今日学んだことをまとめる記事。「平将門の乱」

初めに


初めまして。いちたにと申します。

突然ですが、私ほとんど文章を書いた経験がありません。

学生時代から、x(旧ツイッター)やインスタグラムを避けて生活しておりました。
「ネットに個人情報上げたら人生終わる!」という意識が深く根付いていたからです。

しかし、ネットがより身近になっていく中で、情報リテラシーも徐々に変化していきました。tiktokやyoutubeのショートを見てみると学生も社会人もみな顔を出して踊っているではありませんか。

乗るしかないこのビックウェーブに!!

ということで、文章の練習がてら記事を投稿します。

記事の内容は、その日学んだこと。
ジャンル問わず、調べたことや読んだ本、気づいたことなどをまとめていきたいと思います。


注意点になりますが、あくまでも素人が調べただけなので間違いが含まれる可能性が非常に高いです。十分にご留意の上、ご閲覧ください。

平将門の乱

今日のテーマは平将門の乱
939年、平安中期に起こった戦です。

平将門は16歳のころに平安京に上り、朝廷に仕えます。

このころ最も力を持っていた藤原家のもとに仕え、
天皇の御所を守る衛士「滝口の武者」になりました。

当時、地方に住む農民たちは課せられた重い税に苦しんでいました。盗賊たちは、収められた税を奪うために、輸送団を襲います。
天皇の御所を襲いに来ることもあったそうです。

それを守る役割が平将門(たいらのまさかど)の役割「滝口の武者」です。
今でいうと警備員さんみたいなものでしょうか。

しかし、あくまでも兵士であり、出世コースからは外れていたみたいです。
桓武天皇の子孫という血筋でありながら、あまり出世できなかったのは、それほど藤原家の影響力が強かったという背景があります。
そのため、平将門は数年後、地元に帰ってしまいます。


地元で人気のあった平将門の噂は徐々に広まっていき、やがてはいろいろな人から頼られるようになりました。
その一人が、藤原玄明(ふじわらのはるあき)です。
税金を納めていなかった藤原玄明は国と対立していたところを、平将門に助けられます。身柄の引き渡しを拒否し、平将門は朝敵となってしまいました。
平将門が助けた理由として、朝廷の政治(重い税や賄賂)への不信感があったようです。そのため「新皇」を名乗り反乱を起こしたのです。

同時期に反乱を起こした男がいます。
名は藤原純友(ふじわらのすみとも)です。
出世コースから外れ、地方に住んでいた藤原純友は海賊を率いて反乱を起こします。

この二人の反乱をまとめて「承平・天慶の乱」といいます。
平将門は関東で反乱を、藤原純友は現在の愛媛県で反乱を起こしたこともあり、「東の将門、西の純友」なんて言われているそうです。

平将門は、小さな争いを繰り返し、だんだんその勢力を大きくしていきました。

二つの方向から攻められた朝廷はたまらず、平貞盛(たいらのさだもり)と源経基(みなもとのつねもと)を雇います。

これにより、平将門と藤原純友は討たれてしまいます。


結局、朝廷に勝つことのできなかった平将門ですが、この反乱はのちの世の中に大きな影響を与えました。

反乱を起こした平将門を止めたのはまた同じ平氏だったからです。源氏もこのころから名を上げました。

武士たちの起こした争いは、中臣鎌足(のちの藤原氏)と中大兄皇子を中心とした「大化の改新」から続く律令国家から、武士の時代へと移り変わる大きな分岐点となったのです。


終わりに


中学生のころに習ったことでも、改めて見てみるといろいろな気づきがあって面白いです。

また、調べたことを記事にしたいと思うので、みかけたらのぞいてみてください。






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