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事実は小説より奇なり-5    Can Amの赤い徒花 Ferrari

 2022.08.05、eBayのオークションで一寸珍しいモデルを落札した。Ferrari 612というFerrariでは当時最大の排気量を誇るレースカー。このモデルの台座には1969年のLaguna Secaに参戦したと書かれていた。しかし資料をみて吃驚仰天、なんとそのレースでは走っていないのだ。

 1960年代、アメリカでは大排気量で規制が緩やかなCan Amが人気を促した。その賞金額は当時のF-1ドライバーをも参加意欲を掻き立てる程のもので、種々の車が参戦した。

 その中でもFerrariはそのエンジンと車体の優秀性で活躍が期待された。しかし結果をみると2位が1回に3位が2回とメーカーとしてはとても誇れるものではない、言ってみれば徒花である。

 Can Am参戦は1966年の第2戦と第4戦にPedro RodrigezがFerrari Dinoで戦ったのが最初、流石に名車のDinoであっても2ℓでは当時4-5ℓのレースカー相手に勝てるものではない。結果は2戦がDo Not Finish(DNF)、4戦が14位であった。

 翌67年、北米のFerrariディーラーNART(North American Racing Team)のLuigi KinettiはFerrari本社に掛け合いCan Am用の車を用意させた。しかしワークスの完全バックアップではなかったので結果は押して知るべし(Chris  Amonとメカニックが2人で戦ったこともあったらしい)。

 2019年におかしなモデルを買ってしまった。Eco Design Ferrari 330 Can Am Laguna Seca 1967とモデルの底に書かれてあったが、この330(67年のLe Mans等に参戦した3.3ℓの330 P4/412 Pをベースにエンジンを4.2ℓに改造したもの)、あるいはP3/P4・P4と言うか67年のLaguna SecaはNo.23がC.Amon、で決勝5位、No.27はJonathan Williamsで決勝8位、ストライブからNARTエントリーと解るが、このモデルはサイドにNo.がないのが不思議。結局、この時代にFerrariはこんな形の車を走らせていたのだと言う完全脇役としての価値しかないが、枯れ木も山の賑わいの絵にはなるだろう。

Eco Design Ferrari 330 Can Am Laguna Seca 1967
サイドにNo.がないのが不思議

 1968 年、Ferrariは第1戦と第2戦にP. Rodrigezを擁して350 P4を走れせた。それがNo.22のモデル。Marsh Models(MM)の製品でよくできているが、それが第1戦のElkhart Lakeなのか第2戦のBridgehamptonなのかが分からない。(いくらFerrariとはいえ、脇役だから写真は分厚い本に数枚しか掲げられていない)

Marsh Models(MM)の製品、両サイドにもNo.が貼られている
これだけでは、どのレースに参戦したかが分からない

 68年の最初こそ前年のマシンを使用したが、この68年にFerrariは612という6.2ℓのエンジンを開発した。1/43モデルはそのお披露目の車で、その後ボディーの中央に大きなウイングが付けられる。この車の開発は大幅に遅れ、1号車のデビューは11月10日の最終戦であるLas Vegas、ドライバーはC.Amon、結果はDNFであった。

Ferrariは612(6.2ℓ) (Provence Moulage製)
記者発表の車、レースではロールバーの後ろにウイングが付く

 この612は69年になって大幅に改造された。エンジンの排気量は6.7ℓに拡大され、車重は前年の車より100kg以上軽くなったとのことであった。この年ワークスはF-1と耐久戦用の512Sの開発に忙しく、また資金調達が上手くいかず、C.Amonが自ら資金を出し、ワークスから車を借りる形式だったようだ。しかし改造の結果、車は実力を発揮しこの車の初戦であるCan Am第3戦のWatkins Glenで3位、第4戦のEdomontonでは2位、第5戦のMid-Ohioで3位と、期待が寄せられた。しかしその後はエンジンの油圧系統や燃料ポンプや潤滑系のトラブル続きでDNFの連続。第7戦はP. Rodrigezが3ℓの312Pで出走する始末。結局C.Amonはこの年限りでFerrariを離れ、612のプロジェクトは実を結ばずにおわった。(これが徒花の所以)

BBR製のFerrari 612 (6.7ℓ)、ウイングが一寸小さい

 このモデルが出走したとされる第9戦のLaguna Seca、メーカーのBBRはここで走ったとされるが、資料では恐らく予選で破損し、スペアのMcLaren M8Bで参戦し予選はNo Time、決勝はデフ破損でDNFと記されている。モデルを見るとウイングがその前までのものより小さいのが気になっていたが、その写真はどの資料を探しても不明、まさかBBRが勝手に変えたとは思えないので多分モデルの様な格好であったとも考えられるが、何しろ本戦は出走していないので、なんともいえない。(さらにアメリカより届いた品は車体がラップでグルグル撒きにされ、それがケースの上箱に付着し、剥がしたときは台座の皮様の布が剥がれる始末、オークションにでたモデルとは著しい違いでガックリであった)(因みにBBRとはイタリアのミニカーメーカー、創始者3人の頭文字をとってBBRと名付けた1984年創業、 Ferrarの公式メーカーとしても活動しており、高価でマニアからの評価も高い。しかし中古とはいえ、台紙の剥がれが酷いのにはガッカリしたが、それも一興か)

台座の皮模様が擦り切れ・剥がれ・無残な姿
以前の大きなウイング(資料より)

 1970年、ワークス(NARTなどの準ワークスも)は参戦せず、プライベート・チームが散発的に参戦した。70-71年頃は世界耐久選手権でWatkins Glenに出場し、その翌日に同じコースのCan Amにも参戦した様で、Can Amの写真にはPorsche 917やFerrari 512S、あるいは612の車体に512のエンジンを積んだ512Pなどという車も走っている。特にMark Donohueの512Mは多数のPorscheやCan Am車相手に丁々発止のレースを展開し、やんやの喝采を得たといわれている。(You Tubeでみることができる)

 1971年、この年のCan Amには久し振りにワークスから712P(あるいは712M)と呼ばれる車が参戦した。512Mの上半分を取り去り、612とは異なった7ℓのエンジンを積んだ車。4戦のWatkins GlenにMario Andrettiが駆って参戦、予選5位で決勝4位と結構な成績を残したが参戦はこのレースのみなのは理由が分からないとされている。このレースには前述のMark Donohueが参戦し上位を走っていたがDNF、同じ512Mを駆ったSam Poseyが6位入賞を果たしている。

このSam Poseyについては、拙文「レアモデル列伝-9:Sam Posey & CaldwellD7」をご一読願いたい。

Ferrari 712P(EDICOLA製)(参考資料より)
 Mark Donohueが駆った1971年のSUNOCO Ferrari512M
No.6はアメリカ本国の耐久レースの出場車(MG Models)、No.11はLe Mans出場車(TSM製)
Sam Poseyの駆ったNARTのFerrari 512Mの 1971年Le Mans出場車(TSM製)3位は512Mの最高位

 1972年、Jean-Pierre Jarierが512Mで3戦と5戦に参戦したが、10位と4位に留まった。
 1973年、Sam Poseyが第8戦のRiversideに512Mで参戦したがDNFの記録がある。
 74年になって、第3戦のWatkins GlenにBrian Redmanが NARTから8.5ℓの712P(712M)で参戦したが、リアサスペンション破損でDNFであった。

Brian Redmanが NARTから参戦の8.5ℓ  712P(712M)(Provence Moulage製 Italy) 

 結局Ferrariはこの74年限りでCan Amを撤退している。

 表題の徒花とは仇花とも書き、咲いても実を結ばない花、むだばなとのこと。

5台の徒花(ワークスが本腰を入れれば実を結んだ可能性大)

資料
檜垣和夫著 SportCar Profile Series-3  フェラーリ 二玄社 2007
Pete Lyons   CAN-AM    Motorbooks International   1995


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