も「動きを見ていれば細かい心理がわかる。非常にきちっとした芝居で感動した」というものだった(前掲の記事)。言うまでも無いが、日本メディアの記事には韓国メディアが話題にした「使用言語」や「文化関税」等に関する話はまったく無い。

日・韓メディアの公演関連記事におけるもうひとつの大きな違いは、昴あるいは福田恆存の交流に臨む態度への言及である。韓国メディアは新聞や雑誌で昴側の慎重な作品選定に対する態度や、公演期間中に起こった悲劇的事件に対する繊細な対応を高く評価した。韓国演劇人も昴の韓国滞在中の態度を「来韓公演は注意深く友誼に満ちた公演だった」と評価した(「韓国演劇」1980年1月号)。しかし日本のメディアにはこれに類する言及を見出すことはできなかった。

自由劇場の日本公演
では韓国の劇団「自由劇場」の日本公演はどのような評価を得たのだろうか?劇団「自由劇場」は1979年11月20日、東京は「三百人劇場」で公演を行った。自由劇場の上演した『何になるというのか』という作品は韓国の伝承民話を基盤にし、演出と演技者による集団創作という方法で作られた作品である。この作品は1978年の第2回「大韓民国演劇祭」で文公部長官賞を受賞した作品で、不当な死を遂げたコクセとタルレがチャンスン(長生標)になったという韓国の民話に取材しつつも、「前衛的な性格の演劇を西洋的な角度ではなく、わが民俗的角度から受容しようとした点」が評価された(東亜日報、1979/11/8)。はたして日本での評価は言語が障壁になると考えた演出家が動作を強調した演出を行った結果、「見ていて言葉の障壁をまったくと言っていいほど感じず、笑いの場面では韓国人に劣らず笑っていられた。そして、見終わった後、なぜかもの悲しい思いにさせられた」と賞賛された(読売新聞、12/1)。そして記事は昴の『海は深く青く』と韓国作品を比較して、「リアルな舞台を追求することも重要かも知れないが、一方では冒険的な舞台を作って欲しいと思った」と締めくくった。また演劇専門誌「テアトロ」でも「フォークロアに依拠する芝居の意義は認めるべき」(野村喬、「テアトロ」1980年1月号)と評価された。

福田は今回の自由劇場の日本公演を通じて「日本人の韓国に対する無知を壊すことができたのはひとつの収穫」(ソウル新聞、1979/12/7)だったと語り、キム・ヂョンオクは帰国後に「日本は韓国を現代文化不毛の地のように看做しているが、このような韓国演劇に対する偏見をそそいで来た」(京郷新聞、1979/12/7)と語った。自由劇場は東京公演の後に名古屋と大阪でも公演を行ったが、これら2ヶ所の上演作品は韓国作品だけとした。じつは福田が韓国作品のビデオを見て懸念を示したために自由劇場側は仏作品も用意し、東京ではこれら2作品を日替わりで上演したのである。

自由劇場と昴の交流は韓国側の提案によって相互招請・訪問公演という形式で行われ、韓国演劇界と韓国言論によって「政府間(国家間)の公式行事ではないが対等な交流」として認知された。これはその後の韓・日演劇交流にとって幸先の良いスタートとなった。昴の韓国公演のまさにその日に朴正煕大統領が死亡したことでしばらくのあいだ韓国社会は緊張したが、日・韓演劇人の往来は途絶えることはなかった。1980年に入って劇団エヂョトの方泰守(パン・テス)代表や劇作家の呉泰錫(オ・テソク)などの韓国演劇人が日本を訪れ、1981年にソウルで開催された「第5回第三世界演劇祭」には日本から観世能と劇団KSECによる現代劇が参加した。1958年秋の韓国芸術団による『春香伝』公演から約20年間の揺籃期を経て、いよいよ日・韓現代演劇交流は大きく発展しはじめることになる。

(後半に続く)

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